四章、お菓子と喧嘩
第12話
「かりーん? 今日も出かけるの?」
「うんバイト!」
「そっか。いってらっしゃい。今日は晩ごはん作って待ってるから、早く帰ってきなさいね」
翌日、土曜の朝。家を出ようとしたら、起きて廊下に出てきたお姉ちゃんと鉢合わせた。こんな時間から起きていることと、掛けられた言葉に笑みが溢れるのが抑えられない。
「うん! いってきまーす!」
お姉ちゃん、今日は元気なんだ。嬉しいな。お姉ちゃんはアタシより作れる料理の種類が多いし、おいしい。きっと久しぶりだからって、アタシの好物ばかり作ってくれるはず。帰ったら食べながらゆっくり話そう。
元気な日は珍しいから一緒にいたい気もするけど、こんな日こそ安心して家を空けられるから稼いでこないと。いい天気にますます口角を上げて、思いきり自転車のペダルを踏み込んだ。
「志賀ー! おはようございまーす!」
休憩中、の札しか掛かっていないことを確認してノックの後に勢いよく事務所のドアを開けた。コーヒーカップを持って立っていた志賀が目を丸くする。
「おはよう。びっくりした。今日は随分元気だね、日野さん」
札を営業中に回しておいて、と言われてドアの外にもう一度顔を出しながら、アタシはちょっと恥ずかしくなった。あんまりいい気分だったもんで態度に出過ぎてしまった。
「十時になったら、昨日の浮気調査の依頼人が報告を聞きにくるよ」
志賀は淹れたばかりだった自分のコーヒーをテーブルに置いて、アタシのを用意しようとするので止めて自分で牛乳を温める。
「そっか」
そういえば、志賀はいつもブラックコーヒーで、牛乳を入れている様子なんてないのにいつも冷蔵庫には入ってるよな。小さな冷蔵庫の中は他にはほとんど何も入っていないガラガラ具合なのに。
「依頼人が来たら、紅茶と焼き菓子をお出ししてくれる?」
「はい。他には? 依頼は入ってないの」
「今のところはないね。日野さん、暇潰しは持ってきた?」
「まあ……」
スマホアプリがあれば幾らでも時間は潰せるけれど。土曜だっていうのにそんなに暇で、アタシの時給まで払って経営は大丈夫なんだろうか。短時間で必ず仕事を成功させる志賀の秘密や、生活に困らない支援状況を知った今でも何となく心配になってしまう。あんまり暇のようなら、今日は帰らせてもらってもいいかもな。
コンコン。磨りガラスの向こうに人影が映り込んで、ノックが聞こえた。アタシは立ち上がってドアを開ける。
「こんにちは」
金髪女が目の前に現れたので、女性は面食らったようだった。
「こ、こんにちは。先日依頼していた……」
女性は私の奥に志賀を見つけ、安堵した様子になる。
「どうぞ。お入りください」
志賀は物腰柔らかにソファーを指し示した。アタシはキッチンに立って、ティーバッグにお湯を注ぐ。
「驚かせてすみません。彼女は助手なんです。昨日も調査を手伝ってくれました」
「どうぞ」
女性の前に紅茶と焼き菓子を置くと志賀がアタシを紹介してくれた。
「そうでしたか。ありがとうございます」
女性に会釈を返して部屋の隅に立つ。そういえば、出会ったときから志賀はアタシの金髪に何も反応したことがないな、と思った。褒められたこともないけれど、驚いたり嫌な顔をされたりしたこともない。
考え過ぎか。単に他人への興味が薄いだけかも。昨日志賀の秘密を知ったせいか、今日は今まで気にしていなかったいろんなことが気になる。この事務所が妙に居心地良いのは、物静かな志賀が一つ一つ気を回してくれていたお陰なんじゃないかって。
「こちらが昨夜撮ったご主人と浮気相手のホテルから出てきたところの写真です」
「ああ、本当に……本当に主人は浮気をしていたんですね……」
志賀が画像を見せると、女性は口元をハンカチで抑えて一粒の涙を流した。志賀は相変わらず表情一つ変えずに見守るだけで、気の効いた言葉は掛けない。
「活動時間が……で、費用は……円です」
「ありがとうございました」
女性はお礼と共に言われた代金を支払い、事務所を早々に去っていった。紅茶も焼き菓子も手付かずだがそんなものだろう。志賀から、依頼達成後になって支払いを渋られたり値切られたりすることもあると聞いていたから一安心だった。
「お疲れ! 一件落着だな」
ドアまで見送っていた志賀に声を掛け、紅茶とお菓子を片付ける。
「うん。ありがとう。日野さんもお疲れさま」
振り向いた志賀は微笑んだ。
「コーヒー、もう一杯淹れる?」
「あ、うん……」
アタシに頷いた志賀がソファーに戻ったときに動きを止める。
「あー、落とし物だ」
志賀が床に長い手を伸ばして拾い上げたのはイヤリングだった。見覚えがある。
「さっきの人のじゃん」
「うん。俺届けてくるよ。すぐ戻る」
「ほーい」
志賀の能力を知った今となっては、電話をした方がいいんじゃないかなんて思わない。すぐに相手を見つけるだろう。
「ただいま」
数分後にその声を聞くまでは、アタシは鼻歌を歌いながら洗い物をしていた。蛇口のお湯を止める。
「洗い物ありがとう。コーヒーも」
志賀は息を吐きながらソファーに身を沈め、アタシの置いたコーヒーに口を付けた。休憩するのかと思ったらやっぱり作業をしたくなったらしく、カップを持ってデスクに移動する。今度はアタシがソファーに座り、志賀の背中を見た。
「志賀ァ」
「どうしたの」
すぐに振り向く。
「なンかあった?」
唐突な質問に、志賀はきょとんとした。
「へ? 何で?」
「戻ってから大人しいから」
「俺が静かなのはいつもでしょう」
志賀は笑って後ろにあるコーヒーに手を伸ばし、口を付けながらそのままパソコンに向き直った。その仕草でむしろ確信を持つ。なんか話したくないことがあったときのお姉ちゃんにそっくりだ。
「人の秘密なら無理に聞き出したりはしないけど。話せば楽になるンだから愚痴くらいは聞く」
「何もないって」
今度はもうこっちを向かない。
「ふーん。じゃあさ、出かけよ! 駅前のトゥンカロン食べに行こ!」
「とぅん……? 嫌だよ、外に出るの。疲れる。日野さん、今日は上がりでいいよ」
上がりでいいって言われて、こんなにも嬉しくないのは初めてだ。こんなにいい天気なのに。だって、今帰ったら絶対に思い出す。今頃、志賀は一人事務所でパソコンに向かってるのかなって。
「嫌だ!」
「雇い主が言ってるのに嫌って何だ……」
志賀は狼狽してキーボードの手を止めた。隣りに仁王立ちしているアタシを見上げる。
「この、引きこもり! 世間知らず! トゥンカロンも知らないンだろ。今アタシに教わらなかったら絶対後悔するンだからな! そのうち依頼にも困るンだから」
「嘘、そんなに大事なの。とぅんかろん」
志賀が立ち上がって、内心笑った。トゥンカロンを何だと思ってんだ。どんだけ情弱なんだって。でも、渋々コートを羽織りながら志賀の顔が「仕方ないな」とでも言うように笑っていたから、我儘なアタシに合わせてくれているだけかもしれない。志賀は優しいから。
「行こ! もうすぐ開店しちゃう。あそこ混むンだ」
「はいはい」
志賀がドアの札をくるりと休憩中に回して、鍵を掛けた。
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