第11話

「何か飲む? 別に今日じゃなくても、また今度暇なときに話したっていいけど」

 いざ事務所に着いてみれば事故現場を見た動揺からはだいぶ落ち着きを取り戻していて、ひたすら失態を見せたことへの羞恥心が募った。別に、日野さんが聞いてこないなら話さなくてもいいんじゃないか、と先延ばしにしたくなる。

 俺は、怖いのか。鞄を下ろし、コートをハンガーに掛けながら思った。ここへ来て、秘密を明かすことに怯えているんだ。このことを自分から話すのは、本当の本当に初めてだと今更気付く。

「コーヒー! ちょうだい。聞くよ、今日。まだ日付が変わった訳でもあるまいし」

 思考は日野さんの高い声に遮られた。ソファーに膝立ちになって、背凭れから身を乗り出してキッチンに立つこちらを見ている。

「了解」

 今日はコーヒーなのか。てっきりホットミルクだと思っていたので、少しだけ意外に思いながら並べたカップに二人分のコーヒーを注ぐ。

「砂糖とかミルクは?」

「んー……要らない」

 彼女の前にカップを置いた。

「ありがとう」

 そう言って、彼女は俺が話しはじめるのをじっと待っている。腹を括って、彼女の前に腰掛けた。

 とても信じてはもらえないかもしれないんだけど、と前置きする。

「俺は去年まで、施設で暮らしていた。そこにはベッドも食堂も運動施設も教室もあって、外の学校へ通うこともなく、俺の世界はその中だけで完結してた」

 人に話すのが初めてだから、どこからどんな風に話せばいいのかも分からない。当時の生活を思い出してローテーブルに目を伏せる。ここから先を、話すのが怖い。

「その施設は、ただの子供を保護する場所じゃなかった。そもそも、俺の家庭は普通で、俺には両親も、弟もいた」

 去年施設を出たときに一度会ったきり、会っていないけれど。お互いに二十年近く離れていたものだから、どう接していいか分からなかった。

「……人体実験の被験者たちを観察するための施設だったんだよ。体外受精で超能力を付与された子供たちばかりが集められていた」

 一息に言って、日野さんを見た。彼女は神妙な顔をして、俺の次の言葉をただ待っていた。その大きな瞳に怯えも嘲りも浮かんでいないことに、俺はひどく安心した。そうだ、そういう人だと思ったから話すと決めたんじゃないか。

「全部本当の話だ。触れずに物体を動かせる奴も、手から火を出せる奴も、触れるだけで怪我を治せる奴もいた」

 まるで物語のような話。誰もが一度は夢見るのかもしれない。だけど、実際はそんな良いもんじゃない。

「やり方なんて詳しくは知らない。俺たちは体外受精の際に両親の同意もなく勝手に実験を行われ、超能力が発現する遺伝子に組み換えられた。そして大体の子が五歳までには能力が現れ、一般社会ではうまく適応できなくてその施設に預けられる」

 今でも覚えている。知るはずのない出来事を俺が話したときの、両親の怯えた顔。

「最初は、超能力を生まれ持ってしまったから仕方ないんだ、施設はこんな不気味な俺たちを保護してくれてるんだ、って思ってた。だけど違った。そもそもが全部研究者のせいだったし、俺たちは訓練の名目で施設内でも非人道的な実験をされ続けているモルモットでしかなかった。

 外の世界と行き来するどころか得られる情報も制限されてはいたけれど、大人になるにつれていい加減分かってくる。あそこがおかしいって。このままじゃ実験で殺されると思って、俺は数人の仲間と逃げ出した。幸いなんとか逃げおおせて、施設の窮状を外に伝えることができた。国は何にも知らなかったよ。施設は精神病院だと思われていた。研究者は一斉に摘発されて、他の子どもたちもみんな保護された」

「そんな、大ニュース一度も……」

「知らなかったでしょう?」

 目を丸くしている日野さんに笑いかける。

「報道されれば、俺たち被害者のことも話題になって更に迫害を受けるかもしれない。犯罪者を追求することも大事だけれど、被害者を守るために全て秘密裏に処理されたんだよ」

 損害賠償など、まだまだ代理人による裁判はこっそりと行われるらしいけれど、とにかく被害者が平穏に暮らしていけることが最優先された。それぞれの望む生活環境や職業が用意され、慣れるまでは金銭的支援も。神楽署の小清水さんは、俺が探偵になりたいと言ったから仕事のないときの斡旋役として指名された人だ。

「志賀の、能力は」

「物体に触れることで、物体の見ていた過去の映像を見ることができる能力」

 例えばね、とデスクの引き出しからサイコロを取り出した。友人が遊びに来たときの忘れ物を仕舞っていたのを思い出したのだ。ローテーブルにサイコロの一の面を上にしてこん、と置く。

「このサイコロに触れるとする。目を閉じれば、俺はこのサイコロが見ていた景色を全て遡ることができる。まあ、今は当分の間デスクの引き出しの中の木目しか見えないんだけど。

 でももし、しばらくこの状態でテーブルの上に置いてあったとしたら、俺は一の面も二の面も、三、四、五の面も含めて全ての面から見えていた景色が見える。ただし、六の面はテーブルに接しているから、何も見えない。分かる?」

 普通の人は持っていない感覚を説明するのは難しいけれど、日野さんは頷いてくれた。

「昔の記憶ほど遡って辿り着くのには時間が掛かるけど、触れている間はどこまででも遡れる。視覚だけじゃなくて、その物の体験した嗅覚や聴覚、触覚も味わえる。俺の意思に関わるのは遡る速さや回想を止めたり再生する位置だけで、見る見ないは選べなくて素手で触れれば必ず見てしまう。だから無闇に人の事情を覗かないように、なるべく物に触らないようにはしてるんだけど」

 そうは言っても不気味だよな。全ての説明を終えて、俺は言葉を切った。自分で聞いても言い訳じみている最後の付け足し。持ちたくて持った訳じゃないけれど、不躾な能力だと分かっている。例えば今日着ている服に触れるだけでも、見ようと思えば今朝部屋で着替える直前に裸になったところも見ることができるのだから。

 日野さんがはー、と長く息を吐いた。聞き入っている間ずっと姿勢を変えていなかったようで、太腿の下から引き抜かれた両手はソファーとの間に挟まれて赤くなり変な痕が付いていた。

「すごいな」

 日野さんが俺に笑う。何を言われるのか見当も付かなかったけれど、絶対に予想していなかったような一言で俺は面食らった。

「一体どうやって対象を追っているのかと思ったら想像してたよりずっと便利だし、それを人の役に立てているなんて偉い。アタシならそんな酷い目に遭ってようやく解放されたんだから、もっと自分のためだけに使う」

 日野さんは自分が能力を持ったことを想像したのか、悪戯げに笑い続けた。

「志賀は辛いだろうからこんなこと言っちゃいけないのかもしれないけどさ、世界は志賀がこの能力を持っててくれてよかったよな!」

「初めて言われた。未来が見えるのと違って過去は変えられないし、俺は見るだけで何もできないから」

「何言ってンだ。猫も浮気野郎も見つけただろ」

 日野さんが本当に不思議そうにきょとんとするので、俺はようやく笑った。

「日野さん、怖くないの。不気味がって辞めるかなってちょっと思ってた」

「知らねェのか。ヤンキーには怖い物なんてないんだぜ」

 何だその理論。冗談めかして笑いながら胸を張る日野さんにますます笑う。

「日野さんがこの能力持ってても、ちゃんと人のために使いそうだけどね」

 散々傷付けられても絶対に猫を離さなかったり、依頼人の喜ぶ顔だけで満足そうにしていたりする人柄なのはもう知っていた。

「はー? いーや、絶対に自分のために使うね。姉貴の物触りまくる」

 何だその宣言。話し終わった後にこんなに笑うなんて、想像もしていなかった。日野さんはやっぱり変だ。

「あ、コーヒー」

 帰る支度をしようとして淹れたコーヒーを飲み忘れていたことに気づいたらしく、日野さんが座り直す。

「いただきます」

 やけに緊張した面持ちでカップを持ったと思ったら、一口含んだだけで舌を出した。

「にっがー……」

「えー。飲めないの。いつも牛乳なのに何で挑戦したんだか」

 呆れて渋い顔で黒い水面を見つめている彼女を眺める。俺のはとっくに飲み干していた。

「だって」

 彼女は俺を見て、またカップに視線を戻した。何なんだ。

「酸っぱぁ」

 また一口飲んでは顔を顰めている。一向に減る気配がない。

「残していいよ」

「いやだ」

 ため息を吐いた。

「ブラックなんてまた一番飲みづらいでしょ。砂糖と牛乳も入れれば」

 キッチンから取ってきて目の前に置いてやる。彼女は観念したように手に取って、両方ともどばどばと入れていた。すっかり白っぽくなって、ほとんどコーヒーの味なんてしないだろうと思う。

「無理する必要ないでしょうに」

 彼女が不満そうにカフェオレを飲むのを俺は最後まで眺めた。行動原理がちっとも分からない。

 普段辛い現場を見たときは夜眠るときに目を閉じれば必ず思い出すのに、今夜は彼女のころころ変わる表情ばかりが浮かんで思い出さなかったな、と翌朝になって思った。

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