第10話

過去を遡るのにかかる時間はホテルに近づくにつれどんどん短くなっていて、対象がホテルに入ったのは俺たちが辿り着く直前だったと分かっていた。出てくるまではしばらく掛かるだろうし、どこか喫茶店にでも入っていたいところだけど生憎出てきた瞬間を逃したくないのでそう悠長にはしていられない。

 俺が対象に見られずにホテルの入口を監視できる位置に足を止めたので、目線の先を追って日野さんも気が付いた。

「あそこに入ったの」

「そうだね。出てくるまで待とう」

「出てくるときは、相手の女の人とタイミングずらしたりするんじゃない」

 なかなか鋭い。

「まあ……単身だとしても、既婚者がラブホテルから出てくるところを押さえられれば充分でしょう」

「確かに」

 活動時間が長引けば依頼料も上がるので、そこは依頼者の要求次第だ。今日撮れた写真を見せた上で明日相談すればいいだろう。

「写真を撮るときは、大体スマホ。充分に高画質高性能だし、今どきは何よりこれを持っている方が目立たない」

 どんな隠しカメラを持ち歩くより、スマホを堂々と持っていた方が怪しまれないのだ。木を隠すなら森の中、と日野さんに暇潰しがてら職務内容を教える。

 果たして、対象は女性と親しげにホテルから出てきてくれた。そろそろ立ちっぱなしの足も痛むし、日野さんも欠伸が出るほど眠たそうなので早めに出てきてくれてよかった。

「ふあ……ごめん」

「いいよ。昼も働いて疲れてるでしょう。日野さんがいてくれるだけで職質もされなくて助かってる」

 無事に撮れた写真をさっと確かめて保存し、もう用はないので帰路につく。対象がこれ以上あの女性とどう過ごそうが、それは俺たちの関与することではない。依頼者が、今この瞬間も眠れない夜を過ごしていたとしても。

「職質……。志賀もよくされンの」

 日野さんは意外そうな顔をしてちょっと笑った。

「周りからは職業のよく分からない人間が昼夜を問わず目的もなく街をうろうろしてるようにしか見えないからね。そんなにしつこくはされないけど、しょっちゅうだよ。『も』ってことは、日野さんもよくされてるの」

「アタシは補導。学生と間違われンだ」

 日野さんはけっ、と吐き捨てた。嫌そうなので言わないでおくけど、その顔じゃ仕方ない気がする。メイクはきついけどパーツは齢二十四にしてはかなりの童顔だ。

「免許証見せれば一発で引き下がるけどな」

 彼女にとっては慣れたものらしい。俺もそのくらい堂々と対応すべきかもしれない。いつもなかなか時間を食ってしまって困るのだ。やましいことはないから振り切る訳にもいかないし。

 もう今日は上がりだけど日野さんは荷物のほとんどを事務所に置いているので取ってから帰るのだそうで、二人で夜道を歩く。繁華街の夜は明るくて、彼女の金髪がネオンの間を縫ってきらめいた。

「あ……」

 俺は足を止める。彼女は気にも留めなかったようで、俺を置いて少し進んでしまってから振り向いた。

「どうした?」

「ちょっとだけ待ってくれる?」

「いーけど」

 不思議そうな日野さんに答えて、俺は道端に立て掛けられた真新しい看板を見ていた。

『10月7日、午前0時ごろ、交差点で発生した白い軽自動車と歩行者の交通事故の目撃者を探しています』

 手書きで空白部分を埋める形で書かれた、事故の目撃証言を求める看板。普段は通らない道だから知らなかった。一歩近づく。

 看板が立てられたのは当然事故の後だ。だから、看板に触れても意味がない。記憶を辿るなら、元々この場にあった物。そう、花束の供えられた、強い力によってひしゃげた道路沿いの柵。

 握る。右手に冷たい金属の感触。そして、瞼の裏を一気に流れていく、この鉄柵の見ていた光景。発生時刻は分かっているから簡単だ。ビデオデッキを巻き戻すように、一週間前を狙って遡ればいい。そこから、また見たい部分を再生する。

 しとしと、と雨が降っていた。夜中に悪天候なのも相まって、人通りがない。だから、その人だとすぐに分かった。黒のスーツを着て、ビニール傘を差した急ぎ足の女性。パンプスの音が一人分だけ響く。アスファルトを踏む軽やかな音と、水溜まりをつくりはじめた雨音。

「来ちゃだめだ!!」

 交差点を渡ろうとするのが見えて、思わず叫ぶ。来ちゃ駄目。来ないで。どうか、どうか。だって、きみは。

 そこに、突如ライトが差し込んで急ブレーキが鳴り響いた。彼女の悲鳴は聞こえなかった。飛んでいくビニール傘。強い衝撃とともにぶつかってくる体。車。鉄柵との間に挟まれて、ひしゃげて。柵を掴んでいた自分の手に、血飛沫が降り掛かるのを見る。ゆっくりと視線を下げれば、真っ赤な液体の中に、目玉の白。

「志賀! 志ーー賀ーーー!!!!」

 ぐわんぐわんと揺さぶられて、鼓膜を爆音がつんざいた。

「志ー賀ーー!!! 目開けろ!!」

 ぐい、と柵を掴んでいた手を離される。瞼の裏の光景が消えて、真っ暗になる。目を開いて、視界いっぱいに日野さんのでっかい目。

「はい、日野さん」

「はい、じゃねェ。何回呼んだと思ってンだ」

「……でも、俺考え込んでるときに呼び戻されたの日野さんが初めてだ」

 普段は自分から見るのを止める。それまで何も聞こえないのに、声が聞こえて無理矢理中断させられたのは初めてだった。

「マジ? 声枯れるほど叫ンだぜ。これでやめなかったら蹴り飛ばしてでもやめさせようかと思った。その『考えごと』」

 そうは言うものの、日野さんはいつのまにかアスファルトに膝を着いていた俺を蹴り飛ばす様子はなかった。腕組みして見下ろす目はひどく心配しているように見える。

「ごめんね」

 誤魔化し笑いを浮かべて謝ると、彼女は眉間に皺を寄せた。

「謝らなくていいけど」

 どんな考えごとだよ、と呟いたのが風に乗って聞こえている。

「俺、どんな感じだった?」

 膝を叩いてゆっくり立ち上がった。

「『来ちゃだめだ!』って叫んだかと思ったら真っ青で冷や汗だらだらかいて、吐きそうになりながら崩れ落ちた」

「そりゃあ……」

 怖かっただろう。雇い主が目の前で突然半狂乱になったら。大失態だ。

「日野さんがいてくれなかったら通報待ったなしだっただろうね」

 自分に呆れてそんな言葉しか出てこない。

「全くな」

 そして日野さんもそれ以上何も言わずに、俺が立ち上がったのを確認するとさっさと歩き出した。

「何で聞かないの」

 つい呼び止める。どうして何も尋ねてこない。不気味だろう。気になるだろう。俺が何をしているのか、何ができるのか。

 日野さんは立ち止まって振り向いた。

「誰にだって聞かれたくないことはあるだろ」

 日野さんにも? とは、聞かなかった。目の前でこうして何度も見せつけておいていつまでも隠すつもりなんてなく、いずれは話すつもりだった。彼女の人柄を見極めた上で。でも、もう充分に分かってしまった。話したいと思ってしまった。迷惑を掛けたからとかそんなまともな理由じゃなく、もっと男らしくない感情で。

「話すよ。だから、事務所まで戻ってから少し時間くれる?」

「予定ないって言ってンだろ」

 つっけんどんな返事にちょっと笑って、スマホを取り出す。神楽署の小清水さんに掛けた。俺が車のナンバーや事故の詳細を話すのを、日野さんは黙って前を見ながら聞いていた。

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