第9話

日野さんは見た目がこんなにヤンキーなのに真面目だ。

 ソファーで静かにスマホを触る姿を盗み見ながらそう思う。直情型だし暴力的だけど、雇ってみれば仕事に対する姿勢は至極真面目だった。

 困っているお客様のためになら一生懸命に自分のできることをするし、仕事を割り振られなくても自ら見つけ出してホームページまで作ってくれたりする。いつも別のアルバイトが終わってから急いで来てくれているようだから、余程お金に困っているんだろうけどこちらとしても空いた時間に入ってくれるだけで助かっていた。特に今日みたいな仕事は。

「行こう」

 ショルダーバッグを斜めに掛けて声を掛ければ、日野さんは機敏に立ち上がる。事務所を閉めて歓楽街を抜け、一つ隣りのオフィス街へ。

 今日の依頼主は四十代の女性。離婚のために、夫の浮気の証拠を掴んでほしいとのことだった。仕事終わりに尾行を開始する。日野さんのいない昼間のうちに、毎日七時を過ぎてから退勤することは掴んであった。

 「そこのビル?」

 日野さんが囁いてくる。

「そう。反対側の歩道から見張ろうと思って」

 建ち並ぶビルの入口に被らないように気を付けて、目標が出てくるはずの出口を見つめる。

「日野さんはいつもお弁当作ってるの」

 出てくる前に事務所でおいしそうに食べていたのを思い出して尋ねた。歩道の端で一点を見つめて気まずそうに黙っているカップルは目を引くけれど、楽しそうに話し込んでいれば誰も気に留めはしない。日野さんにも尾行の時はカップルのふりをしてほしいと伝えてあるから、愛想良く答えてくれる。

「その方が安くつくからね。志賀はいつも買ってきた物だね」

「作れないね」

「まあ……あの小っちゃいキッチン見りゃ分かる」

 コーヒー淹れるのしか見たことないもん、と言われて苦笑いするけれど、日野さんは別に優越感に浸ったり非難したりする訳ではないようだった。「買った物食べて楽したい日だってあるよな」と呟く。日野さんもそういう日があるのなら、今のところいつも自炊しているように見える日野さんは偉い。

「夜も弁当作るようになったのはここに来てからだよ。前の店は働いてる間に何やかんや飲食してたから、わざわざ用意してない」

「ああ、うち賄いなくてごめんね」

 日野さんは可笑しそうに笑った。

「賄いのある探偵事務所の方がびっくりだ。雇ってもらえてるだけで充分」

 そんなことを話している間にもう三十分が経っていて、違和感を感じる。

「おかしい」

「どうした?」

 日野さんはもたれかかっていた壁から身を起こした。

「いつも七時前後には退勤して、こんなに遅くはなっていないみたいだった。今日は早くてもう出ちゃったのかもしれない」

「マジ? 出直すの」

「いや」

 普通なら、退勤時に捕まえられなかったら行方の分かるはずもなく別の日に出直すんだろう。でも俺ならまだ追える。

「日野さんごめん、今日は遅くなるかもしれないから先に帰ってもいいけど」

「別にいいよ、何にも予定ないし」

「じゃあ、ちょっと俺黙るけど何か適当に喋り続けておいてくれる?」

「ふーん? 了解」

 日野さんがそう言ったのを聞き、背後の壁に再度もたれかかった。今度は背中の後ろにやった掌が、先に壁に触れる。目を閉じて、途端に逆再生されていく視界。前を通り過ぎようとしていたサラリーマンが後ろに下がっていき、ビルから出ようとしていたOLが中に吸い込まれていく。

 今から三十分は前だから、もう少し遡らなければ。もう少し速く。視界は加速する。

 日野さんが何を言っているのか、それとも何も言っていないのかは聞こえていない。現実世界のことは何も見えていないから今何かにぶつかられたら俺は転ぶだろう。まあ余程危なければ日野さんが叩いてくれるはずだ。

 他の何かに気を取られていたら、写真で見ただけの対象を早送りで逆再生する風景の中からは見つけられない。

「ああ、見つけた」

 思わず呟く。目を開ける。日野さんが不思議そうに俺を見上げていた。そうだよな。猫探しの時を含め、これを見せるのは今回で二回目だ。不審に思うに違いない。

「あっちだ」

 何も尋ねられないままに確信を持って歩き出す。日野さんも疑うことなく付いてきた。男の歩いていった方へ向かい、姿の見えなくなった地点で再び交差点の電柱に触れて風景を遡る。日野さんは、俺が進んだり立ち止まったりするのに合わせて何も言わずに進んでは足を止めた。

 どう思っているんだろう。きっと、もう俺が対象に一切の寄り道をせずに近付いていることを分かっている。邪魔をしない、理屈を尋ねもしない日野さんは何を考えているのか。

 やっぱり、気味が悪いかな。怖いかな。

 他の人と何ら変わらない見た目の自分の掌を見遣る。黙々と付いてくる日野さんの顔は、恐る恐るしか見られなかった。

「何」

 途端に目の合った日野さんに睨み上げられ、急いで顔を背ける。

「いや、何でも……。日野さん、足疲れてないかなって」

「この程度で疲れねェよ。もうすぐ見つかりそう?」

「そうだね。ずっと歩いて移動してるみたいだから、そんなに遠い目的地じゃないんだと思うよ」

 タクシーを探したりバス停に寄ったりする様子が見られなかったからそう答える。内心は、あまりにも飄々としている日野さんに呆気に取られていた。

「なるほどな、そういうことも考えてンだ」

 日野さんは感心したように呟く。勉強は嫌いとかいうけれど、知識の習得に貪欲だよなと思う。なんというかこう、ハングリー精神が全身から滲み出ているようなエネルギッシュさを、初対面から感じていた。

 どうしてそんなに頑張るんだろう。そんなことを考えるうちに探偵事務所のある歓楽街、神楽町まで戻っており、対象がどこのラブホテルに入ったのかまでを特定することができた。浮気相手らしき女性とは直前で合流しており、外ではほとんど一緒に歩いていなかったようだ。

 実に巧妙。これはホテルから出てきた瞬間をカメラに収めなければ、きっとすぐに解散するだろう。

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