第8話
夕方四時に授業が終わったら、急いで帰宅。一秒も無駄にせず働きたいけど、制服じゃ夜の街になんていられない。
「ただいま!」
夕日でオレンジ色に染まったリビングルームに飛び込む。テーブルの上に、朝用意したままの診察券や薬。
「……お姉ちゃん」
閉ざされたドアをノックした。いつも少しだけ、ここを開けるのが怖かったりする。
『死にたい……!』
そう言われた日を思い出して。家を空けている間は、ふとした瞬間に不安になる。今頃一人で首を吊っていないだろうか、飛び降りていないだろうかって。出かけない訳にはいかないのだけど、本当はお姉ちゃんを一人にはしたくなかった。
少し勢いをつけて入った部屋はカーテンを閉めきっているせいで夕日も入らず、昼も夜も真っ暗。ベッドの上に朝と変わらない布団の塊があって嬉しくなる。
「ごめん、かりん……今日も病院行けなかった。行こうとは思ってたの。ごめん……」
布団を被ったまま、開口一番に謝られる。
「いいよ。行けるときに行けばいいンだ。よかったら今度一緒に行こ!」
バイト行くから晩ごはんは一人で食べてね、と言い残して軽装に着替える。アタシこそごめん、と内心呟きながらお姉ちゃんの自動車免許証を抜き取り、再び玄関を出た。自転車を急いで漕ぐ。風が冷たい。帰る頃にはもっと冷えるだろうから、もう一枚着てくればよかったかも。
そう思ったのも束の間で、全力で漕いだお陰で着く頃には温まっていた。ボロビルの二階へ、金属音を立てながら階段を登る。ドアには「営業中」の札。アタシが働くようになってから、志賀は一つ札を増やしたと言っていた。事務所には入ってすぐの部屋が一つしかない。接客中に別のお客様が入っていくのはプライベートな話を聞かれたくないお客様に迷惑だから、そのときだけは「接客中 大変申し訳ございませんが一度お電話でご連絡ください」の札を掛けておくらしい。
アタシが来るまではお客様同士がかち合うようなことはなかったんだって。ホームページを完成させた効果か依頼件数が増えたから、念のため対策することにしたんだそうだ。
コンコン、と磨りガラスの窓を叩いてからドアノブを捻る。
「お疲れさまでーす」
「お疲れさま」
デスクに向かっていた志賀が軋む椅子を回転させて振り向いた。そのまま立ち上がって隅にあるキッチンに向かうので止める。
「牛乳入れてくれようとしてる? いいよ、自分でやる。志賀は何か飲む?」
「じゃあコーヒーお願いしようかな」
志賀は微笑んでまたデスクに向かった。お湯が沸くのを待つ間に志賀の手元を後方から眺める。パソコンの前にいるのに志賀は電源も付けずに手元の紙に熱心に書き込んでいた。相変わらずのアナログ人間だ。
「何してるの?」
湯気の立つマグカップを置く。ありがとう、と志賀は口を付けた。あの真っ黒な液体をそのまま飲む気が知れない。おいしさが分からないからいつも適当に淹れるのだけど、志賀は特に文句を言うこともなくいつも完飲していた。
「違法薬物の勉強。探偵業になんて要らない知識だと思うんだけど、小清水さんが昨日『最近一般人にも出回ってきてるからちょっとは知っとけ』って資料を押しつけてくるもんだから」
小清水さん、と聞いたことのある名に少し考え込んだ。
「ああ、神楽署のポリか」
志賀が頭を抱える。
「そうだけど……日野さん、本人かお客さんの前で絶対にその呼び方しないでね」
よく吹いて冷ましたホットミルクに口を付ける。しくじった。
「志賀は勉強が好きだね」
暇な時間はいつ見ても勉強している気がして、揶揄うつもりで言った。
「そうだね。どんな内容でも知っていれば何かの役に立つし」
知識は武器だよ、と真面目に返される。
「世の中には勉強が好きな奴もいるなンてな」
ソファーにのけ反りながらアタシは引くフリをした。本当は、アタシも待ち時間に堂々と参考書を広げて勉強したかった。でも、志賀に内容を見られたら年齢がバレるからできっこない。受験勉強なんて。
スマホを取り出しながら尋ねる。
「今日は依頼ないの?」
「昼間にあったよ。浮気の証拠集めで尾行の依頼。対象の退勤後からだからもう少し待つ」
「分かった」
7時前に出るからね、と言われて頷き、せめてスマホのアプリで解ける問題集を開いた。
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