第6話
いー天気。なんかつられて心も穏やかになるっていうか。柄じゃないし口には出さないけど。
依頼人の元に急いでいるとはいっても、昼間の屋外をこんなにのんびりとした気持ちで歩くのはいつぶりだろう。秋らしく高い空に、掃いたような薄い雲がたなびく。
なんて、感傷に浸ってしまうくらいに。最近はずっと、昼も夜も屋内にいたもんな。ついつい空を見上げがちになりながらぼーっと歩いていたら、もう目的地に着いていた。
いけない。どうにもこの男といると気が抜ける。初出勤なんて緊張してあちこち見て学ばなきゃいけないというのに、なんだか任せておけばいいような気がして安心してしまっていた。
躊躇なく玄関チャイムを押す薄い背中を見上げる。こんなに頼りないのにな。何でだ。
「探偵の志賀です」
簡潔な名乗り。返事が聞こえ、自分の母くらいの年齢の女性が現れた。優しそうというか穏やかそうというか。大きな一軒家に似合う上品な面立ちが、見て取れるほどに不安そうだった。
「どうぞ上がってください」
「お邪魔します」
てきぱきと入っていく志賀に慌てて付いていく。ふかふかのスリッパが用意され、通されたリビングには天井まで届く大きなキャットタワーがあった。ソファーは志賀の事務所にあった物よりも遥かにクッション性が良く体が沈む。ローテーブルには良い香りの紅茶も置かれた。残念。紅茶もコーヒーも苦いから苦手だ。こうしてよく出されるから早く飲めるようになろうとは思っているのだけど。
「どうぞ。引越しの準備で散らかってますが」
彼女の言う通り、美しい調度品には似合わずフローリングには幾つもの段ボールが置かれている。道中で志賀に聞いた話だと猫は昨日引越し業者が来た拍子に飛び出していったそうだけど、まだ荷物が残っているところを見ると大きな家だから何度かに分けて運ぶのかな。
「お構いなく。引越しはいつなんですか」
「元々は明日の予定で。でもあの子が帰ってこないとなると延期しようかと……」
「分かりました。大丈夫ですよ、きっと見つけます」
思わず隣りを見た。おいおい、そんなこと言って大丈夫か。飛び出していった猫なんて街中探したってすぐ見つかるとは限らないでしょ。
志賀はアタシを助手だと紹介した。アタシは見つける自信がないから気軽に巻き込まないでほしい。
「猫の名前は何ですか?」
「ステラです。種類はロシアンブルーで……」
薄情なことを考えるアタシの横で、志賀はさくさくと必要な情報を聞き出していく。
「……昨日の夕方三時頃に、ピアノを運び出そうとして外していたリビングの窓から飛び出して行ったと。庭を通って、その先がもうどちらの方向へ行ったかも分からないんですね」
「ええ。ステラはピアノの下を潜り抜けていったんですが、私はちょうど窓を通ろうとしているピアノの横を擦り抜けることなんてできなくて、覗くことができず。それから近所中に聞き回って急いでポスターも作って貼ったんですが、見つからなくて……」
志賀の質問に気丈に答えていた婦人が声を震わせ途切れさせるとほろ、と涙をこぼした。慌ててティッシュでそっと拭っている。アタシは他人が涙を零してしまうような場面に立ち会うのは初めてで、固まっていた。
でも志賀は違った。動かされる心なんてないかのように婦人を置いてさっと立ち上がる。
「状況はよく分かりました。これからすぐに探します。見つかったらご連絡します」
そのまま玄関へ向かっていくので、アタシも大慌てで追いかける羽目になった。よろしくお願いします! と背中に声を掛ける婦人に、志賀は振り返りにこりと笑うとドアを閉める。
「……ねえ」
「ん? どうした?」
「見つかるあてなんてあンの。飼い主さん、泣いてたよ。必死に探して見つからなかったのに、明日までなんて」
「だから見つけるんでしょ」
駄目だ、会話にならない。とにかく近所を回ってみるのかと思っていたら、志賀は家の前からなかなか動き出さなかった。庭の方からピアノを搬出したという窓に触れ、そこからまるで走っていく猫を追うように視線を流して庭を眺め、今度は郵便ポストに触れる。志賀が思うままにふらふらと予想できない動きをするので私は付いて歩くことしかできない。
「さっきから何してるの。猫の歩いた足跡とか爪で引っ掻いた跡なんてある?」
私には見えない。ルーペも出していないようだけど、探偵業ならではの探し方でもあるのかと尋ねる。
「ううん」
志賀は一言曖昧に答えるだけ。そのまますたすたと道路へ出て行き、また電柱を触る。説明の足りない男だ。
仕事を邪魔する訳にはいかないし、しょうがないので黙って付いて歩いていく。志賀は数秒で手を離すと、迷いなく向かう方向を決めて歩き出した。そして曲がり角まで来ると、また塀に触れる。
最初は何か痕跡を辿っているのだと思っていた。ホームページ以外で私に手伝えることがあるのかと考えながら。ふと隣りに立って横顔を覗き込んだ時、それは違うと気付く。
志賀は目を閉じていた。塀に手を触れながら、何も見ずに目を閉じている。そして、目を開くとまた猫が進んだ方向を知っているかのようにまっすぐに歩を進めるのだ。
一体どうなっているのか。これで本当に猫が見つかったりしたのなら、そのときに問い詰めよう。しばらく歩いては止まってを繰り返して、そして志賀がほっと笑みをこぼした。
「ステラ!」
顔を輝かせて名前を呼ぶその視線の先。葉のよく生い茂った公園の大木の、はるか上の方。下から覗き込み目を凝らせば、小さくグレーの毛並みがようやく見えた。口を開けて鳴いているらしいけど声も聞こえない。
「たっか」
そう絶句したけれど、言いたいことは本当はもっとある。どうしてこんなところにいる猫のところまでまっしぐらに来て見つけられたの。
「ステラー、ステラー!」
当の志賀は嬉しそうに何度も名前を呼び、その度にステラは鳴いた。たぶんミャーって。顔が見えるだけで聞こえないけれど。
「随分登って降りられなくなっちゃったんだなあ。脚立借りに行くか……それで届くかなあ。駄目だったら最悪消防署……」
「はあ?」
呟く志賀に聞き返す。
「登ればいいっしょこんなん」
今度は志賀が驚く番だった。
「えー?! 猫が降りられなくなる木を?! 危ないって日野さん! 落ちたり枝が折れたりするかもしれないし!」
じっと見上げてステラのいるところまで登るルートを考える。枝の太さも十分に太そうだ。
「大丈夫でしょ。最初の枝まで持ち上げてくれたらアタシが行く」
「マジで……? 持ち上げるって?」
「肩車に決まってンでしょ」
早く屈め、と自分の前を指差したら志賀は大人しくしゃがみ込んだ。
「っしょ……日野さん軽いね」
「それ以外の言葉言って許されると思う?」
「いや、ほんとに。もっと食べな」
「それはアンタでしょ」
幹を掴み立ち上がってくれた志賀に軽口を叩きながら、自分では届かなかった枝を掴む。体を持ち上げ、そのまま次の枝へ。地面がどんどん遠くなっていく。
「ほんと、気を付けてよー! 無理だったら降りてきなね!」
「はーい」
そしてステラのいる枝に辿り着いた。眼下の志賀が小さい。
「おいで、ステラ。随分登ったね」
ステラは可愛かった。とっても綺麗な猫だった。青い瞳がアタシを映して、四本の足を全て枝に立てたまま「シャー!」と必死に威嚇する。
「ごめん。でも怖くないから。こっちおいで。一緒に降りようよ」
アタシがここまで登れるのは分かっていたものの。そういえばこの後どうすればいいんだろう。猫なんて飼ったことがないから接し方が分からない。
怖がらせて落とさないように、でも抱き寄せられるように。木の軋む音を聞きながらにじり寄る。
「日野さん!」
何だ、今は余裕がないのに。視界の端でちらりと呼ばれた方を見下ろす。
「俺ここにいるからね! 最悪、日野さんとステラは大丈夫だから!」
志賀が長い腕をこっちに広げて真下で待っていた。
「…………」
馬鹿だなあ。キャッチするとか、そういうことは言わないんだ。その自信はなくて、でもアタシとステラの下敷きにはなってくれるって言ってんだね。
下に聞こえるような大声を出したらステラが怯えるかと思い、唇を結んだ。落ちるかよ。落ちないし、落とさない。
「おいで、ステラ」
少しずつ近づいていた距離を片腕を伸ばして一気に詰め、ステラに触れる。ステラはまたシャー! と鳴いて、必死に片足を枝から離して私の腕を引っ掻いた。
「うん。ごめんな、喧嘩は慣れてンだ」
痛いけど。でもまあ、想定内だ。アタシも一瞬だけ両腕を枝から離して、ステラを捕まえた。枝に刺さっている爪を引っ剥がして、なんとか胸に抱き込む。
「いだだだ」
服越しにも暴れるステラの爪が刺さって、時には顔にも飛んできた。猫を抱くのって難しい。
「落ちちゃうから。暴れんなって」
言ってもしょうがないと思いつつもこぼしてしまいながら、アタシは慎重に木を降りていった。
片手を空けなければ降りられずステラを片腕に抱えなければいけないので、もういくら引っ掻かれても諦めることにしておく。
「あともうちょっと! もうちょっとだよー! 頑張れ日野さん!」
途中から志賀のうるさい応援が聞こえていた。もしかしてずっと叫んでいたのだろうか。
「ぃしょっとー……」
ようやく地面に足が着いた。ほっとする感覚に息を吐く。
「お疲れ日野さん!」
「はい。ちょっと代わって」
「おっけー」
ずっと落ち着かないステラを抱いていることに疲れて、志賀に押しつける。志賀は喜んでにこにこと抱いた。流石何度も猫探しをしているだけのことはある。
「ごめん日野さん、いっぱい怪我させた」
汚れた手や服を叩いていると、志賀がしょげて謝ってくる。
「いいよこんなん。洗って何日かすればすぐ治る」
「駄目だよ。本当にごめん、女の子なのに」
志賀がポケットからハンカチを取り出して私の頬に当てる。
「そこ押さえておいて」
引っ掻き傷からの血がまだ止まっていないらしい。大人しく押さえると、志賀は鞄からポケットティッシュを出してアタシの腕の傷を押さえていた。片腕に抱いたステラは降りられて安心したのか、すっかり大人しくなっている。
「ステラを届けたらコンビニに寄ります。ちゃんと絆創膏貼ろう」
「いいよほんとに。顔に絆創膏とかダッセエ」
「ダサいとか言ってる場合じゃないでしょ」
こっちにとっちゃ死活問題だというのに。
すぐに血も止まり、そんな言い合いをしながらステラを届けに歩いて戻る。玄関から出てきた婦人は感極まっていた。
「スーちゃん! ありがとうございます、ありがとうございます!」
ステラも彼女の腕に飛び込んでいって嬉しそうだ。家の中に入りごはんと水を与えられると、ガツガツと食べていた。昨日から何も食べてなかったのかな。元気そうでよかった。
どこで見つかったのかと聞かれ、志賀が答えている。
「そんなところに。よく見つけてくださって……でもどうやって?」
そうだった。志賀はどうやって見つけたんだろう。気になって黙っていたのに、志賀は「日野さんが頑張ってくれました」とアタシを示した。
いや、アタシは捕まえただけだ。そう言いたかったのに、婦人の興味はアタシに移ってしまう。
「助手の方が! 申し訳ございません、その傷はステラが付けたんですよね?! 救急箱を持ってきたので、手当てさせてください!」
「いや、いいですって! こんなのすぐ治るし!」
「駄目です!」
志賀と同じことを言う。自分の母親くらいの年齢の女性になんて逆らえなくて、アタシは大人しく手当てを受けた。
ソファーで紅茶を飲みながら、遠慮なくうんうんと頷いている志賀。婦人の手付きは優しくて、何度もお礼を言われアタシも悪い気はしなかった。顔に貼られた絆創膏はすぐにでも剥がしたいけれど。だって人に見られたら、
「それ、せっかく貼ってもらったんだから剥がしちゃ駄目だからね」
志賀がアタシの心を読んだように釘を刺す。アタシはため息を吐いてそっぽを向いた。
「こちら、お礼です」
婦人から封筒が差し出される。受け取った志賀が中身を確かめた。
「……多すぎます。ここまでの往復にかかった時間を含めてもニ時間です。始めに申し上げたとおり請求金額は六千円です」
志賀が一万円札が二枚はみ出した封筒を婦人へ返す。婦人は受け取らなかった。
「いいえ! 少なすぎるくらいです。お一人いらっしゃるのかと思ったらお二人で来てくださって、それもこんなに早く見つけていただいて。私は何十時間掛かっても見つからないかもしれない、それでもお願いしようと縋ったんです。それをこんなにも早く無事に見つけてくださったんですから、どうか正当な報酬として受け取ってください。それに、女性のお顔にうちの子が傷まで付けてしまって。なんとお詫びを申し上げていいか。どうか悪くなったら病院に掛かってくださいね。治療費ならいくらでも追加でお支払いしますから」
いやいやいや、と顔の前で手を振る。志賀と顔を見合わせて、志賀が封筒を受け取った。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
別れ際、「知り合いにこの事務所のことを紹介しますね」とステラを抱いて見送りに出てくれた婦人は言った。
「ありがとうございます。猫探し以外も承りますので、お困りの方がいらっしゃればどうぞご贔屓に」
志賀は微笑んだ。玄関を出て、お辞儀をしてくれている婦人に何度も会釈をしながら角を曲がって。
「さて!」
志賀が急に立ち止まって声を張り上げる。
「ボーナス貰っちゃった。日野さんにももちろんここから半額出すからね。……まあ、普段の仕事の流れは大体こんな感じで、たまにはお礼を弾んでもらえることもあるよ。でも、怪我させちゃったから。嫌だったら初日で辞めたっていいし次の時給の良い仕事を探すのも手伝う」
猫に引っ掻かれるのも予想できたことなのに、回避できなくてごめん、と謝る。志賀の視線がアタシの左頬に貼られた絆創膏に向けられていた。
「志賀!」
「はい?」
アタシは志賀を置いて歩き出した。駅前の方へ。
「アタシ、そんなことよりクレープ食べたいな!」
ぽかんとしていた志賀が追いついてきて言う。
「奢るよ」
一働きした後のクレープは美味しかった。二個も食べて、今日は晩ごはん要らないかも。
志賀が早く食べ終わったアタシを見て「もう一個頼んでもいいよ」って言ってくれたからなんだけど、本当にぺろりと平らげるアタシを見て志賀は呆れていた。
今日の仕事はこれで終わりにしようって言われて、帰宅する。早くに寄れたからスーパーのセール品がまだ沢山残っていた。ああでも、今日はボーナスが入ったし。お肉も買っちゃおうかな。
「ただいまー」
重たい袋をどさどさとリビングに投げ出す。紐が手に食い込んで限界だ。買い過ぎた。
「お姉ちゃーん? 電気点けてよー。もう暗いよ」
しんと静まりかえった部屋に声を掛けて、パチンと電灯のスイッチを入れる。明るくなったテーブルの上には、朝用意しておいたままのパン。
「お姉ちゃん」
まだ暗いままのもう一部屋に入って、ベッドの上の布団の山に声を掛けた。もぞりとこちらを向く。
「起きられなかったの? あとで晩ごはんは一緒に食べようね」
「かりん。おかえり。どうしたのその怪我」
また喧嘩? と細い指が伸びてきて私の頬の絆創膏に触れる。
「ううん! バイト。猫に引っ掻かれた!」
「バイト……危ないことしてない? ごめんね、私が働けなくて……」
「いいの。お姉ちゃんはもういっぱい頑張ったんだから休んでなって。それに、アタシ今日のバイト先好きだなー!」
鼻歌を歌いながら部屋を出た。閉めたドアに「ASUMI」の文字。向かいのドアには「KARIN」。そっちを開けて、服を脱ぎ捨てて部屋着に着替える。
本当に楽しかった。志賀は変な奴だけど。クレープを食べたのは今日が初めてだったらしい。信じられない。今までどんな人生を歩んできたんだ、なんて思うのは大袈裟だろうか。
でも、泣いて困っている人が喜んでくれる顔を見られる。良い仕事だと思った。次の依頼でも役に立ちたいって。
「おし、頑張ろー!」
一人で気合を入れて、鍋を火に掛けた。
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