二章、志賀探偵事務所
第4話
ブラインドの隙間から差し込む光で目を覚ます。良い天気だ。目覚めは良くなるけれど、眩し過ぎて日の出と共に起きてしまうから遮光カーテンでも買おうか。……いや、そんな経済的余裕はないか。
日の出も随分遅くなったから、それほど早起きという訳でもない。自分を納得させながらパイプベッドから足を下ろし、スリッパを履く。コーヒーのための湯を電気ポットで沸かしながら、トイレと歯磨きを済ませた。
適当な量の粉末インスタントコーヒーをマグカップに注ぎ、適当な量の湯を注げばそれを持ってテレビの前へ。ニュースを見ながらコーヒーを飲む。
今日の依頼はゼロ。小清水さんはいつ依頼を持ってくるかなんて分からないし。ちょっと自分で依頼を探しにいかなきゃいけないだろうか。
コンコン。
コーヒーを飲み終えたマグカップを洗い、手持ち無沙汰に事務所の掃除をしていれば入り口の磨りガラスの嵌ったドアが叩かれる。人影からして女性だろうか。相談予約は入っていなかったはずだから、急用かもしれない。
「はい、いらっしゃい……って、きみか」
「『きみ』だけど。来ちゃいけなかった?」
そう言いながら女性は俺の開いたドアの隙間からするりと中に入り込んだ。低い位置から、挑むように見上げてくる視線。
「いきなり喧嘩腰にならなくとも。そうは言ってないでしょう」
つかつかと足を進め、彼女は革張りのソファに腰を下ろす。
「今日はドアの前に居座らなくていいの?」
俺はドアの外に営業中の札を出してから、丁寧にドアを閉めた。冷蔵庫に向かいながら彼女に尋ねる。
「今日から従業員になるんだもん。流石にそんなこと言ってらんない。密室になろうと、あんたが相手ならいつでも勃たなくしてやるよ」
「口が悪いな……」
彼女の華麗なハイキックを思い出し、股間が竦み上がるような思いがした。マグカップに牛乳を注ぎ、電子レンジに放り込む。この前は一分で爆発したから、四十秒くらいにしてみようか。
彼女はどっかりとソファーにもたれながら興味深そうに事務所のあちこちを見渡し、ショルダーバッグの中からは何やら書類を取り出してテーブルの上に置いたようだった。
「あつつ……。はい、どうぞ」
今日は爆発させなかったホットミルクを彼女の前に置く。彼女は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。いただきます」
やっぱり、笑うと幼い印象になる。勝手に目元が緩んでしまうくらい、よほど牛乳が好きらしい。これからは切らさないように気を付けないと、と思いながら俺も彼女の向かいに腰掛けた。
「はいこれ。アタシの履歴書。よろしくお願いします」
「わざわざ書いて持ってきたんだ。真面目だね」
「雇ってもらうんだから要るでしょう?」
「いや、別に……。履歴書って雇うかどうか選考するために必要なんであって、俺はきみを雇うってもう言ってあったから」
そう言いつつ、せっかくなのでテーブルに広げられていた履歴書にさっと目を通した。「履歴書要らないんだ……? 知らなかった」とぼそぼそ呟いているのが聞こえてきて少しおかしい。
日野あすみ。二十四歳。近所の私大を卒業し、新卒で武谷印刷株式会社に入社。二年勤めた後に今年の四月に退社し、それからはアルバイトを幾つか始めては辞めている。
「日野、あすみさん? ヒカリさんじゃないんだ」
「ヒカリはあのガールズバーでの呼び名。源氏名みたいなもん。みんな本名でなんかやらないよ」
「ああそう……」
俺の知らない世界の常識らしい。きっとお互いにそう思っているだろう。
「履歴書、持って帰っていいよ。掛け持ちするなら他に申し込むところにこのまま出せて便利でしょ。証明写真まで貼ってくれたみたいだし」
俺は履歴書を受け取らずにテーブルに置いたままで指し示した。
「え……いいの」
彼女は拍子抜けしたように履歴書と俺の顔を見比べる。
「いいよ。きみの人柄は分かってて、俺のせいで勤め先を辞めさせられたこともあって雇う腹は決まってたんだ。履歴書を見たところで心変わりなんてしない」
「なんかこう、質問とか」
「面接受けにきたつもりだったの?」
その割にはパーカーにジーンズというラフな服装で、勧める前にソファーに座るもんだから今更姿勢を正して座る彼女がちぐはぐでおかしい。
「大体のとき、年齢確認されるから」
彼女が仏頂面で答えた。
「年齢確認?」
「本当に二十四歳なのか、って」
「ああ」
まあ、意外と歳を取っているんだなとは思った。この前のメイド服姿なんか、未成年でもおかしくないくらいだ。
「何ジロジロ見てンだよ」
「自分から言ったんでしょうに。何、年齢は嘘吐いてる訳?」
「吐いてない。免許証だって出せる」
彼女が財布から運転免許証を取り出して見せた。
「はいはい。いいよ、見せなくて。で、そっちは何か質問はある?」
「いつもこんな適当に人を雇ってんの? 他の従業員は?」
「適当って。人を見る目はあると思ってるんだけどな。他にはいないよ。俺一人で開いた事務所だけど、軌道に乗ってだいぶ忙しくなってきたからちょうど手伝ってくれる人を増やしたいなと思ってたところだった」
「嘘。とても儲かってるようには見えない」
彼女がばっさり切り捨てる。
「手厳しいな。じゃあ、日野さんを雇うことでもっと忙しくなるように頑張ってくれる?」
俺は微笑んだ。
「アタシが客引きしてくればいいの?」
チョロいもんだね、休む暇もないくらいにしてやるよ、と舌舐めずりをするのでちょっと慌てる。彼女の客引きの強引さは探偵業にはまずい。
「ま、まあ、やってほしいことはこれから教えるから。あとは? 時給とか、シフトとか。希望はないの」
「時給……。アタシが決めていいの」
「いくら欲しい?」
「そう、言われるとむしろ困る……」
「あはは! 遠慮とかするんだ。前の職場ではいくら貰ってたの」
「二千円」
「うっ。二千円か……」
彼女は月に何時間シフトに入る気なんだ。今の儲けで払えるだろうか。
恐る恐る、といった様子だった彼女は、俺の困り顔を見るやいなや破顔した。性格が悪い。
「嘘! ガールズバーだからだもん。ここは昼間の営業でしょ。そんなに貰えるなんて思ってないよ」
「千五百円でどうかな……」
「十分!」
彼女が納得した様子で大きく頷くのでほっとした。よかったよかった。さあ、事務所の掃除でも再開しようか、とはたきを手に取る。
「今日は何すればいいの」
「そうだなあ……依頼が来たら動くけど」
飲み干したマグカップを置いて動く気満々だった彼女が、「え゛」と低い声を出した。
「それまで待つだけなの?」
「掃除とかするけど」
「そうじゃなくて! お客さん呼んでこないと依頼なんて来ないじゃん!」
「いやあ、そのうち来るよ。居酒屋みたいに簡単には呼べないんだって。日野さんも、今まで生きてきて探偵を頼ろうなんて思ったことなかったでしょう? 道行く人にランダムに声を掛けたって不審がられるだけで、たまたま来てもらえる可能性なんてほとんどない。困ってる人に自ら来てもらうしかないんだよ」
日野さんはちょっと考え込むように唇を尖らせた。
「ここ、広告とかは何か出してンの?」
「いや? ビルの窓の外に向けてここが探偵事務所であることと電話番号が書いてあるだけ」
はーー、っと盛大なため息を吐かれる。
「本当に困ってる人は、もっと頼りやすいところに救いを求めるんじゃないの」
一度立ち上がっていた彼女がどかりとソファーに戻ってきて、手早くスマホを操作する。
「ほら、こういうの」
そして画面をこっちに向けられた。検索エンジンの検索結果の画面だ。ずらりと文字が並んでいてすぐには目で追えないけれど、検索ワードは見えた。「探偵 神楽町」。
「今時さ、何でも事前にスマホで下調べしたくなるじゃん。どんなことを売りにしているところなのか、値段はいくらくらい掛かるのか、口コミの評価はどうなのか。電話もハードルが高いよ。まずはインターネットのフォームやメールで問い合わせたいくらい。
ここ、アタシも事前に調べたって何にも出てこないんだもん。どんなとこなんだ、ちゃんと営業してンのか、って不安だった。そりゃお客さんはなかなか来ないよね」
ほー、と真剣に聞き入る内容ばかりだった。
「日野さんは賢いね。めちゃくちゃ為になる。それ、どうやって作ればいいの」
「へ? みんな思ってること言っただけだし、サイトのことならちょっと喋っただけで教えられるような作り方じゃないけど」
「そうなんだ……。俺、去年までスマホも触ったことなかったからさ。そういうのめちゃくちゃ疎くて。日野さん打つのも速くて凄いね」
「去年まで?!」
彼女が大袈裟に目を剥く。
「生きた化石じゃん」
「そんなに?」
酷いな。
「はー……。よし、アタシがここで当分することは分かった。ホームページ作りして宣伝ね」
「ほんとに?!」
「働くからには暇なの嫌なんだよね。給料貰うなら役に立ちたい。パソコンくらいはあるでしょ? 貸して」
「ある……依頼者さんに同意書とか説明書とかプリントアウトするから、そのためだけに」
俺がぼそぼそと言い訳紛いのことを言いながらパソコンの置かれたデスク前を明け渡すのを彼女はちょっと笑いながら移動して、キイと椅子を軋ませて座った。長い髪を耳に掛けて、真剣な横顔が光る画面を見つめはじめる。
俺はそれをぼーっと眺めていて、はっとした。これはどうしたことだ。今日は特段やることなんてないんだよー、と彼女に伝えてゆっくりオリエンテーションでもするつもりが、彼女だけが働いていて俺は何もすることがない。パチパチ、カチカチ、とキーボードとマウスの音だけが忙しなく響く。
「サイトの作り方なんかは、どこで習ったの」
「前の会社で」
話しかければ、こっちを向かないものの律儀に答えてくれた。俺って邪魔者だなあと思いつつ、何もすることがないのでつい話しかける。
「日野さんってさあ」
「何?」
「どこへ行っても即戦力でしょう。その度胸と会話スキル、それにパソコンのスキルまであって。しかも意外と真面目で。何でうちに来てくれたの」
キーボードの音が止まる。ギイ、と彼女の体重移動で椅子が再び軋んだ。中古を拾ってきたから背もたれがうるさいんだよな。
「どこへ行っても門前払い、の間違いじゃないの」
彼女が横顔に苦笑いを浮かべて言う。
「どこへ入ってもすぐ厄介払いされるよ。喧嘩っ早いし」
「そこが良いのに」
「あはは! アンタはね。変人だから。ヤバい奴らに絡まれてるのに妙に冷静だから通報してもらえてないし、弱っちいくせにアタシの前に出て邪魔はするし……」
彼女はまた口を閉じて作業を再開する。
「夜に働くの疲れたから。ちょっと休みたくなっただけだよ。昼間の好きな時間に働けて給料が良いなら好条件だし」
なんだか取って付けたように呟かれた。
「そうか。ならなるべく長く勤めてもらえるように居心地の良い職場になるようにするよ。俺は日野さんがいると助かるし」
「うん、そうしてよ」
また偉そうな口を利かれたが、彼女に世話になりっぱなしの今は逆らえない。旨いホットミルクのお替わりでも淹れてご機嫌を取るか、とソファーから立ち上がる。
「ところでさ。パソコンって、顧客の情報とかいろいろ大事な物を保存してンだと思うけど……それをアタシにポンと渡して、何かデータを盗まれるかもとか思わない訳?」
「えっ!」
以前に客から貰って仕舞ったままだったクッキーを開けようとしていて、驚いた拍子に皿に勢いよくガラガラカラーン! とぶち撒けてしまう。
「……そんなことできるの?」
「アハハハハハハ!!」
この事務所には珍しい、高い笑い声が部屋を突き抜けていった。びっくりして見つめていたら彼女が思いきり笑った顔のまま俺の方を振り向く。
「志賀はほんと脇が甘いね! やんないよ。やんないけど、アンタの管理だと簡単にできちゃうから気を付けなー」
パスワードも何も掛けてないんだもん、とか画面に向き直った彼女からぶつぶつと聞こえてくる。俺は肩を落としながら少々割れてしまったクッキーと爆発させなくなったホットミルクを献上するしかなかった。
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