第2話
「アハハハハ、ひー、あははは。はー、おかしい」
さっき張り込んでいたのとさほど変わらない程度に古びたビルの、コンクリートに鉄の手すりだけが付いた無骨な階段を二階へと駆け上がる。一歩毎に埃が舞うみすぼらしさであっても、この景色が俺に与える安心感は段違いだ。自宅兼職場へと帰ってきたのだから。
差し込むのに少々コツの要るガタついた鍵を開け、濡れたコートをハンガーラックに引っ掛ける。中古屋で拾ってきた黒の革張りのソファーの背に両手を着いて息を整えた。無事に窮地を脱したことから、なかなか笑いが収まらない。
ようやくまともに呼吸ができるようになって、冷めた視線を向けられていることに気付いた。金髪のメイドが安いドアを開いて押さえたまま仁王立ちしている。彼女はとっくの昔に息を整え終わっていたらしい。若さだろうか。
「ああ、ごめんごめん。そんなところに立っていないで早く入りなよ。雨に濡れさせちゃったから寒いでしょう」
「はあ? 知らない男と密室で二人きりになると思ってンの。アンタが手を引っ張ってくるしこのまま逃げられそうだと思ったから付いてきただけで、用がないならもう店に帰るけど」
「そっか。そういうことは考えてなかった。女の子って用心することがたくさんあって大変なんだ」
「何とぼけてンの? そういう訳で、アタシ仕事に戻るから。迷惑だから、もうアタシの前で変な奴に絡まれないでよね」
「あー! ちょっとちょっと。別にとぼけてる訳ではなかったんだけど。あまりにもそういう発想がなかったから、自分が浅慮だなとは思う。たださ、助けてもらった恩があるからきみを今すぐに帰す訳にはいかないんだよね」
「何。いかにも弱っちそうなアンタを見ないふりすンのも気分悪ィし、アタシもあいつらが気に食わなかったから蹴り入れただけだから。礼なんて求めてない」
「カッコいい。って、そうじゃなくて。まあお礼はしたいんだけどそれだけじゃなく、今お店に戻るのはまずいからここで匿いたいんだよ。無関係のきみにこれ以上迷惑かけたくない」
「まずいって? アタシの給料が無くなること以上に?」
「さっきの通りに出ていけば、恥をかかされて今頃きみを血眼で探している組の人間がきみを捕らえるだろうね。運良く店に辿り着いたとしても、そこで待ち伏せされている」
今にも踵を返そうとしていた彼女が目を剥いた。そういう顔をするとメイクできつい印象だった目元が幼さを帯びる。
「店に帰れないの?!」
「だってきみが懇切丁寧にお店の紹介しちゃったもん」
キャッチとして。
貞操に関しては用心深いもののそこまでは頭が回っていなかったらしい彼女に、申し訳なく思いながら説明する。
「はあああああああ……」
彼女は魂の抜けるような深いため息を吐き、ずるずるとドアに捕まったまま這いつくばった。
「良い仕事が……店が……お金……」
語気が一気に弱まって、単語をぼそぼそと呟くだけになる。
「ほんと、あの……ごめん。自分のことも省みずに啖呵切ってるの格好いいと思ったけど、そこまで大事になると予想できてなかったんだね……?」
「喧嘩すンのにそこまで考えるか! 胸糞悪いモン見せられた上に、ナめた態度取られたから殴っただけだ!」
ええ〜。夜の街に働く女の子らしい用心深いところはあるのに。とは、恩人に向かって流石に言わなかった。そもそも巻き込んだ俺の責任だ。
「クッソ……また条件の良いバイト探さなきゃ」
項垂れていたのも束の間、高い位置で結んでいたツインテールを勢いよくゴムを引っ張り解きながら彼女が声に力を取り戻す。髪から雫がピシシ、と飛び散って、ぐしゅぅん!! と随分勇ましいくしゃみが放たれた。
「ああ、ああ。ちょっと待ってて。そのドア閉められないならそこにいていいから、シャワー浴びれなくてもせめてタオル持ってくるから!」
洗面所へ行って、ありったけのタオルを腕に積んで戻る。彼女はタオルの塔で前が見えなくなって横から覗いている俺を見て、初めてふん、と一つ鼻を鳴らして笑ったようだった。
「アタシそんなにタオル使わないけど」
「でも好きなだけ使っていいよ」
「ありがとう」
「お礼を言うのはこっちだから」
寒いかなあ、ストッキングも濡れて寒いに決まってるよなあ。俺は再び奥へ引っ込み、物置きから小さな電気ストーブを引っ張り出した。この秋初めての出番だ。玄関でドアを背に、タオルで荒っぽく髪や服を拭いている彼女の足元に向けて電源を点ける。それに視線を落とした彼女がちょっと困惑したように俺を見た。
「……どうも」
「どういたしましてぇ……っぐしゅぅん!」
さっきから見かけによらず礼儀正しいところがあるよなあなんて思っていたら大きなくしゃみが出る。
「アンタも拭けば?」
「きみの分のタオルは足りる?」
「足りるってば」
「そう」
一人暮らしの持ち物だ。ありったけ持ってきたとはいえ足りるか分からないから彼女が使うのを待っていたのだけど、呆れたように言われて俺もタオルに手を伸ばしてぞんざいに髪を拭った。
「というか、アンタはアタシに構わずシャワーでも何でも浴びてくればいいじゃん」
「俺が表に出られない間に、さっきの組の人間が来たりしてきみが襲われたら困るでしょう」
ドアでも閉めて立て篭れたらいいのだけど、彼女は鍵を閉めたがらないようだし。
「……アンタがアタシを守る気でいんの? そういうことが何度起きても逆だと思うけど」
真顔で訊かれてしまった。そりゃそうかもしれないけど、俺もいれば役に立つかもしれないじゃないか。
言い返せないので首にタオルを引っ掛けカップを取りに行く。
「コーヒーか紅茶、あったかいの淹れるよ。安物だけど。どっちが良い?」
「どっちも嫌い」
予想外の返事に面食らう。
「ええー……。じゃあ何が好き?」
うちにあるかは分からないけど。
「牛乳」
「ああ」
それならある、と頷きながら、ふと。本当にふと、彼女のフリルエプロンの下の胸元に視線を遣ってしまった。
「別に貧乳だから飲んでる訳じゃない!」
怒鳴り声と共に首が180度後ろを向かされる。バチーン! という音は後から付いてきた。ビンタだ。何も言ってないのに。
「目が言ってた!」
エスパーか。図星なので文句は言えない。冷蔵庫から取り出した牛乳が幸いにも消費期限切れでないことを確認して、カップに注いで電子レンジに入れた。自分のはインスタントコーヒーを適当に掬って電気ポットから湯を注ぐ。
「あっつ、あっつ」
どうぞ気を付けて、と彼女の前に移動させたローテーブルの上にカップを置いた。椅子はキャスター付きの物を引っ張ってきて勧める。
「レンジかけすぎ。爆発させたでしょ。カップびしょびしょじゃん。膜、張ってるし」
そっ、と指先でカップを摘み周りを眺めるようにした彼女に、下手くそ、と笑われた。
「ごめん。普段牛乳なんて電子レンジであっためないから」
「嘘だよ、お人好し。おいしいよ。ありがとう」
ふー、ふー、と冷ましながら口を付けて、湯気の向こうの彼女は俺をからかって楽しそうに笑った。
「お人好しはきみの方だと思うけど」
「アタシは自分のためにしか動かないよ。アンタは大概でしょ。あいつらがもしここを突き止めたらまたアタシを庇って代わりに殴られでもする気? 辞めてよね、殴ろうとしてるときにびっくりするし邪魔だから」
そういえば「邪魔ァ!」と罵られたっけ。
「そもそもいつまでアタシを玄関先に置いておくつもりなのさ。あいつら頭に血ィ昇らせてアタシたちを探してんでしょ?」
「ああ、それなら……」
ガンガン、と彼女が背にしていたドアが叩かれて揺れた。磨りガラスの向こうに男の人影。びくりとした彼女がすぐさま立ち上がって、カップを置いてファイティングポーズを取る。
「来たな……アンタは下がってな!」
「ちょ、勇ましすぎるでしょ。大丈夫だよ、たぶんその人は……」
「神楽町警察署の小清水だ。入るぞ」
「どうぞ!」
警察?! と繰り返している彼女を下がらせてドアを開ける。四十過ぎのくたびれたスーツの男が隙のない身のこなしで入ってきた。
「お? どうした女なんて連れ込んで。邪魔したか」
「いやいや。そこで拾っただけです」
「そうか? ……まさか未成年じゃあないだろうな?」
小清水さんはじろじろと彼女を上から下まで見回した。
「今免許証がないから見せらンねえけど、ちゃんと成人してるよ。女に歳訊くのは失礼じゃないの?」
彼女は負けじと睨み上げるものだから見ているこっちがひやひやする。
「失礼とか言ってられない仕事なもんでな。そりゃ悪かった。酒を提供するような店で働いたり深夜までうろついたりしているようなら、親御さんか先生にでも突き出さなきゃいけない年齢かと思ったんだ。若く見積もってんだから許してくれ」
小清水さんは彼女の威勢にたじろぐ様子もなく、そんな手合いには慣れたように渋い声で笑って聞き流す。
「小清水さん。今日は何の依頼ですか?」
「何だ志賀、俺が来ちゃ悪いか」
「そりゃ、小清水さんの依頼は深刻なのが多いですからね」
「何、近くまで寄ったから直接顔を見に来ただけだ。一発殴られでもしてねえかと思ってな。お手柄だったな。お前のお陰で組は一斉検挙、密売ルートも潰せそうだ。ちょっとは街が平和になるぞ」
「よかったです。俺が殴られてないのは彼女のお陰なので、彼女にもお礼言っといてください」
「ほーう? ご協力、感謝する。それじゃ、俺はこれから取り調べで忙しくなるから帰るが、ひとまず外は無事歩けると思うぞ。可愛い彼女も早めに帰してやれよ」
「どうもー」
嵐のように去っていく男に気のない返事をしながらドアを閉めた。小清水さんの勢いに珍しく押されたのか大人しかった彼女が口を開く。
「警察とアンタ、どういう関係なの」
苦笑しながら名刺を取り出し、彼女の前に差し出した。
「名乗り遅れました、志賀探偵事務所の志賀です」
「探偵?!」
怪訝な顔で見つめ返される。うん、普通はそんな反応だろう。
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