悪役令嬢/ザマァ
花地獄
「来るな! 化け物! 来るなああああああああ!」
「まあ、
温和な笑みを浮かべながら
床まで流れる長い髪と同じ色した真っ白な
彼女が一歩歩を進めれば尻餅をついたまま桃花鳥姫は後退る。
部屋を訪れると同時に糸織姫は
几帳を倒し御簾を越えても誰も助けに来ない。見れば、どの女房もあるいは立ち、あるいは座ったまま、不自然な程微動だにしなかった。
「桃花鳥姫様。
恐れをなした桃花鳥姫がご自慢の朱色の髪を振り乱しながら手当たり次第に物を投げつける。しかし筆、枕、
「地を這う下臈の分際で愚弄するなっ! 気色の悪い下種共! 去ね、去ね!!!」
「嘘の消息で呼び出して塗籠に閉じ込めたのも、着物に漆を塗ったのも、反古に書き留めておいた
現世に顕れた観音の如き慈愛が糸織姫の表情や声に籠められている。しかしそれを向けられた桃花鳥姫自身は追い詰められるばかり。震える彼女はそれでも気丈に声を張った。
「この役立たずの
今までどんな罵詈雑言を浴びせられても微笑を絶やさなかった糸織姫の瞳に初めて険が宿る。
同時にぽとりと赤い欠片が床に落ちた。語尾を醜く濁らせた桃花鳥姫が口元を両手で押さえれば白魚のような指の隙間から血が滴る。
「ア……?」
どうしてこんなに咥内が痛むのか桃花鳥姫ははじめ分からなかった。目線の先、弾んで転がった物体が自分の舌先だと気付くまでは。
「ひびゃああっっ」
字の如く
「ああ、いけない。皇子は桃花鳥姫様の歌声をお気に召しているのでした」
糸織姫の指先から伸びる透明な糸が切れ端を桃花鳥姫の口元まで運ぶ。遠目にはまるで不気味な赤い生き物が宙を自儘に進んだかのように映るだろう。
それから糸織姫は皇子が一番評価した
「でも……今お聞きしたかぎりですと、あまり大した歌声ではございませんような。これなら私の方が……いえ、万事全て皇子が正しいのですから間違っているのは私なのでしょう」
純白の袖が汚れるのも構わず糸織姫は血に塗れた桃花鳥姫の口元を丁寧に拭う。
「それに、ね。私たちは親の因果で対立し合っているだけで、似た境遇に立つ者同士本当は仲良くなれると思っていますの。一緒にお喋りしたり、
白桃のように丸みを帯びた頬に両手を添えたまま強制的に見つめ合う形で糸織姫は語り掛ける。血が通っていないのかと錯覚するほどひんやりとした手だった。
「ですから、桃花鳥姫様に相応しい品を一番の忠臣に用意させましたの。ぜひ、お食べになって」
糸織姫が天井に片方の掌を見せれば、ややもせず忠臣が馳せ参じた。その姿に桃花鳥姫は息を吞み目を見開く。
天井からすーっと滑らかに滑り現れたのは、大きな
「ま、まさか……」
「御覧下さいまし、この鮮やかな翅を。いつも美しく着飾る桃花鳥姫様みたいでしょう」
糸織姫は躊躇なく死骸を手に取り鼻先で見せつける。
「この山吹色、まるでいつかの歌会の桃花鳥姫様を髣髴とさせますね」
そこで桃花鳥姫は、目の前の姫が言わんとしていることを理解した。
確かに桃花鳥姫は先の春の催しに裏山吹の襲で参加した。しかしその装束一式は、下男に糸織姫の部屋から盗ませたものだった。ついでに部屋中を墨で汚させたかもしれない。
「あの時の桃花鳥姫様は大層眩く、私もついつい自分の目を疑うばかりに見入ってしまいました」
唇が笑みを象るが、その目は凍り付いていた。言外に犯人はお前だろうと告げられた桃花鳥姫の怯えが増す。口が勝手に言い訳を紡いでいた。
「ち、違うの、あれはあやつが勝手に」
「ですから忠臣もこの蝶が相応しいと思ったのでしょう。さあ」
お食べになって。
肝心な一言を省くことで桃花鳥姫が身構える猶予を与えず、今まさに花開く桜の蕾のように薄紅色にふっくらとした唇を容易く割り糸織姫は蝶を押し込んだ。
「ゲェッ」
鱗粉で粉っぽく苦い塊をすかさず桃花鳥姫は吐き出す。暫く咳き込み、落ち着いた頃にはすっかり口周りは涎まみれだった。他の者では口元の緩んだ野良犬のように見苦しく映るだろう。だが人ならざる朱色の髪が顔に張り付き涙で瞳が潤む姿は雨に打たれ項垂れた野端の雛罌粟のような趣を醸し、さすがの風情だった。
「いけませんわ桃花鳥姫様。好き嫌いなんて、立派な姫君がすることじゃ御座いません」
糸織姫は頑是ない幼子を諭すよう言い聞かせ、桃花鳥姫を絲遊できつく縛り上げた。今更ながらにどうして女房達が身動きが取れないのか理解する。その間に嫋やかな手は少し濡れて欠けた蝶を拾う。
「さあ、今度はちゃんと吞み込んで」
固く口を閉ざし首を横に振る桃花鳥姫の顔を空いた手で固定し、およそ姫君らしくない乱暴な手つきで糸織姫はその小さな口腔に虫を捻じ込んだ。同じ轍は踏まないよう、今度は口と鼻を袖まで使ってしっかり塞ぐ。
「ン、ン゛ーーーーーー!!!」
嘔吐も呼吸もかなわない桃花鳥姫の顔が酸欠に段々と赤らむ。解放されるには舌の上にのせた異物を嚥下するしかない。桃花鳥姫の目にぶわりとせり上がった涙は、息苦しさからか、絶望からか。
やがて喉が数度蠕動するのを見届け糸織姫は傍らを離れた。
がくりと床に伏せ息を荒らげる桃花鳥姫。周りの女房はあまりの仕打ちに何人も嗚咽を漏らしていた。
「嬉しい、同じ間食を食べたことですし、これで二人は友達ですわね」
いつの間にかもう一匹の蜘蛛が献上した極楽蝶の翅を千切って唇に挟む糸織姫。婀娜っぽいその仕草を涙の痕が残る顔のまま呆然と桃花鳥姫は眺めた。
「さあ次は私の部屋にて遊びましょう。何がいいかしら。そうだ、桃花鳥姫様は線偶戯という人形劇を御存じ? 糸で木偶を操るんですけど……以前
手を胸の前で合わせる糸織姫の瞳が輝く。明けの明星にも似たその煌めきを惚けて見上げるしか、芋虫のように無様に転がった今の桃花鳥姫には出来なかった。
線偶戯も管絃も糸が欠かせない。きっと蜘蛛を眷属とする糸織姫の本領だろう。
仮に一本の蜘蛛の糸が目の前に垂れたとて、それは己を救い上げるではなく更に痛めつける物でしかないと辿り着いたばかりの地獄で桃花鳥姫は思い知った。
ライトノベルをぶっ●せ! 栞子 @sizuka0716
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