第3話 下働きの始まり ―New Home―
「ふぅ...」
夕暮れ時、一日の仕事を終えて伸びをする。と、
「あんた、どこに泊まるの?」
マリアの声に、ハッとする。
(しまった...!)
興奮で忘れていた現実。宿泊費のことなんて、全く考えていなかった。
「え、その...」
「宿も決めてないでしょ」
ズバッと言い当てられ、言葉に詰まる。そんな俺の様子を、マリアは腕を組んで眺めている。
「ちょっとあんた、こっち来なさい」
厨房の隅に連れて行かれ、マリアは俺をじっと観察し始めた。
「その手」
「え?」
「荒れてない。というか、力仕事した跡もない。体つきも華奢だし」
次第にマリアの表情が真剣になっていく。
「それに、その話し方。丁寧すぎる。衣服も妙に清潔感があって...」
一歩近づいてきて、
「体臭まで...ね。貴族の使用人でもしてたの?」
「あ、いえ...その...」
「深くは聞かないわ。でも、あんたその歳で住まいもなく冒険者になろうっていうんだから、何かあったんでしょ」
言葉を濁す俺に、マリアは溜息をつく。
「このまま放っとくと絶対襲われるわ。カモの香りプンプンじゃない」
「えっ」
「ウチ、来る?」
「...え?」
「空き部屋ならいくらでもあるのよ。家族が死んでから、使ってないし」
さらりと重たい事実を口にする。でも、その声には温かみがあった。
「住み込みってことで、雑用こなしてもらうけど。掃除に洗濯、それと料理の修行」
「あ、でも、お金は...」
「給料から食材費分くらい引くわ。それでいい?」
「え、でも、それじゃ家賃タダみたいなものでは...」
「いいの。その代わり」
マリアは真剣な顔で言う。
「夜、出歩かない。怪しい連中に関わらない。困ったことがあったら必ず相談。いい?」
その口調には、妙な懐かしさが滲んでいた。
「...はい」
「決まりね」
マリアはにっこりと笑う。
「じゃあ、今日から同居人ってことで。ついでに弟子ってことで」
「弟子...ですか?」
「その腕前なら、ちゃんと料理人として育てる価値はあるわ」
そう言って、マリアは厨房を出る支度を始めた。
「ほら、急がないと暗くなるわよ」
「あ、はい!」
慌てて後を追う。
街灯が一つ、また一つと灯り始める中、マリアの背中を追いながら考える。
(なんでこんなに、親切にしてくれるんだろう...)
答えは分からない。
でも、この優しさは、確かに温かかった。
「おーい、遅れないでよー」
「すみません!」
小走りで追いつく。
異世界転生初日。
思いがけない形で、新しい住まいが決まった。
終業後に食堂で夕飯を終え、マリアの家に向かう。
夜の街並みは、昼間とはまた違う雰囲気を醸し出していた。
「ここよ」
二階建ての石造りの家。
決して派手ではないが、しっかりとした造りの家屋だ。
「あの...」
「どうしたの?」
「い、いえ...その...」
(前世含めて初めて女性の家に上がるんですけど!)
心臓が早鈍りする。アニメやゲームでしか経験したことのない状況に、35年分の精神年齢が一気に崩壊しそうだ。
「まあ上がりなさい。明日も早いのよ」
「は、はい!」
玄関を入ると、シンプルな家具が並ぶ。
掃除は行き届いているものの、どこか寂しげな雰囲気がある。
「風呂は...って言いたいところだけど、一般家庭にはないのよ。公衆浴場はあるけど、今日は遅いし」
「え?」
「タオルで体を拭くだけにしましょ。着替えはこれを使って」
差し出された布を受け取る。
「部屋は...そうね。まだ掃除してないから、今日は私の部屋で寝ましょ」
「えええ!?」
思わず声が裏返る。
「そんな大げさな。ベッドは大きいし」
「い、いや、でも...」
「床で寝る?」
「...いえ」
結局、マリアのベッドで一緒に寝ることになった。
横になっても、緊張で全く眠れない。
マリアは「おやすみ」と言うなり、さっさと眠りについたようだ。
(落ち着け...落ち着け...)
結局、眠れずに過ごすが、かなり前から隣からは寝息が聞こえてくる。
そんな時、マリアが俺を抱き枕のように抱きしめてきた。
「ひっ」
声を押し殺す。
しかし次の瞬間、マリアの寝息が荒くなる。
「んっ...うぅ...」
うなされているような声。
顔を覗き込むと、眉間にしわを寄せ、苦しそうな表情をしている。
(悪夢...かな)
思わず、マリアの頭を撫でる。
祖母が幼い頃の俺にしてくれたように、優しく、ゆっくりと。
「...ん」
次第にマリアの表情が和らいでいく。
うなされる声も収まり、安らかな寝息へと変わっていった。
(よかった...)
ホッとした瞬間、疲れが一気に押し寄せる。
異世界転生。
冒険者登録。
食堂での仕事。
そして今、見知らぬ女性と同じベッドで。
(なんて、一日だったんだろう...)
考えているうちに、意識が遠のいていく。
最後に見たのは、月明かりに照らされたマリアの寝顔。
もう苦しそうな表情は消えていて、穏やかな寝息を立てていた。
(おやすみなさい...)
そうして、異世界での最初の夜が更けていった──。
*
「おーい、起きなさい」
まだ暗い内から、マリアの声で目を覚ます。
「んん...あ!」
昨夜の記憶が蘇り、飛び起きる。
「慌てなくていいから。でも急ぎましょ。朝の仕込みがあるわ」
*
薄明かりの中、ギルドに到着。
厨房には既に数名の姿があった。
「みんな、昨日言ってた新人よ」
マリアの声に全員が振り向く。
「ほう、この子が噂の器用な若造か」
声の主は、がっしりした体格のドワーフの男性。
薪を軽々と運びながら、愛想よく笑いかけてきた。
「俺はドルドだ。暖炉と燻製担当」
「ドワーフならではの火力管理ね」
マリアが補足する。
「あっちでサラダを作ってるのはルーナ」
長い耳を揺らしながら、エルフの女性が手を振る。
繊細な手つきで野菜を扱っている。
「エルフは植物との相性がいいから、野菜料理は彼女の担当」
「こんにちは♪」
明るい声で挨拶してくるのは、小柄なホビットの少女。
「ミリーよ。ホビットの味覚は抜群だから、味見と調味を任せてるの」
「よろしくね!」
最後に紹介されたのは、獣人の青年。
獣耳をピクピクさせながら、肉を捌いていた。
「レンだ。獣人の嗅覚で、肉の新鮮さを見分けるのが得意でな」
「私が料理長。この5人で回してるのよ」
マリアが胸を張る。
「で、あんたは...」
「ユウトです!よろしくお願いします!」
深々と頭を下げる。
「まずは下ごしらえから覚えてもらうわ。みんな、教えてあげてね」
「任せておけ!」
「もちろんです」
「楽しみね♪」
「期待してるぞ」
温かな返事が返ってくる。
(すごいな...)
人族、ドワーフ、エルフ、ホビット、獣人。
種族それぞれの特性を活かした役割分担。
アニメの世界が、目の前で現実となっている。
「ギルド内だから治安も良いわよ。冒険者が相手とはいえ、ここで暴れる馬鹿はいないわ」
マリアが言う。確かに、ギルドという権威は大きいらしい。
「さあ、着替えて。朝食の準備を始めるわよ」
「はい!」
エプロンを受け取り、着替える。
窓の外はまだ暗い。
でも、厨房は既に活気に満ちていた。
この仲間たちと一緒に働けることが、なんだか嬉しい。
目の前のまな板に、新鮮な野菜が並べられる。
「じゃ、カットから始めましょうか」
マリアの声に、包丁を握る。
(プログラミングと料理って、どこか似てるかも)
野菜を切りながら、ふとそんなことを考えた。
前世のIT企業では、ひたすらデスクに向かってコードを書いていた。たまに徹夜もあって、運動不足で体重も増える一方。そんな生活だった。
(こうして体を動かすの、意外と楽しいな)
16歳の若い体は、面白いように動いてくれる。汗を流しながらの仕込み作業も、苦にならない。
「おー、その手際の良さ!」
ドルドが薪を抱えながら声をかけてくる。
「皿洗いも丁寧だし、包丁さばきも器用だし。いい若手が来てくれたもんだ」
「そうそう♪」
ミリーも野菜の味見をしながら頷く。
「昨日作ったスープの下ごしらえ、すっごく丁寧だったよ?お客さんみんな美味しいって!」
「本当ですか!?」
思わず声が弾む。
程よい塩梅の褒め言葉。失敗してもフォローしてくれる優しさ。
日本の職場では経験したことのない、温かな空気。
「へへっ、嬉しそうだな」
レンが獣耳をピクピクさせながら笑う。
「でも、その素直さがいいんだ。謙虚に学ぶ姿勢があるからこそ、みんなも教えがいがあるってもんさ」
「私も教えやすいわ」
エルフのルーナも野菜を持ってきながら微笑む。
「ほら、この葉物の扱い方も覚えておきなさい」
「はい!」
日本の職場では、時間に追われ、常に成果を求められた。
ミスは許されず、人間関係も複雑だった。
でもここは違う。
のんびりとした空気の中で、それでいてみんな真剣に料理と向き合っている。
「ユウト、次はこっち手伝って」
マリアの声に振り返る。
料理長とは思えないほど、自分でも率先して動き回っている。
(ずっとここで働きたいな...)
そう思いながら、新しい作業に取り掛かる。
汗を拭いながらの労働は、確かに大変だ。
でも、不思議と疲れを感じない。
むしろ、充実感がある。
料理を作り、それを食べた人が喜んでくれる。
その単純な喜びが、こんなにも心地よいものだとは。
「よし、昼の準備始めるわよー!」
マリアの声が厨房に響く。
みんなが「おー!」と元気に返事をする。
前世では想像もできなかった光景。
異世界の、ギルドの食堂で。
種族の違う仲間たちと、こうして料理を作る日々。
(これって、案外、天職かもしれない)
そんな思いが、心の片隅で芽生え始めていた。
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