【老婦人】

ーーー


やってきた老婦人、元可憐な美人の話はこうだった。


夫に先立たれてもう十年になるけれど急にその旦那が夢に出てきたのだそう。亡くなってから夢を見たことなんてなかったのに十年経ってようやく目の前に現れてくれた、と。朝起きる頃には実際の世界でも泣いてしまうほど嬉しかったんだそう。

そこから貯めていた年金を使い果たすように思い出の地を巡っていたら東京観光の一環でこのカフェ(仮)に辿り着いた、とのことらしい。

「裏路地に迷い込んで本当によかったですわ。こんなに素敵で、わたしのお願いまで叶えてくださるカフェに出会えたんですもの」

「それはそれは、光栄です。マダム。それでいつにしましょう」

「そうねぇ…」

あの高貴な貴婦人(ランクアップ!)は恐らく旦那さんとの思い出を再び背中しか見れずとも見てみたいのだろう。どういう思い出があるのかすごく気になる。

「あのぉ、これって店主さんも着いて来られるのですか?」

「ご希望通りにいたします。ただルール上、その時間軸までは一緒に向かいます。待っていろ、とおっしゃるのでしたらそこで待っていますし、背中を向けろ、耳を塞げ、なども対応いたします。そこはね、こう、臨機応変に」

「そうなんですね」

残念そうだ。でも顔は安心しているようだ。叫びたい子心の奥底の安生はなるべく人に聞かれたくないよね。わかるわかる。1人カラオケってなんであんなに店員さんが気まずい対象になってしまうのか。僕もよく考えます。お気持ち、すごく理解が出来ますよ。マダム。

することもないので本を手に取る。このバイトはすごく自由だ。店主に怒られないようにするのが最低限のルール。その他にも法律がルールだったり、暗黙の了解があったりする。それを破りさえしなければ何を下って構わなかった。

コーヒーは飲み放題だし、紅茶も同じく。あんまり現代文学って感じの方はないけれど、本棚から拝借してもいい。持って来てもいいし、読書は褒められる。

長すぎて見上げるほどの店主に頭を撫でられたことがあるくらい。店主は読書がすごく好きらしい。読書をしている人が好きなのかもしれないけれどね。

東京の裏の方というだけで電波が通りにくいらしい。テレビはないし、ゲームとかスマホを触る、とかっていうのは禁止だ。別に怒られはしないし、お客さんがいない時には構わない、と言われているけど店主が悲しそうな顔をするからちょっとだけバツが悪い。

ある程度の広さがある中庭は四方を建物で囲われていて箱庭の方が近い僕の一番お気に入りの空間だ。上を見て、都会の空って狭いなってビル群の中で思う社会人ごっこをたまにしている。

昼寝をしたってよかった。

店員昼寝中、っていう札があるくらい。小さい文字で叩き起こしてください、って書かれているんだけど未だに寝ている時にお客さんが来たことはない。

いいんだぜ、起こしてくれてもベイベ。

そして昼寝も大いに褒められた。眠る子は良く育つ。もう成長期は終わったよ、って言いたいところだけれど褒められて悪い気はしなかった。素直にそのお褒めの言葉を受け取った。

店主は総じて優しい人だ。今でこそあまり顔を合わせないけれど最初の方は店主直々に教えてくださった。お茶の淹れ方だけは厳しくて何回か挫折しそうになったけれど、今では紅茶が趣味だ。どこかに旅行にでも行って、お土産に迷うと紅茶を買うほど。それほど熱狂的って訳じゃないけれど。

どんな人?と聞かれるとすごく回答が難しい。優しい、っていうのがやっぱり真っ先に出てくるようなそんな人。

怒る時は声を荒げたり、注意はしない。僕が正しいことをするまで待つ。悪意がなければそのまま待つし、聞けば答えてくれる。具体的な答え全てを言わせるような質問の仕方だと自分で考えろって遠回しに言われる。だからこうこう、こうしてもいいですか?ってこっちが具体的になる。すると口を開く。

悪意がある、というかサボタージュ的行為には悲しい顔をする。ごめんって、って言いたくなる子供が純粋に悲しいと感じている時みたいな。そんな表情にはいつでも負けてしまう。強情は張り通せないものだ。

雇用主と、雇用されている側、っていう立場だからどうしても僕が店主を好いた方が都合がいいとも思っている。だからいいところを見ようとしたり、嫌なところがあってもツンデレか、で終わらせるようにしよう。それが今までのバイトのやり過ごし方だった。そんな必要はないくらいここは居心地のいい場所だった。


さて、老婦人の話に戻ろう。

話がかなりいいところまで進んでいるらしかった。老婦人が綺麗なレースが編まれたハンカチを目元に当てている。でも口元には笑みが浮かんでいる。面白過ぎて涙が出るほどに笑ってしまったのだろうか。

「さて、君、向かう準備をしようか」

僕の方を向いて店主はそう言う。

「はい」

店主の方を向いて僕はそう言う。

店の奥には大きな電子レンジみたいなものがある。先ずはそのさらに奥にある部屋に店主が向かう。そしてお客さんが書いた刑悪書、具体的な日時をシュレッダーっぽい機械にかける。具体的な名前はまだ知らない。機械の熱のせいか、粉砕しているわけじゃなく燃やしているせいか、煙たい空気になる。

あとは店主の微調整で出発の準備が整う。

浦島効果よろしくの昔に戻れば戻るほど、という代償はない。過去にいた時間だけ、現実世界でも時間がなくなるだけ。現在、という時間軸から二人の人間が消えるのだ。それも古びて、客も来ないような、一見普通に見える魔法の喫茶店の中で。誰も心配しない。

やっぱりお客さんってそういう人が多いんだよね。

アルバイト風情がついて行けるわけがないので僕はそのままお見送り。

「じゃあ行きましょうか」

レディーファーストなのか店主が先に電子レンジの中に促す。恐る恐る老婦人は足を踏み入れる。そこで止まってください、という言葉が電子レンジの中で反響してくぐもった音も聞こえてくる。

「じゃあ君、行ってくるよ」

「はい、行ってらっしゃい」

そう声をかけることを忘れない。もちろん僕だけじゃなく他の従業員全員にしていることなんだろうが。メンヘラなわけじゃあるまいし僕は気にしない。


また一人の時間が訪れる。


静寂、とはこういうことなのか

辞書で見る生半可な説明よりも感じた方がはるかに理解が出来る。百聞は一見に如かず、という言葉の本質もここで見たような気がする。

老婦人は一体どのくらいで帰ってくるのだろうか。


老婦人が帰ってきたのは電子レンジの中に入ってから30分だけ経った僕の2杯目のコーヒーが煙を消した頃。読み始めた小説は佳境になってきている。

「おかえりなさい」

早い方だ。2時間も帰ってこない人だっているし、1日宿泊タイプのお客さんもいる。1日以上、ってなると現実という時間軸に影響が出かねないので別料金となっている。時間の混乱が限りなくゼロに近いと判断された時だけ別料金をわざわざお支払い頂き、宿泊プランのサービスを提供する。

店主は付きっきりじゃないし、店主はその時間軸を楽しめる。その時代にしかなかったでしょ、みたいな自動販売機で売られているコーラをお土産にもらったことがある。許されていていいなぁ。

「どうでした、マダム。昔年の想いは解消されましたか?」

「えぇ、すっきりしたわ。本当にここに来てよかったわ」

「そう言っていただけてなによりです。マダムの現在が充実していきますように」

「きっとそうなるわ。今まで、長く生きてきてるけれどこんなにもすっきりしたことはないんだもの!」

やってきた時のくたびれた表情とは打って変わった少女のような笑顔を見せている。珍しくない感情の変化に戸惑いを見せることも無く僕はお会計の準備をする。

店主はお会計とか、お金を操るのがものすごく嫌いで、プランの説明は全部自分でしたがるくせに、お金のやり取りだけは僕たちに任せる。全部やってくれ。

「えーと、60年前に、30分滞在、とのことでしたので合計して…」

「君」

耳元に顔を寄せて何か呟かれる。聞き取れないくらい低い声だけど内容は大体察しがつくし。

「はいはい。分かってますよ。お客さん、初めてですし、割り引かせて頂きますね」

「あらっ、悪いわね」

「いえいえ。本来6030円ですけれども…5000円で」

「このお店それで成り立つの?」

「えぇ、大丈夫なんですよ。まぁ、僕も不思議に思ってるんですけど」

小さく笑いながら言うとマダムは微笑んだ。老舗のブランド財布から新札の晶子を渡してくれた。そのままレジに突っ込んで、ドアの方まで向かう。

「では、お気をつけてお帰りください」

「お見送り、ありがとうね。今日は本当に、ありがとう。店主の方にも、あれ、名前なって言ったかしら。よろしく、お願いね」

「はい。伝えておきます」

またのご来店、とは言わない。何度も過去に浸ってはいけないのだ。今を生きないといけないから。結局戻らなきゃいけないんだから。


ーーー


久しぶりに見た舗装もされていない土の地面。間隔広く並ぶ薄暗い街頭にたかる羽虫たち。昔特有のセキュリティの固まっていない店々。今では田舎独特、になってしまっているけれど昔はどこもこうだった。

育った街の、成長を見守ってくれたこの街の夕暮れ時に降り立つ。この光景に涙が出てきそうになる。懐かしさ、不便さに対するもどかしさ。やはりここで生きたのだという実感。

でも私が行きたい場所はここではない。

この日の、この時間の私たちがいる場所くらい分かっている。だからこの日に戻らせてもらった。今日は花火大会。人の少ない街なのに、今日はこんなにも賑わっている。私っは、私たちは、夜の中学校に忍び込んで学生時代のことに思いを馳せたのだ。

店主さんの方を見ると物珍しそうな視線をせわしなく動かすわけでもなく私の行動を待っているように見えた。

「30分くらい、で済むと思うんです。それまでは見ないで欲しいのですが…」

「もちろんです。私も探索するので少々待たせてしまうかもしれませんが、用がお済になりましたらここに戻って来てください。落ち合い次第、一緒に現在へ帰りましょう」

「はい。お願いします」

体の節々が痛む老体を動かす。

みんな私のことなんて見えていない。服装も似通って、顔を覚えないと見分けがつかないような人の中に知り合いを山のように見つける。大半はもうすでに亡くなってしまっているけれど。また会いたい、と泣いた人も。もう二度と会いたくない、という人も。

そういう懐古の気持ちが現代を生きる糧になると思って店主さんはあのお店をやっているのだろうか。昔も、二十四時間三百六十五日ちゃんと生きていたと気付けば、昔の全てが今に繋がっている、って思い直せる。様々な奇跡の上に、今の自分という存在が成り立っている、と。

学校へと急いだ。

横断歩道は無視した。誰にも怒られなかったし、車も今ほど走っていなかった。

怒られないのはそりゃあ、見えていないのだから当然でしょうか。

隣の町か、市かの学校と一緒になる、とのことで私たちの通っていた中学校は去年廃校になっていた。でも対象とした私も、本来の目的である私の会いたい人もなまじっか通っていなかったので裏口くらい分かっている。そういう記憶は不思議と色褪せないもので迷わずそこに辿り着いた。裏口を通って校舎内に侵入。

昔のことを思い出す。

何十年も前なのに昨日までここに通っていたんじゃないかと錯覚した。卒業してから高校に上がってからも度々学校を待ち合わせ場所にしたりした。担任の先生に懐いていた私たちのクラスは用事もないのに集まることも多かった。

年老いて面影なんて残っていないのに、学校の中を走る私は、自分が少女時代に戻ったような感覚になる。階段は走れないし、今よりは涼しいけれどしんどい暑さが服全体を包む。

遅い夕暮れが空を赤に染めていく。もう夜の方が近い。

息切れのせいで上手く呼吸が出来ない。来月施設に入ることだって決まっているいうことを利かなくなってきてしまったブリキの人形をどうにか動かす。三十分で戻らなくたっていいのだ。そんな制限を付けたのは名残惜しくなってしまいそうだったから。戻りたくない、って思ってしまうかもしれないから。

現実ってすごく残酷だ。

趣味だった編み物は出来ないくらい手が震えるようになってしまったし、老眼鏡をかけないと新聞だって読めなかった。息子夫婦は家にやって来て、それから施設に入ることになってしまったわけだし。

老人はどこに行っても厄介者扱いなのかしら、と孤独を感じる。

結婚してすぐに仕事を止めて専業主婦になったから世間を知ることもなかったし。

もっともっと前に今くらい世界が発展してくれていたら。

私だって一人の人間としての人生を歩みたかった。

四階の上にある屋上の扉を開く。横並びに座っている一組の男女の背中に向けて私は声の限り叫んだ。激しい運動後の口の中のねばつきが吐血の感覚と似ている。血を吐いたことはないけれど、私の気持ちの嘔吐の激しさはそれに匹敵する。言葉が喉を傷つけながら外側に放出されていく。

「このっ、馬鹿野郎ー!!」

その男を選んだ私も馬鹿だし、その男はそもそも馬鹿だ。私のことを一人の人間として見たことなんかないどうしようもない男だ。若い時に出会わなければ決して結婚なんかしなかった。

「アンタのっ、アンタのっ、せいで!若いからって、お互いに、馬鹿なのよ!」

生まれた息子は高校生になって悪を知った。それまで父親であるあの男が押さえつけていたせいだ。その抑圧されていた感情が自由に使える金が増え、行動範囲も広がった高校生で一気に解放された。私が教育に口を出すと烈火のごとく怒り狂う教育者には向いていない人間の血が続くこの光景を目の当たりにしている私の気持ちを知らないくせに。

「アンタ、この、この…馬鹿っ!」

それでもちゃんと好きだったのよ。

夢に出てきて泣く程に嬉しかったのは恨み言を思い出してようやく嫌えそうだったからでもあったけど、なによりもまた会いたかった。その感情を思い出してから心の中の調整の取れなさに腹が立った。

『母さん、そろそろいろいろ考えられるようになった?父さんが死んでから』

『私も、もうそんな歳かしら』

『うーん、その、なんて言うかさ、父さんの介護で今まで疲れただろ。俺たちだってそんなに来てやれるわけじゃないし』

『私は大丈夫よ』

『この家のことが心配なら安心してくれ。売るつもりはないから』

私にいなくなってほしいんだろう、と思った。

『当たり前じゃない、売るわけないわ。はいはい、老人は出ていきますよ』

ひねくれてしまうのよね。

『違うんだよ。出て行って欲しいわけじゃなくって、リフォームをしようって話で』

『お義母さん、足腰だいぶ弱くなってきてるじゃない?だから階段とか、お部屋とか。床も気になるところあるじゃないですか』

『それでみんなで住むのはどうだろうってなったんだよ』

結局それを選んだのは私だったのね。

同居が始まって、車の運転が怖くなって、持てないものが増えて。迷惑をかけているようでどうしようもなくなってしまったから私が施設に入ろう、と決めたのだった。認知症でもない、自分で歩ける、判断能力があるような人も受け入れてくれる施設を私が探して息子たちに提案した。

自分たちで介護だって出来る、と言ってくれたけれど私はそれを断った。同居を続けていくうちにいつかお世話になることが分かっても自分でできていたことが出来なくなるのを見て欲しくなかった。それに旅行も遠出も自分のせいで制限させているように思って心が苦しかった。

貯めていた年金、お父さんの残したお金で入所できるようになって、その入所前の東京旅行。

いい思い出だ。

「ちゃんと好きでした…」

本当に。世界で一番大嫌いで、世界で一番大好きな旦那様。

私の声は届かない。

もっと言えていたらよかったのに。もっと貴方のことを愛しています、と。なんだか照れ臭いことのように思えて。時代のせいもあっただろうけど、旦那様の三歩後ろを歩くような人だったからか。

会いたい。貴方に、すごく会いたい。

息子も立派に育ちました。

「貴方が将来大切に育てる子供は、立派な先生になりますよ」

見合いの席で堅苦しい雰囲気が私たちには合わないね、と手を取って走り出してくれた貴方にまた会いたい。また抱きしめられたい、と願ってしまう。

「ありがとうございました…」

声が掠れる。けれどちゃんと伝えなければいけない。

花火が上がった。

「貴方は馬鹿よ、でもその選択は間違いじゃないわ。世界で一番嫌いだけど、世界で一番大好きな人になるよ。とっても素敵な人になるよ」

若い盲目の心は成長して後悔することもあるかもしれないけど、私はたくさんの後悔を乗り越えました。水平線から昇る朝日のように綺麗に思えるようになるよ。

ものすごく馬鹿。

「貴方、ありがとう」

花火が私たちを照らした。二人の影が濃厚になった。

大きい音が私の声をかき消したのか、そもそも届かないのか。届いてほしいと願うけれど、届かないでくれとも願う。貴方が少しでも判断に迷うような大人な心があれば今の私はいない。息子もいない。孫もいない。

だからやっぱり気付かないで。

そのまま愚かな恋愛をしていて。

大変なこともたくさん起こっていくけれどなんとかやっていけます。若いが故のその心で。ただ純粋に。


「じゃあ、幸せになりましょうか」


それがプロポーズの言葉だった。花火の隙間に聞こえてきたその言葉の声のトーンは斎尾に聞いた十年前と何も変わりがなかった。溢れる涙を拭って背を向けた。

店主さんと待ち合わせをしている場所まで。

全身に蠅をたからせているほどに汚れた人間に見えているのか人が私を避けていく。この時間軸に存在する私はあの屋上にいる私だけなのだから。

「帰りましょうか」

降り立った場所に近い場所で店主さんにそう声をかけられた。

「はい」

謎のドアに入って行って、来た時と同じような不思議な音が鳴る。


「おかえりなさい」


ーーー

あおいそこの

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