第8話 傷
二人から早百合のいる寮の場所を聞き出した俺はその場所へと向かっている。
一緒に帰っていたため途中まではすぐに分かったのだがそれ以降はところどころ迷ってしまいずいぶん時間が経ってしまった。
というのも、あいつの住んでいる場所はただでさえ人の少ない島でもさらに人里離れた場所にあったのだ。
林の中、というか木々に囲まれた山道に近い道を通っていく。
「なんでこんなに遠いんだよ」
あいついつもこんな距離を歩いてたのか。登下校も楽じゃないぞ。
俺は教えてもらった道を進んでいきついに一つのアパートを見つけた。
周りは当然木ばかりで緑が生い茂っている。その中にぽつんと建つアパートは白い外装がところどころ剥げている。
もとからあったものをそのまま使っているようだ。
外はすっかり暗くなり街灯の光が古いアパートを照らしている。
俺は鞄を持ち直しアパートの階段を上っていく。早百合以外いないのだから一階に住めばいいものを。
二〇二号室。二階にある部屋の前に立ちインターホンを押す。
ピンポーン。
返事はない。音は鳴ってるはずだがな。もう一度押してみるがやはり返事はない。いないのか?
「おーい早百合ー? いないのかー?」
せっかくここまで来たのに無駄足なんて嫌だぞ。こっちは早百合の鞄もあるしまた来なくちゃ駄目じゃねえか。
「お前の鞄を持ってきたんだ。どうすればいいんだよこれ」
「そこに置いといて」
「いるじゃねえか」
扉越しに彼女の声が聞こえる。元気のない声だ。
「いるなら手渡せばいいじゃねえか。とりあえずここ開けてくれよ」
「駄目だよ」
「なんでだよ」
そう言うと早百合は黙ってしまった。どうしたものか困る。
「いいからここを開けてくれ。俺は帰らないぞ。ずっとここに座り込んでやるからな。何時間でも何日でも待ってやるからな。どうだ、辛いだろ? 主に俺が。そんなの嫌だからここを開けろ、俺だってそんなのしたくないんだよ! 開けろぉお!」
ドアをドンドンと叩きつける。ここまで来たんだ、意地でも開けてやるからな。
するとガチャリと鍵が開く音がした。扉が少しだけ開けられる。
「鞄」
その隙間から早百合がこちらを覗いてくる。手をそっと差し出した。
「おお」
俺は鞄を手渡す。早百合は引っ込めるとすぐに扉を閉めようとした。
「おっと」
その前に靴を差し込みブロックする。
「急ぐなよ。せっかくだしさ、もう少し話そうぜ」
早百合は明らかに避けている。それは分かっているんだ。でも俺だって引けない。こんな早百合を前にして放ってなんておけないだろ。
「なあ早百合、お前のことが心配なんだ。昨日、ほら、早退しただろ? 今日だって来なかったし。みんなも心配してたぞ。だからさ、元気出してまた来いよ」
こいつには前みたいに明るくなって欲しい。
元気になって欲しい。それは俺だけじゃなくて深田や椎名だって同じだ。
なんていうか、寂しいんだよ。
「ごめんね、心配かけて」
早百合の言葉を聞いてホッとする。分かってくれたのか?
「いいって。学校にこればあいつらも安心するさ」
「でも、私決めたんだ。もう、学校には行かないって」
「え、なんでだよ」
が、浮ついた気持ちはすぐに落ちる。
「どうしてそんなこと言うんだ。そりゃ、あんなことがあってショックだったのは分かるけどさ、もう来ないなんて決めることはないだろう」
どうしてそんなことを。あれはそんなにも早百合にとって辛いことだったのか? それかそれ以外になにかあるのか?
「早百合、中に入れてくれ。このまま帰るなんてできないだろ」
理由が知りたい。できるならそれをなんとかしたい。
「話をするまで、俺は帰らないからな」
胸からわき上がる思いが決意を固くする。彼女の返事を待つ。
しばらくすると、扉がゆっくりと開きそこから早百合が顔を見せた。
「ずるいよね、鏡君は。そんなのほとんど脅迫だよ」
「侵入されるよりはマシだろ」
俺は早百合の部屋へと上がり込んだ。
「お邪魔しまーす……」
人の部屋に入るというのは少し緊張するもので恐る恐る入っていく。
中はかなり小綺麗な部屋だった。というかかなり質素な印象を受ける。
机やテーブル、ベッド、娯楽らしいのはテレビくらいであとは特にない。女の子らしいぬいぐるみとかピンクのカーテンはなしだ。
「ごめんね、なにもなくて。適当に座ってくれていいから」
「まあ、気にしねえよ」
俺はベッドの前に座り込み背もたれる。辺りを改めて見渡すが本当にすっきりしているな。まあ、それは本人のセンスだから別にいいんだが。
早百合は俺の隣に座り込んだ。
「本当はね、こうして一緒にいるのも駄目なんだよ? 今回は特別なんだからね」
「光栄だね」
「そんなんじゃないよ」
隣に振り向く。早百合は体育座りをして顔を下に向けていた。
「相手が鏡君だからとか関係なくて。誰でもさ。私は、一人の方がいいんだよ」
「なんだよ、上代の物真似か? いい線いってるけどお前には似合わないって」
「そんなんじゃないよ」
「別に、そこまで自分を追い込むことないだろ。あれはあれとして、また前みたいになれるさ。上代だって許してくれると思うぞ?」
ちょっとクラスメイトと喧嘩をしただけで一人になった方がいいなんて飛躍し過ぎだ。悲観的になり過ぎじゃないか?
「ううん、違うんだ」
「なにが違うんだよ」
「鏡君は知らないからそう言えるんだよ」
早百合の顔をのぞき込む。彼女の瞳が寂しそうに細められる。
早百合は、まるで泣きそうだった。
瞼を強く閉じ、足を抱える腕に力を入れる。体を縮めて丸めた背中は押しつぶされそうだった。
「…………」
そのあまりにも悲しそうな姿になにも言えない。
それで考える。俺の知らないこと。それはいったいなんなんのか。でもすぐに思いつく。
それって、傷のことで間違いないよな?
彼女の傷。当然俺は知らない。いったいどんな能力なのか、それがどれだけ危険なのか。
傷持ちにとって傷を知ることはタブー視されている。それは初日に痛いほど思い知った。
秘密にしなければならない。もし明かされた時それが相手にどんな影響を与えるのか。
もしかしたら今まで築いてきた人間関係を一瞬で壊してしまうかもしれない。
それを知った時、俺は彼女をどう思うのか。
でも。
「言えよ」
隣でうずくまる女の子に向け優しく言う。
「大丈夫だって」
俺が彼女を嫌いになるなんてことはない。
そう思うけど早百合からすれば不安で仕方がない。
「言えないよ……言えるわけがないよ。言ったら鏡君は私をどう思う? 絶対に嫌いになる。私の隣にいたいなんて思わないよ」
見れば、彼女の頬を一粒の涙が通っていた。
「鏡君だけじゃない。真冬ちゃんも、亜紀ちゃんも、京香ちゃんも。みんな私を避けるようになる。そんなの嫌だもん。嫌われるくらいなら、一人でいいよ」
次第に涙の量は増え声も声涙に変わっていた。息は熱を帯び唇が震えている。
溢れる涙を押し殺し、早百合は一人自分の重荷と戦っていた。
「俺は確かに早百合の傷がなにかを知らない。それがどれだけ危険なものかも知らない。でもさ、それがどんな能力だったとしても俺は嫌いにならないよ」
「どうして?」
早百合が濡れた瞳を俺に向ける。
「どうしてそんなことが言えるの? 分からないじゃん」
「俺がお前を嫌いになるなんてあり得ない。絶対にそんなことしないって!」
俺は彼女のことを全然知らない。不登校だったのもつい先日知ったばかりだ。
だけど早百合は嫌いにならない。たとえなにがあっても。
だって、俺はこいつに救われたんだ。鎖で閉じ込められたあんな絶望的な状況でだぜ? そんな人をどうして嫌いになれる。
「……なんで、そんなに簡単に言えるの?」
そう思って言っていた俺に、早百合は言った。
「じゃあ鏡君は言えるの、自分の傷のことが」
「え」
「自分の傷を明かして、それでもその人と一緒にいられると思うの?」
初めて向けられる怒気に、なによりその質問に面食らってしまう。
自分の傷を明かすこと。それが俺には出来るのか?
「それは」
「出来ないでしょ? 自分が出来ないのにそんな風に言わないでよ」
早百合はまたも顔を両足に埋めてしまう。
「そんな、単純なことじゃない……!」
自分の気持ちを押し殺し、奥にしまう。彼女の苦しみが分かるのは同じ立場の人間だけだ。
「ごめん、早百合」
そこに思い至れなかった。自分は早百合を嫌いにならない、俺なら大丈夫。その気持ちだけで彼女を分かった気でいた。
考えたこともなかった。自分の傷を明かすこと。それがどういうことか。
ここで俺は言えるか? 俺がどういう存在なのか? 俺の秘密を打ち明けるのか? そんなことをしたらどうなる?
嫌な予感が頭の中を支配する。浮かんでくるのは怯えた表情で俺を見る早百合とそれから去っていく光景。
それから話が広まったら深田も、上代はもとからだがみんな俺から去っていくだろう。
ついには誰もいない教室で俺だけが一人ぼっちでそこにいる。
そんな未来が容易に想像できる。確信が持てる。
自分がどれだけ親しいと思っていても、相手はきっと自分の前から姿を消していくだろうって。
「そうだよな、辛いよな……」
想像してみる。早百合が俺の傷を知って怯えて、逃げるように俺から離れていく場面を。
それはとても悲しくて、想像しただけで胸が締め付けられる。
次第には、涙まで流れてきた。
「俺が無神経だった。ごめん」
瞼の奥が熱くなり、一つの涙が頬を流れていく。
「鏡君?」
いやだ、嫌われたくない。特に彼女には嫌われたくない。彼女にだけは。
体が熱くなってくる。溢れる思いは止まることはなくて、涙になって流れ出てくる。
頬から通り過ぎていき、落ちた一滴が手の甲に落ちた。
「怖いよな、自分の傷を明かすってこと。それで相手から嫌われるんだからさ。それを明かせばどうなるか分かるから。すごく怖くて、すごく辛い」
自分がどんなに大切に思っていても、その相手は離れていってしまう。
「だから分かるよ、早百合の気持ち。だけど! それでも言えるんだ! お前から離れたりしないって! だって!」
それでも早百合を見る。いつも明るくて、元気で、誰よりも笑顔が似合う女の子。
だけどそうじゃない。
俺にとって、お前は!
「言ってくれたじゃないか、いい友達になれるって!」
「――――」
俺を見つけてくれた。そして初めて俺を友達だと言ってくれた。
それが、どれだけ嬉しかったか。
「お前はなんの気なしに言ってくれただけかもしれない。だけど俺にとっては、ほんとうに、救われるほど嬉しかったんだ。俺と友達になってくれるって、その一言でまるで生きていてもいいんだって認められたような気がして」
嫌いになるんなて、あるはずがない。
言っていて、だめだ、涙が止まらない。
「俺さ、本当は生まれてきちゃ駄目だったんだ。ここにいたらいけない存在なんだよ。だけど、俺も生きていてもいい。生まれてきてもよかったって、そう思いたくて。でも、でもできなくて……!」
辛かった。当時を思い出せば虚無と絶望。自己否定を繰り返す日々。どうして自分がここにいるのか、生まれてきたのか延々と繰り返し自問していた。
答えはいつも否定ばかりだった。
俺は、ここにいたら駄目なんだって。
「だけど! お前に救われた。ずっと一人だったあの場所から見つけてくれた。そんなお前に」
彼女は、恩人だ。俺を救ってくれたんだ。
「嫌われたくないよ。俺の傷を明かしてさ、怖がれれたら? そんなの……!」
そんな人にまで避けられたら? 俺はなんのために生まれてきたんだ?
ただ嫌われて、ただ避けられるためだけに生まれてきたのか?
そんなのが、許されていいのかよ。
「俺がお前を嫌いになるなんてあり得ない。けど、俺がお前に嫌われたらと思うと、俺は!」
そんなの、悲しすぎる。辛すぎるよ。
「一人なんて、そんな……そんなのって」
「大丈夫! 私がいる。私がいるよ!」
その時だった。体が引き寄せられて。
早百合が、抱きついていた。涙が頬を通る。その頬に彼女の頬が重なる。
早百合は両腕を背中に回していた。強く、彼女の力が体を引き寄せる。
「ずっと鏡君を抱きしめてあげる。ずっと一緒にいてあげるから」
彼女の熱い息が耳元で聞こえる。彼女の涙を感じる。彼女の髪が顔にかかる。
俺の不安を、早百合は受け止めてくれていた。
「ああ。俺も。ずっと一緒だ。絶対に一人にしたりしないから」
俺も彼女の背中に腕を回した。彼女の細い体を引き寄せる。絶対に放さない。この人だけは、絶対に。
ハリネズミのジレンマ。それは近づくと相手の針が刺さって傷ついてしまうという悩み。
でもこれは半分正解で半分間違いだ。
傷つくなんてどうでもいいんだ。自分の体が痛もうがどうでもいいんだ。
相手に、受け入れてもらえるかどうかなんだ。相手を傷つけてしまうことが怖いんだ。
相手が離れて行ってしまうのが恐ろしいんだ。
だから。相手が受け入れてくれるなら。
いいよ。この身が貫かれようと。何本でも突き刺してくれ。それで君を抱きしめられるなら。
互いに血を流し、痛みに耐えて、それでも触れ合えるなら。
その温かさがあれば、なにも怖くないから。
「たとえ針が刺さって、傷だらけになったとしても」
俺たちが抱く傷。それは相手を傷つける。
「たとえ血だらけの体になったとしても」
近づけば互いが無事ではいられない。
だけど。
「この手は、絶対に放さないから」
「うん……」
俺たちは抱き合った。片方の手が重なり合う。指を絡め放さないように握り合う。
傷の不安や怖れも受け入れて。この痛みと引き替えに俺たちは抱き合うことが出来た。
触れ合うことが出来たんだ。心を通わして、本当の意味で分かり合えた。
俺たちはもう、恐れなくていい。
「ほんとうに、離れていったりしない?」
「ああ」
「私の傷を知っても、嫌いにならない?」
「嫌いにならない」
それだけは絶対に言える。ああ、神様の前でも言えるさ。
お前がどんな傷を持っていても、お前から離れたりしないって。
俺がそう言うと、早百合はつぶやくように言い出した。
「京香ちゃんがね、机に額をぶつけて血を出したでしょ。あれ、たぶん私のせいなんだ」
「え?」
耳元のすぐ近くで彼女の声が聞こえる。
「それが、私の傷なんだ」
彼女の声は落ち着いていた。だけど分かる。彼女の手は震えていたから。
自分の傷。それを、打ち明けた。
「私は、いるだけで周りの人を不幸にしちゃうんだ。たとえばね、お父さんとお母さん。私がまだ小さいころドライブでね、交通事故で死んじゃったの。私は奇跡的に助かったんだけどね」
そうだったのか。
早百合の家庭どころか過去のことなんてなにも知らなかった。そんな悲しい過去があるなんて想像もしなかった。
「それだけじゃないんだ。私を引き取ってくれた叔父さんがいたんだけど、経営していた会社が倒産して自殺したんだ」
「…………」
早百合の言葉に、返す言葉が見つからない。
「その後私は施設に入れられたんだ。みんな私を歓迎してくれた。先生も周りのみんなも全員いい人だった。私とすぐに友達になってくれたしそのおかげで時間はかかったけど私もようやく前に進む気になれたの。なのに、施設で火事があって、私以外の全員亡くなっちゃった」
彼女が今どんな表情をしているのか、抱き合っている俺には分からない。ただ手の力が強くなり、それに応えるために俺も力を入れる。
「それからもね、多くの人が不幸になった。大けがを負った人や事故に遭った人。本当に多くの人が。わけが分からないよ。どうして私の周りの人はいつも死んでいくの? いつも不幸になるの? それがずっと辛かった。私が苦しいだけならまだいい。それよりも私と関係を持ったていうだけで人が死んでいくのが辛かった。ずっと悲しくて、ずっと悔しくて、ずっとなにかを恨んでた。でもなにを恨めばいいの? それすら分からない」
なんの罪のない人が自分のせいで死んでいく。
人によってはそれは体を傷つけられるよりも痛いことだ。彼女は生まれてからずっと良心の呵責という傷を受け続けていたんだ。
「辛かった。どんなに努力しても、どんなに才能があっても、どんなに優しい人でも、運が悪かったっていう理由だけで理不尽に死んでいく。そして、そんな現実を見せつけられる」
常に自己嫌悪と罪の意識を植え付けられる。それはどんな人生なんだろう。
「私はなにを恨めばいいの? どうすればいいの? 考えたけど、どうしようもないよね。原因なんてないんだもん。ただ、結果として周りの人が不幸になって死んでいく」
相手は悪くない。自分だって悪くない。原因不明。ただ、人が死んでいく。そんなのどうしようもできない。
唯一の方法は、誰とも近づかないという孤独だけ。
「それが、私の傷なの」
それが桃川早百合。心優しい薔薇のような女の子だった。
「これを知って、それでも鏡君は私のそばにいてくれるって、そう言ってくれる?」
こうしている今だっていつ不幸が訪れるのか。もしかしたらそれで死んでしまうかもしれない。それがいつなのか、早百合はそれを心配し、怯えていた。
「当然だ」
その質問の、答えはすでに決まってる。何度だって言ってやる。
「俺がお前を嫌いになることなんてないよ、早百合」
「怖くないの?」
その質問は当然だ。普通なら死ぬのは怖い。なんなら一番怖いだろう。
「いいさ。どうせ傷だらけの人生だ。それなら最後までお前の隣に居たい。少しでもお前と一緒にいてさ、学校行ったり遊んだり、普通の時間を過ごしてさ。それで死ねるならハッピーじゃねえか。嫌だぜ? お前のいない人生なんてさ」
こいつが不安なのは分かる。だけどこれが本心だ。安心して欲しい。お前に傷つけられても、俺は離れたりしない。
「う……んん」
そう言うと早百合からまたも涙を押し殺した声が聞こえてきた。よほど怖かったんだろう。
だけどそんなことはないと分かった。彼女の気持ちを思い俺は口元が緩んでいく。
「無意味に生きるくらいなら、お前と一緒にいたい」
これが、俺の嘘偽らざる本音だから。
「ありがと、鏡君」
「感謝されるもんじゃない、俺がしたいだけだよ」
「鏡君の、傷はなんなの……?」
その質問に緩んでいた口元が引き締まる。
早百合は自分の傷を教えてくれた。勇気ある告白だ。
それなら次は俺の番だ。今度は俺が彼女に傷を明かさなければならない。
「…………」
分かってる。彼女は教えてくれたんだ。不安で、心配で、苦しくて。それでも俺を信じて打ち明けてくれたんだ。
言え。言うんだ俺。
「お……おれ、は」
言おうとするのに、この口は上手く動いてくれない。喋りはどもって言葉がなかなか出てこない。
「大丈夫。大丈夫だよ」
不安が胸を重くして、心配が喉を締め付ける。
「どんな傷だって、私は離れたりしない。鏡君を抱きしめてあげる」
そんな俺を、早百合は優しく抱きしめてくれている。
この温もりをもしかしたら手放すことになるかもしれない。それは嫌だけど、怖いけど。
踏み出すんだ。もっと近づくために。前に出て、彼女と触れ合うために。
「俺の傷は、『壊すこと』なんだ」
言った。言ってしまった。あれほど重かった暗い感情がどっさり消えて今では空虚だ。
すべてを無くしてしまったかのように。胸に穴が開いている。
「だから世界だって念じれば壊せると思う。それにいるだけで周りを壊してしまう」
自分のことを語るたび、まるで十三の階段を上っていく感覚がする。
「だから、俺は本当はいない方がいいんだ」
何度も自問した。何度も考えた。自分がどうして生まれてきたのか。生きていていいのか。
その度に出る答えに絶望していた。
俺は、生まれてはいけない存在だった。生きていていいわけがない。
「意味わかんねえだろ。俺だってそうだよ。でもそういうことでさ、そういう意味ではお前と同じだよ。俺の傍にいない方がいい」
早百合が近くにいると不幸になるから、という傷のため人を遠ざけているように俺も本当は一人の方がいい。
その方が少しはマシになる人もいるだろう。俺の傍にいるのは、危険が大きい。
「ううん。だとしても、私は鏡君の傍にいるよ。ずっと一緒にいてあげる」
「強がり止めろよ。こんなの誰だって」
「いいよ! それでもいい! 鏡君が私と一秒でも長く一緒にいてくれるなら、私はそれでもいい!」
言葉を遮り早百合は言い切った。それでもいいと。一緒にいてくれると。
空虚で、枯れ木で、荒野で。そんな荒涼とした場所に優しい言葉が澄み渡る。
「う……うう、あああぁぁぁああっぁ!」
それがどれだけ素晴らしいことか。
自分の痛みも顧みない。それでも相手を思うこと。
真心の愛が作り出す幸福に包まれて。
俺は彼女に二度救われた。
見つけてくれたこと。
傷を受け入れてくれたこと。
彼女は恩人で、俺と同じ仲間だ。
「ずっと一緒だ、早百合。たとえそれでなにがあっても」
少し時間が経って俺も落ち着いた。早百合と俺はベッドの前で座り込みテレビのない壁をぼんやり見つめ並んでいる。
けれど手だけは繋がっている。俺たちはジレンマを乗り越えたんだ。
俺は振り返り彼女を見る。早百合も俺に振り向いた。
彼女の栗色のセミロングの髪はさらさらしている。まるで流れる清流のようだ。日の光を反射する小川のように彼女の髪には光沢がある。
彼女の瞳は星空を切り取ったようだ。丸みのある夜空に多くの星がまたたいている。
彼女の唇は楽器のようだ。声を出せば周りを明るくして時には勇気をくれる。
彼女は天使のようだ。何度も俺を救ってくれた。
「ねえ、鏡君」
「ん?」
「私ね、今、すごく幸せだよ」
「ああ」
「ありがとう、鏡君。君に出会えてよかった」
それは俺のセリフだ。君に出会えてよかった。ありがとう、早百合。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
その言葉が心にじんとくる。
「そっか……俺、生まれてきて良かったんだな」
「そうだよ。鏡君が生まれてきてくれたから私は今幸せで、鏡君は生きていてもいいんだよ」
こんな傷を抱えた俺は生まれてこなければよかったとそう思っていたけれど、彼女にそう言ってもらえるのなら。
少しだけ、自分のことが好きになれた気がする。
「止まない雨はないって言葉、あるでしょう? あれ、私嘘だと思ってた。いい加減だな~って。でもね? 雨に濡れている私に鏡君が傘をさしてくれたんだ。たとえ雨は止まなくても傘は作れる」
「傘、か。なるほどな」
「鏡君なら、立派な傘の人になれるよ。たぶん、鏡君はそのために生まれてきたんじゃないかな」
「俺が」
「雨に濡れている人を助けてくれる、優しい傘の人。わたしの、大好きな人」
そう言うと早百合の頭が俺の肩にもたれかかってきた。彼女の預けてくれる重みが信頼の証のようで、俺はそれが誇らしかった。
「早百合。約束するよ」
彼女がそう言ってくれるなら。俺はなんだって出来る。
「俺が、どんな雨からだってお前を守ってやる。どんな嵐からだってお前を守ってやる」
この世界がお前に襲い掛かるというのなら俺が守ってやる。
暗い雲が頭上を覆うというのならそれを取り除いてやる。
「止まない雨はない。俺が、お前に晴れた世界を見せてやる! 絶対だ!」
俺がなぜ生まれ、なぜ生きるのか。今更ながら秋山の言葉を思い出す。どうして生まれてきたのかではなくなにをする人なのか。
俺は傘を差す人になろう。そしていつの日かこの雨を止ませてみせる。
そのために生まれてきたんだ。
「うん。うれしい」
俺は、彼女を幸せにしたい。俺を救ってくれた人を、世界で誰よりも幸せにしたい。
俺になにが出来るだろう? 傍にいるだけじゃない、もっと彼女に出来ることがあるはずだ。
彼女が周りを不幸にするというのなら、そんなの気にならないくらい幸せにしてやる。
彼女も。周りの人だって。そうさ、傷を克服するんだ。そうすれば彼女の雨は晴れる。
そこで明るい世界に連れ出してやる。
それが俺にできる、最大の恩返しだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます