第8話 大倉 海里

 大倉、という表札がかかった一軒家には地下室が存在する。五、六人は住めるであろう地上部分には、もともとふたりの兄妹が住んでいた。兄である大倉海里の部屋は現在、ほとんど家具が存在しない。その代わりとでもいうように、地下室への階段があった。

 階段前には鉄格子がはまっており、頑丈な鍵がかけられている。その鍵を開けて階段を降りてもなお、地下室へ入るための扉が存在した。扉には特殊な仕掛けがほどこされている。仕掛けを施したのは、海里が尊敬する師匠である狭間だ。

 海里は地下室で目覚めてまず、その仕掛けを確認した。そしてぼんやりとした頭で室内を見渡した。海里以外はだれもいない。


「……逃げられちゃった」


 小さくつぶやく。記憶を抜かれたことは覚えている。ただ、どんな記憶を失ったのかは思い出せない。海里はそういう術だということを熟知していた。

 ゆるやかにしか思考が回らないのも、記憶をなくしたせいだ。そして妙な爽快感と浮遊感もまた、記憶がなくなった直後の症状だった。楽しいばかりの記憶というものは、あまり存在しない。どんな記憶も多かれ少なかれ、負の感情がまとわりつく。

 だから記憶を失うと……そのときの感情を失うと、心が軽くなる。その結果、よくわからない爽快感と浮遊感がうまれるらしい。


 どんな記憶がなくなっているのかは、部屋から出ようとすればわかる。海里が部屋から出るためには、失った記憶をすべて取り戻さなければいけない。それはとんでもない苦痛をともなう。

 疲れ切った今の身体で試すべきではない。海里はまたベッドへと寝転ぶと、低くも高くもない天井を見上げる。ここには生活に必要なすべてがそろっていた。

 清潔なベッド、広い作業机、充分な着替えが入ったワードローブ。海里の好きな本が並ぶ本棚、手なぐさみに弾くヴァイオリン、その楽譜。部屋奥にある扉は浴室とトイレにつながっている。

 それでも海里は外へ出たいと願う。やりたいことがあるのだ。しかし師匠である狭間も妹である灯里も、やってはいけないと海里を地下へ閉じ込める。


「いっそのこと、師匠を忘れさせてくれればいいのに」


 そうすれば海里は目的を失う。やりたいこともなくなる。地下室から逃げたいと願うこともない。けれど狭間も灯里もそれをしなかった。

 海里から狭間の記憶をうばえば、海里が海里でいられなくなることをわかっているのだ。海里と灯里は両親を失った幼いころから、狭間に育てられた。一生のほとんどを狭間が占めている。だから狭間の記憶をうしなえば廃人になってしまう。

 だから優しい師匠と妹は、できのわるい弟子から記憶を取らない。ただ海里が更生してくれることを願っている。無駄な願いだと知りつつも。


「いつになったら、師匠は僕のものになるんだろう」


 ぼやきながら海里は毛布に潜り込み、身体を丸めた。今は寝るべきだ。脱走したばかりで灯里は警戒している。海里も体力が危うい。次に逃げ出せるのはいつになるだろう。

 そのときまでの計画を脳裏に描こうとするけれど、まだ本来の力が戻らない脳はそれを拒否した。



★★★



 海里が初めて狭間と会ったのは五歳のときだ。母によく似た顔の女性だった。次に海里が狭間と会ったときは、父に似た長身の男だった。

 狭間は両親の古い友人で、年に一度ほど家に来ていたらしい。らしい、というのは海里にとって狭間は毎回別人で、狭間という個人を認識していなかったからだ。

 海里が七歳のときに両親が亡くなった際、海里と灯里は祖母に引き取られる予定だった。それに待ったをかけたのが狭間だ。


「おまえたち、ばァちゃんのことは好きかィ?」


 そう聞いてきた狭間はたしか、よく知らない若い男だった気がする。灯里もまた別の狭間を見ていた。ふたりとも狭間の特異性を知らなかったせいだ。

 とにかく海里と灯里はその問いにうなずいた。


「そうかィ。そんなら、ばァちゃんの家に行っちゃァいけねェ」

「なんで?」

「死ぬからだヨ」


 その言葉は端的すぎて、幼い兄妹には理解できなかった。しかし彼らの祖母は正しく理解して、狭間がふたりを育てることに承知したのだ。もっとも表向きは祖母が引き取ったことにしてあったが。


「そうか……海里と灯里はやっぱり、あの子の子どもなんだねえ」


 ふたりの祖母は、しみじみとそういうだけだった。その言葉の意味がわかったのは、海里が中学にあがるころ、自分の特殊性に気づいたときだ。

 自分たちはふつうではない。その性質が祖母に危険を呼びかねず、狭間がふたりと祖母を守った理由だった。そして狭間がふたりに記憶を操るすべを教えてくれたのも、その特殊性ゆえだ。


「すまねェな。あいつらのやりかたを教えてやれなくて」


 そういって母の顔で頭をなでてくれた狭間はさみしそうだった。けれど海里は両親のやりかたを学びたいとは、一度も思ったことがない。狭間から教えてもらったものがある。それで充分だ。

 それが充分でなくなったとき、海里はこの地下室に閉じ込められた。

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