第7話 森 清高

 駅から少し離れた雑居ビルの裏口に、ほうけた顔で座り込んでいる浮浪者がいる。その手には万札が何枚も握られていた。通りかかるひとも少ないおかげか、だれかに奪われずにすんでいるようだ。

 灯里はその前までやってくると、森さんと呼びかけた。座り込んでいる男は、かろうじて少し視線を動かすが、返事はない。


「オーソクレーズ、ロイヤルブルーの虹のようなシラー効果……オークションにかけたら何百万になるかしら」


 灯里は手袋をした手にムーンストーンを持ちながら、つぶやく。そして男が持っている札の枚数を数えて顔をしかめた。


「詐欺もいところだわ。こんな素敵な宝石がたった十万だなんて」


 ムーンストーンと呼ばれる宝石はいくつかある。オーソクレーズという鉱石が一般的だ。本物のムーンストーンといったら、オーソクレーズだろうというのが、灯里の考えだ。

 たまに別の鉱石をムーンストーンと称して売っていることもあるが、偽物とまではいかずとも、違うものだ。

 いくつかの鉱石には、カボションカットと呼ばれるつるりとした半球状のカットをほどこすと、光の反射の関係からシラー効果というものが出ることがある。宝石の表面にぼんやりと淡い光があらわれ、美しい。


 特にきれいな青いシラー効果が出るムーンストーンを、ロイヤルブルームーンストーンと呼ぶ。今ではムーンストーンと似た別の鉱石にシラー効果があらわれたものを、ロイヤルブルームーンストーンと銘打って売られていることが多い。

 もし手元にある宝石がオーソクレーズではなく、別の似た鉱石であったなら。十万は妥当かもしれない。けれど灯里の手元にあるものは本物のオーソクレーズだ。


 ルーペを取り出して灯里は宝石をよく観察する。


 森清高、四十六歳。隣の市から去年ここへ流れてきた。詐欺にあい、全財産と住むところを失いホームレスになったのは三年前。

 それ以前は小さな企業の営業として働いていた。詐欺にあったのと同じタイミングで、その会社が倒産。給料の不払い等も重なり、どうにもならなくなったらしい。

 どうにか助けたいという友人の提案は、当人が断っている。たとえ騙されたのだとしても、好いた女に金をみついだことは後悔していないから、と。


 そこまで宝石の記憶と感情を観察してから、灯里は顔をあげた。宝石から情報を読み取り、その痕跡から本人を探すのは、灯里の得意とするところだ。

 かがんで森の持つ十万を手にすると、数えてからクッションがわりになっているバックパックにしまう。それからムーンストーンをそっと、けれどしっかり指先に持った。


「これはやっぱり、あなたが持っているべきだわ。兄さんは記憶を奪いすぎているし、わたしにはこの宝石の対価を払えないから」


 森の額にムーンストーンが触れると、すうっと溶けてなくなった。直後、びくんと森の身体が跳ねる。


「あ、あぁ、あ……ゆうこ、ゆうこ……!」


 騙されて金を奪われた女の名を呼ぶ。見開かれた目には灯里が映っていないようだ。

 ひとつの名を呼び続ける森から一歩離れ、灯里は深くおじぎをした。


「ご迷惑をおかけしました」


 渡した十万では、迷惑料に足りないかもしれない。しかし、灯里にはそれ以上を用意することが難しかった。だから、せめてもの思いである。

 記憶を乱暴に引っ掻き回される苦しみは、当人以外に理解できない。その想いは、そのひとだけのものだからだ。



★★★



「終わりました」


 駅前に停められていた車に乗り込み、灯里が報告する。運転席には無表情のアオガネが、助手席にはなにを考えているのかわからない狭間が座っていた。後部座席にニット帽をかぶったまま、寝ているように見える海里が乗せられている。


「ご苦労さん」


 狭間が短く答えた。それだけだったが、灯里はかすかな違和感を覚えて何度かまばたきを繰り返す。


「師匠、もしかして兄さんの記憶……」

「あァ、やっぱり気づいたか。そうだヨ。さっき、ちょィと抜かせてもらった。あの店に入ったあとから、気絶するまでの短い記憶だがね」

「……そうですか、仕方ないですね」


 また海里が脱走したときに、今回と同じ手段を使えなくなるのは困る。そのために記憶を消したのだろう。灯里はそう判断してうなずくにとどめた。

 狭間が細心の注意をはらって抜いたなら、よけいな記憶が傷ついたり、感情が壊れたりすることはない。そう信じているからだ。


「出発する」

「あァ」


 アオガネの声に狭間が短く答え、車が動き始める。


「そういえば……兄さんは、どうしてこの町に来たんでしょう」

「それは次までの宿題にしようじゃァないか」

「師匠はご存知なんですか?」

「さァてねェ……」



★★★



 狭間とアオガネが隙間町に帰ってきたのは、日付を回った時間だった。灯里の家まで海里ともども送っていったため、遅くなったのだ。

 兄妹の自宅には大きな地下室があり、そこに海里を再度封印してきた。といっても、記憶や感情を操作する力を抑え込むだけの部屋だ。生きて食べて寝て、海里は地下室で暮らすことができる。

 軟禁と言い換えてもいい。ただ、海里はその部屋から出ることができず、また出ることが許されないのだ。それが約束であり、封印でもある。


 海里がその部屋から出るには、失っている嫌な記憶を取り戻す必要がある。ひとは自身に大きな影響をおよぼした経験と記憶に寄り添うようにして生きているものだ。または、記憶と感情を土台に生活している。

 それが失われたとき、ひとは大きな喪失感を味わう。森がそうであったように。

 取り戻したときの反応は、記憶による。いい思い出であった場合、取り戻した直後になぜか怒り出すひとが多い。嫌な記憶であれば、錯乱するひとがほとんどだ。森がそうであったように。


 怒りも錯乱もいずれ落ち着くが、どちらも非常に疲れる。だから、記憶を取り戻した直後の海里はそう遠くへ行けないはずなのだ。

 それなのに、逃げ出して離れた町で詐欺をはたらこうとしていた。なにか理由があったに違いない。その理由を狭間は聞くタイミングがなかったが、そのうち灯里がさぐってくれるかもしれない。

 今回は、森のロイヤルブルームーンストーンを取り戻せただけでよしとしよう。帰りの車で狭間と灯里はそう話し合った。あれがだれか第三者の手に渡ってしまったら……きっと取り戻せなかっただろう。


「……疲れた」

「狭間はいつもこれより遅い時間まで起きてるぞ」

「そういう問題じゃァないよ」

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