第6話 大倉 海里

 地方都市の駅近くにある、少々古くさいビジネスホテル。この一週間ほど、そのホテルを拠点としている男がいた。

 女性に好まれそうな、優しげで整った顔立ち。ほんのり目尻がたれた目、通った鼻筋、厚めの唇。眉はきりりと男らしく、まなざしは意外なほど冷たい。

 男は今日も、午前の遅い時間になってから、ホテルをふらりと出た。鍵を預け、いってらっしゃいませ山内様と見送られている。ホテルの宿泊者名簿には、山内一郎という名前で登録されているためだ。

 本当の名を大倉海里という。大倉灯里の兄である。


 海里が足を向けたのは、駅から離れたところにある、さびれた雑居ビルだった。敷地面積の小さい三階建のビルは、今はテナントがついていないのか、人気がない。

 ビルの入り口は端に埃が溜まっていた。しばらく掃除がされていないのだろう。海里はビルまで来ると、裏手へと回った。

 少し奥まった通用口をふさぐように、薄汚い服の中年男性が座り込んでいる。見るからにホームレスといった様子で、破れかけたバックパックがクッションがわりで、段ボールがカーペットのようだ。


「こんにちは、おじさん」

「……あんたが記憶屋とかいうやつか」

「うん、そうだよ」


 海里はホームレスの男に声をかけると、上から見下ろす。優しげに見える目元を裏切るように、その瞳はさえざえとしている。


「金がもらえるってのは、本当か」

「うん、そのかわり記憶を失うけどね」

「かまやしねぇよ。ろくな記憶がないからな」

「どんな記憶をもらえる?」

「記憶が金になるなんて信じられねぇが……金になるなら、なんでもいい。高く買ってもらえる記憶を持っていけ」

「そう? それなら、僕がかってに選んでもいいかな」

「それでいい」

「わかった。そうしたら始めようか。まずは、これで顔を……特におでこをきれいにして」


 会話に区切りがつくと、海里は先日コンビニで購入した、ウェットティッシュの袋を男に放り投げた。男はふしぎそうな顔をしつつも、理由は聞かず、言う通りにする。

 ウェットティッシュ二枚を消費して、男は少しすっきりした顔になった。袋に残ったウェットティッシュは海里に断りなくバックパックへしまわれる。海里はそれをとがめなかった。


「始めるよ、途中で動くと危ないから、じっとしててね」

「おう、わかった」


 海里は左の手のひらを上向きにして伸ばすと、真ん中三本の指の背を男の額へつけた。その手には指なしの革手袋がはめられている。すぅ、と一度息を大きく吸い込んでから吐き、ゆっくりとまばたく。

 ひょうひょうとした、つかみどころのない雰囲気は霧散し、真剣な目で海里は自分の手を見つめる。なにかをさぐるように、しばらくそのまま、なにも言わず動かない。

 男は決まり悪そうに腰をもぞもぞしていたが、黙ってそれを受け入れた。やがて、海里がふいに口を開いた。


「行きつけのバーにいた、きれいなお姉さん」

「!」

「好きだったんだね?」

「……相手にされなかったけどな」

「それどころか、詐欺にあったんでしょ」

「……っちがう、あれは、きっと……理由が、あって……」


 海里には、男が貯金をすべてバーの女に預け、持ち去られた記憶が見えていた。それなのに、男は事実を否定する。どこか悲痛だ。

 苦しそうにゆがむ男の顔を見ても、海里は表情を動かさなかった。関係ないとばかりに無関心に振る舞う。


「そのひとに関する記憶、もらっていい?」

「……――う、〜〜〜っ。その記憶は、高く買ってもらえんのか」

「うん、高そう」

「…………持ってけ」


 本当に記憶がなくなるのか。本当に買ってもらえるのか。そういったことを男は確認しなかった。ただ、すべてを諦めたような顔で、海里の手を受け入れている。

 パチパチと額に触れている手のひら、革手袋の上に光が集まる。宝石になるときの光だ。光が弾けている時間は、そう長くなかった。すぐに終わる。

 光がおさまったあと、海里の手にはカボションカットの白っぽい宝石があった。右手には白い綿手袋がはまっており、その指先で少し石を転がし確認する。


「ロイヤルブルームーンストーン……大きいね、十万ってとこかな」

「十万?!」

「ごめんね、安くて」

「い、いや……」


 ムーンストーンそのものは、さほど高価な石ではない。しかし特定の条件がそろったロイヤルブルームーンストーンは別だ。本物のロイヤルブルームーンストーンは、現在ほぼ流通がない。そのためかなりの高額になるか、値段をつけられないくらいだろう。

 今ロイヤルブルームーンストーンと呼ばれ流通しているのは、似たような別の石である。男の記憶から取り出されたのは、かつてロイヤルブルームーンストーンと呼ばれた、本物なのか。それとも違うのか……海里はなにも言わない。

 それどころか、宝石や金額の説明もまったくなしだ。ただ、男を見て問いかける。


「それじゃあ、もらうね」

「……わかった」


 男が了解してから、海里は宝石を手のひらからつまみあげた。とたん、男はほうけた顔になる。力が抜けすぎて、無気力にも見えた。


「はい、これ」

「……わかった」


 男は海里が差し出した十万を無感動に受け取る。先ほどまで金に見せていた欲望や執着心が、どこかへいってしまったようだ。

 海里はそれを見て鼻を鳴らすと、その場を歩き去った。残されたホームレスの男は、ただうつろを見上げている。



★★★



 午後のランチタイムが終わり、客足が減った駅ビルを海里が歩いていた。向かう先は連日通っている、さびれた喫茶店だ。

 海里がドアを押して入れば、カランコロンと音が鳴る。らっしゃい、と気のない声が迎えてくれた。


「……また、あんたか」

「いいじゃん、どうせ僕以外の客なんて、いな……」


 カランコロン。

 また音が鳴り、海里の声は途中でさえぎられた。ハッと驚きの表情で海里が振り返る。そこには深いニット帽をかぶった女が立っていた。

 海里の唇が、音もなく動く。あかり、と。


「帰りましょ、兄さん」

「……驚いたな、灯里がそんな道具を使うなんて。そういうの、嫌いじゃなかったっけ?」

「この帽子のことは、帰ったら教えてあげる。だから帰りましょう」


 カウンターにいる店員は、声を挟むタイミングがわからず、ただ口をぱくぱくさせてから閉じた。いらっしゃいませ、と言うべき相手なのか悩んだからだ。

 店の出入り口近くで、海里が完全に灯里へ向き直る。そして冷えた目で、ひたりと妹を見すえた。


「もしかして、それ……師匠の?」

「さぁ、どうかしら」


 ざわりと空気が鳴る。店員がひえぇ、と小さな悲鳴をあげて首をすくめた。灯里はざわつく空気を気にせず、海里を見返す。

 このような兄のあつかいには慣れているのだ。まるで子どもを相手するかのように、ほほえむ余裕すらある。


「それを……寄こせ!!」


 いきなりつかみかかった兄を横にずれてかわすと、灯里はポシェットの中から小さな革袋を取り出した。そして白い綿手袋をはめると、中からなにかを取り出す。


「師匠からの伝言、聞きたい?」

「っ!」


 海里の腕が伸びてくるが、灯里はまた逃げる。冷静さを失っている兄の相手なら、逃げ続ける自信が灯里にはあった。

 もっとも、逃げる途中で海里がキレる可能性が高い。そして怒りで我を忘れた海里に捕まって終わるだろう。

 だから灯里は、次に動くタイミングをほんの少しだけ遅らせた。それによって海里の指先がニット帽に届く。乱暴に取られたせいで、灯里の髪がめちゃくちゃになるが、それを手で押さえ海里を確認した。


 海里が手にしたニット帽は、もはやニット帽ではなくなっていた。ぐにゃりと形を変え、海里の腕に巻きついていく。


「くっ――あぁぁ?!」


 腕から頭にまで巻きついたニット帽は、さっきまで動いていたことが嘘のように海里の頭におさまる。叫び声をあげた海里の身体が、ぐらりと倒れそうになった。

 カランコロン、とそのタイミングでまた来客を告げる音が鳴る。そして海里の父親に見える年配の男が、海里の身体を受け止めた。吊るしの安っぽいスーツを着た新たな客は、苦笑いを浮かべて小さく首を振る。


「やれやれ、この子にも困ったもんだねェ」

「……ありがとうございます、助かりました」


 ホッと息をついた灯里が、肩に入っていた力を抜く。父親に見えるスーツ姿の男……狭間は、それには答えず肩に海里を担いだ。その重さに顔をしかめる。

 背格好はほぼ同じ、狭間がわずかに背は高いかもしれないが、体格は海里のほうがいい。ひょろひょろとした狭間には、海里の体重が重たすぎる。わずかによろけながらも、どうにか踏ん張った。


「この子が迷惑をかけた、失礼するヨ」

「あ、あぁ……」

「灯里、連絡先を渡しときな」


 狭間は返事を待たずに店の外へと出た。またカランコロン、という音が鳴る。

 灯里はポシェットから名刺を取り出すと、カウンターへ一枚置いた。そこには灯里の名前と連絡先、そして『記憶と感情のカウンセリングうけたまわります』という一文が印刷されている。


「先ほどの者が、ぶしつけに大切な記憶に踏み込んだこと、おわびいたします」

「いや……うん、そうだな……しかし本当のことだ。仕方ない」

「なにかございましたら、こちらまでご連絡ください。力になれるかもしれません」

「……ああ」

「では」


 灯里は軽く会釈をすると、その場をあとにした。残るのは、カランコロンという音のみ。その音も完全に静まってから、店員ははぁ……とため息をついた。



★★★



 さっき見たものは、いったいなんだったのか。理解ができない。明らかになにかがおかしかった。それはわかるのに、なにがどうおかしいのか、店員は説明できる気がしない。

 準備しかけていたコーヒー豆を片付ける。あの男は毎日よくわからないことを言い、文句を口にしながらも、コーヒーを飲んでいった。たった一週間足らずだったけれど、注文もされていないのに、無意識に用意するほど慣れていたらしい。


「どうするか……」


 客足の遠のいた店を見渡して息をつく。そしてカウンターに遺された名刺を見て、首を振った。

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