第33話 後片付けの研究。
雨は夕暮れまでしっとりと降り続いていた。
自室のベッドに横たわった冬木は、ぼんやりと天井を見上げている。
「あと、少しだったのに……」
耳元で囁きかけた言葉は、まだ喉の奥に残ったまま。。
気を紛らわそうと机に向かっても、教科書は開いたページから先に進まない。
視線で文字を追う間も、教室での出来事が思い出され、冬木はペンを握ったまま、指先を固めている。
(わたし、ちょっと積極的すぎたかしら)
いつもの自分らしからぬ大胆な行動に、冬木は密かな後悔を抱いていた。
彼に好意を伝えること自体は、それほど難しくはない。……たぶん。
でも、自分が抱くこの《好意》の本質的な意味合いを、あの理論的な彼が理解してくれるだろうか。
言葉にするだけでは、何も変わらないかもしれない。
むしろ、二人の関係を後退させてしまう危険すらある。
それに……。
やっぱりあれは、積極的すぎる。首に腕を回したことも、耳元で話そうとしたことも、思い返すだけで、頬が熱くなる。
高鳴る心臓の音を隠すように、冬木は枕に顔を埋めた。
放課後の雨音が、まだ窓を叩いている。
――一方、キッチンでは、夕食の支度に向かうかおるの手つきが、いつもの正確さを失っていた。
彼は包丁を持つ手を不意に止め、物思いに沈むように天井を見上げた。
(冬木の言いかけた言葉は、いったい……)
かおるの思考が、堂々巡りを始める。
いつもなら無意識に完璧を追求できる料理の手順も、今日は様子が違う。
玉ねぎを刻んでいるつもりが、均一であるはずの大きさが不揃いになっていることに気付く。執事としては、あってはならない失態だ。
「あの瞬間、冬木は何を……」
それでも包丁を動かしながら、かおるは教室での出来事を何度も反芻した。
論理的思考では説明のつかない、感情の揺らぎ。
不可思議な心の動きもまた、科学的アプローチでは解明できないだろう。
きっとこれは、使用人としての自覚が深まった証なのだろう。
あの気難しいお姫さまに仕えることへの責任感が、自然と芽生えてきたのかもしれない。 なぜなら、かつての何も無いボロアパート暮らしと比べれば、冬木邸での生活は快適そのもの。住まわせてもらっているという自覚が、彼女への妙な意識に繋がっているのだろう。
かおるは自分の心の変化を、そう合理的に解釈することで落ち着きを取り戻そうとした。
「冬木、夕食の支度ができた」
「ええ……分かったわ。すぐ行くから、少し待ってて」
返事は返ってきたものの、冬木がリビングに姿を見せるまでには、いつもより長い時間を要した。
鏡の前で幾度も髪を整え、表情を作り直す。
いつもの自然な仕草が、今日は不思議と上手くいかない。
ようやくテーブルについても、冬木は何度も襟元や髪を気にしている。
一方のかおるは、最後の盛り付けに神経を集中させていた。
「かおる君、今日のメニューは?」
「和風ハンバーグと、季節の野菜添えだ。ライスと牛テールスープも用意した」
テーブルに並ぶ料理は、いつも通りの丁寧さで仕上げられている。
しかし、何かが違う。二人共に、お互いの間にある違和感を覚えていた。
いつもなら自然に始まる会話も、今日は途切れがちだ。
視線が合いそうになる度に、目を逸らしてしまう。
「は、ハンバーグ……今日は、一段と柔らかいわね」
冬木が、意図的に話題を作る。
「ああ、玉ねぎを多めに入れてみた」
「やっぱり。わたしの舌は、誤魔化せないのよ」
「誤魔化しているわけではないぞ。より口当たりが良い方が、冬木の好みに合うと考えた」
「……そう。わたしの、ために」
「いったい、他に誰がいる? 一食でハンバーグを三個もたいらげるお姫さまなど、地球上でも冬木を除いて他にいない」
「かおる君が、料理上手なのが悪いのよ」
「では、次回からわざと腕を落とそうか?」
「だ、駄目っ! そんなこと、わたしの生きる権利の侵害よ」
「……美味しく作った方が良いのか、悪いのか。冬木の要求が、矛盾しているように感じるのだが」
「これくらいの矛盾は、可愛いお姫さまの特権でしょう?」
「執事の立場としては、まるで反論の余地がないな」
「ふふ、分かってきたじゃない」
食事は順調に進み、二人の間にあった硬い空気も解けていった。たまに流れる沈黙は、リビングに流れるテレビの音と雨音が、優しくその静寂を埋めていく。
「ごちそうさま」
そして冬木が先に箸を置くと、彼女は立ち上がりこう口にした。
「今日は、わたしが後片付けをしてみるわ」
「いや、これは俺の仕事だ。冬木はいつも通り、座っていてくれ」
「いいの」
冬木の声が、少し強くなる。
「少しくらい、わたしにも任せて。この前、洗い方は教えてもらったから、きっと問題なくできるはずよ」
「冬木がそこまで言うのなら、任せてみよう。だが、もしも皿を落としたりしたら、怪我に繋がるかもしれない。万が一に備えて、そばで見守らせてもらう」
「ええ、それでいいわ。ありがとう、かおる君」
台所に立つ冬木の背中を見つめながら、かおるの思考は、またしても午後の教室での出来事に戻っていく。
どうして、これほど同じ記憶が何度も再生されてしまうのか。
(原因を確認するためには、同じ条件での再現実験が必要だ。たしか……冬木はあの時、このようなポーズを取っていたような……)
冬木の首に両腕を回し、何となくで動きを真似ると、「ふにゃあっ!?」と、冬木の手から石鹸の泡が舞い上がった。……思わず漏れた声は、猫のようだった。
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