第32話 耳元の温度。

 放課後、突然の雨足に追われ、二人は教室で足止めを余儀なくされていた。

 昼休みまで広がっていた青空が嘘のように暗転し、絶え間なく降り注ぐ雨粒が、窓ガラスを叩いている。

 傘を持たないかおると冬木は、教室で雨の止むのを待つしかなかった。


「随分と、降ってきたな」


 かおるは曇天を仰ぐ。

 明日からの雨予報が前倒しになったのか、黒い雲が早々に空を覆い尽くしていた。

 いつもの用意周到な彼も、この急な天候の変化には手を焼いているようだ。


「いいじゃない。たまには雨も、悪くないと思うわ」


 冬木は椅子から立ち上がり、窓辺に寄る。教室には、既に二人の姿しかない。

 他のクラスメイトは雨の中を走って帰るか、部活動に勤しんでいるようだった。


「そうか? 雨宿りの時間ほど、無駄なものはないと思うぞ」

「無駄なんかじゃないわ。だっていまここには、かおる君がいるじゃない」

「確かに、ここには冬木もいるな」

「わたしたちだけの、静かな時間だと思えば、とても贅沢なことよ。それに……この雨の音が、余計な雑音をかき消してくれて。なんだか、わたしとかおる君しか、いないように感じられるの」

「そうだな、たまには雨でも悪くない。晴れていたら、また練習に付き合わされていたかも知れないからな」

「あら? かおる君は、わたしとの予行練習に不満があるのかしら?」

「そうは言っていない、むしろ冬木が望むのなら、俺も満足いくまで付き合うだけだ。ただ……随分と、変わった・・・・ものだなと。《余計なことをしてはいけない》、そう囚われていた冬木と見比べると、いまは別人のように輝いて見える」


 冬木は曇り空に目を向けたまま、柔らかな笑みを浮かべた。


「わたしが変わったように見えるのは、かおる君のおかげよ。あなたが、わたしを連れ出してくれて、色んな景色を見せてくれた。かおる君が、ずっと付き合ってくれたから……わたしは、勇気を持つことができたの」


 冬木は振り返り、かおるの顔をじっと見つめる。


「かおる君は、どう? この一ヶ月くらいの間……心地良かったって、思わない?」

「ああ……俺も、不思議と心地よかった。先の二人三脚も、物理的な一体感だけではない。なにか……言葉では言い表せない何かを、感じた」


 冬木はその瞳の奥を覗き込むように。彼との距離をさらに詰める。


「ふぅーん……そう。やっぱり、かおる君の中にも、ちゃんと心があるみたいね」

「さて、それはどうだか。この心地よさは、おそらく運動による脳内物質の分泌が原因だ。化学的な現象として説明できる、一時的な反応だろう」

「もう、またそうやって理論武装に逃げるのね」

「しかし、現にドーパミンや、セロトニンといった神経伝達物質が原因で……」

「もう、黙りなさい、かおる君。それ以上の言い訳は、認めないわ」

「これは果たして、言い訳になるのか?」

「よく考えてみたら、分かることだと思うわ。その心地よさは、他の誰とでも感じられるの? わたし以外の誰かとペアを組んでも、心地良いと思うのかしら?」

「それは……」


 かおるが言葉を詰まらせると、冬木の顔色は目に見えてよくなった。

 彼女はまるで、かおるの心の内を知っているかのように「ふふん」と鼻を鳴らし、座ったままの彼の首に両腕を絡める。


「わたしが変わったように、かおる君も、少しずつ変わってきてるの。その変化を、否定する必要なんてないのよ」

「変化か……俺には自覚がないが、冬木にはそう見えるのか?」

「ええ、もちろん。だって、わたしは……かおる君のことしか、見ていないもの」

「ああ、俺もそれは同じだ。俺もまた、冬木のことしか見ていない。いや……自然と、視線が引き寄せられてしまう」


 その言葉に、冬木の息が止まる。

 彼が、自分のことしか見ていないという告白には、思わず胸が高鳴り、ふと視線を泳がせてしまう。それでも冬木は臆することなく、更なる一歩を踏み出す決心を取る。


「ねえ、かおる君……かおる君は、自分の気持ちが、分からないのよね?」

「そうだな。相変わらず、自分のことも、人の気持ちも分からないままだ」

「なら……二人三脚のように、練習してみましょう。たっ、たとえば……わたしの気持ち、とか。わたしはかおる君に、どういった感情を持っていると思う?」


 かおるは顎に手をやり、真剣に考え込む表情を見せる。


「ただの隣人……あるいは、使用人といったところか?」

「いいえ」

「なら、都合のいい居候か?」

「それも違うわ」

「だとすると……興味・関心のある対象とか……」

「方向性は合っているかもしれないわね。問題は、その興味・・よ。わたしはかおる君に、どんな興味・・・・・を持っていると思う?」

「……分からない。せめて、ヒントをもらえないだろうか」

「ええ、教えてあげるわ。わたしがかおる君に寄せている気持ち――それはね」


 冬木が彼の耳元に唇を寄せ、甘い囁きを掛けようとしたその瞬間、


「やべー、数学の課題置いたまんまだった」

「ったく、しっかりしろよ。こんな雨の中、付き合わせんなって」

「いいだろ、どうせ今日は自主練なんだから。つーか先生も、こんな難しい課題を出さなくてもさあ――」


 廊下から急接近する足音と共に、三人の男子が教室に踏み込もうとする。


「ご、ごめんなさい!」


 しかしその時、冬木が男子たちの間を咄嗟に突っ切っていった。彼女は、かおるとの一部始終を目撃されまいと、意味不明な言葉を残して去っていった。


「あ、あああ雨が降っている内に、帰らないと!」


 冬木が口走った言葉は全く理解不能だったが、男子たちは桜ヶ丘のシンデレラとの接触に心を奪われ、二人の密やかな関係性どころか、取り残されたかおるのことなど、まるで目に入っていない様子だった。


「普通は、晴れている内に帰るものではないか?」


 そう呟きながら、かおるも静かに席を立った。

 だが、耳元に残された彼女の吐息は、確かにまだ温かく感じた。

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