第34話 雨上がりの月に誓って


「かおる君……いったい、どういうつもりなのかしら?」


 彼の体温を肌に感じながらも、冬木は平静を装っている。口元が喜びに緩むのを必死に抑え、なんとかお姫さまらしい威厳を保とうとする。


「すまない。驚かせるつもりはなかった。ただ、気になることがあっただけで」

気になること・・・・・・? ……ふーん」

「何だ、その目は? 言っておくが、これは純粋な実証研究だ。対人距離における、心理的影響と、身体接触時の体温変化による脳内神経伝達物質の分泌量の相関関係を調べようとしていただけで、他意はない」

「ふぅーん」


 冬木は意地悪く目を細めた。


「理由は、何だっていいのだけれど……そこまで言うのなら、かおる君の気になるデータとやらを、ここで取ってみる?」

「いや、たったいま試して、何も得られなかった・・・・・・・・・ところだ」

「そうかしら? かおる君が、自分からわたしに抱きついた。その事実自体に、大きな意味があると思うのだけれど」

「いや、抱きついたわけではない。あくまでも実験的な接触だ」

「なら、どうして実験対象は他の女の子じゃなくて、わたしなの?」

「それは……実験の、再現性を考えると……」

「ふふっ、今夜のかおる君の言い訳も、とても興味深いわ。だけど……そこまで自分の心の変化が気になっているのなら、今度はわたしから、実験してあげようかしら?」

「それは、何の実験だ?」

「たとえば、かおる君の心拍数の変化とか、体温の上昇とか。もしかしたら、わたしがいるからこそ、変化しているかもしれないわね」


 かおるの腕が、そっと冬木から離れていく。

 彼女との接触を断つ瞬間、何か変化があるだろうかと、自分の体温を意識する。

 だが、近づいた時も、離れた今も、特別な変化は見られなかった。

 理論通りの結果、なのかもしれない。


「結果は十分だ。どうやら、冬木との距離はさほど関係なかったらしい」

「あら、残念ね。かおる君が、新たな何かに気付いたんじゃないかって思ったのだけれど……でも、いいわ。いまはそうでも、いずれは……」


 最後の食器を拭き終えた冬木は、ゆっくりとリビングへと向かう。

 ソファーに腰を下ろした彼女が、「かおる君」と静かな声で呼びかける。

 その声に導かれるように、かおるも彼女の隣へと座る。


「体育祭まで、残り二週間を切っているわね」

「ああ、そのようだな」

「てっきり、毎日のように予行練習があると思っていたのだけれど、案外高校は自由なのね」

「小学校の頃とは、大きく違うらしいが……冬木は、体育祭が楽しみなのか?」

「いいえ、それほどでもないわ。団体種目も、そこまで興味があるわけじゃないし。自分たちのクラスが、どの組み分けかも覚えていないの」

「組み分けは、全てで六つだったか。俺たちの組は、白。体育祭までに、上級生が自主制作したTシャツを配布するらしい」

「いわゆる、青春ってやつね。まあ、わたしには他者と馴れ合うつもりもないし、どうでもいいのだけれど……でも」

「でも、なんだ?」

「どうせなら、勝った方が気持ちがいいと思うの。たとえ興味のないお祭りでも、負けたと言われたら気分が悪い。それにこの完璧なわたしに、敗北の二文字は似合わないわ」

「完璧なお姫さまの意地、というわけか」

「そうよ。たとえ興味がなくても、一度やると決めたからには」


 冬木は、ほんやりとテレビの画面を見つめながら。


「かおる君との二人三脚だって、きっと一番になれると思うの」

「今回もまた、随分と自信があるようだな」

「当然でしょう? だってわたしには、かおる君がいるんだもの。体育祭という《余計なこと》も、きっと完璧に導いてくれるのでしょう?」

「まあ……それなら、より理想的な二人三脚の走り方を研究しよう。まずは加速度と重心移動の関係性から、最適な歩幅を導き出し……」

「もう、そんな難しい話はいいの」

 冬木は思わず笑みを漏らす。

「ただ、かおる君と一緒に走れたら、それでいいの」

「……」


 かおるは静かに瞳を閉じる。

 脳裏に浮かぶのは、彼女と共に駆け抜けたグラウンドの光景。

 風を切る音、足音が重なる瞬間、息遣いが同調していく感覚。

 「一緒に走れれば、それでいい」という彼女の言葉が、不思議と自分の心にも深く沁みていく。


「確かに、俺も冬木と走れればそれでいい。だが、冬木はあくまでも、体育祭の勝利を望んでいる」

「ええ、理想はね。できることなら、勝ちたいとは思っているわ」

「ならば、冬木のために勝利を持ち帰ろう。体育祭で他の組を突き放し、圧倒する。そこまでして、本当の《余計なこと》になるはずだ」


 冬木の口元に、優しい微笑みが浮かぶ。

 彼女がゆっくりとソファーから身を起こした時、窓の外では雨音が静かになりつつあった。

 まるで二人の会話に耳を傾けていた雨が、その結末を見届けるように。


「かおる君」

 冬木の声が、優しく響く。

「いまのその言葉、忘れないわよ?」

「ああ。約束しよう」

 遅れて、かおるも立ち上がった。

「体育祭を、冬木にとって特別な思い出にしてみせる」

「まあ……かおる君も、随分と強気な発言ね。でも……」

 彼女は窓際に歩み寄り、雨上がりの空を見上げた。

「それなら明日から、もっと練習しましょう?」

「また、強引な特訓が始まりそうだな」

「執事さまには選択権なんてないわよ」

 冬木は振り返って、かおるの瞳と視線を重ねる。

「それに、さっきの実験・・の続きにもなるでしょう?」

「いや、それは……」

「ふふっ」


 冬木は廊下へと向かいながら、最後の言葉を残した。


「明日も、かおる君の心拍数を、たっぷり観察させてもらうわね」


 この夜、二人の心に芽生えた期待は、確かな温もりを持っていた。

 それは体育祭という目的を超えて、もっと深い、もっと大切な何かを予感させるもの。

 雨上がりの夜空には、月が優しく微笑んでいた。

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