第29話 お姫さまの戦闘力は《H》以上。


 二人三脚の予行練習が終わると、二人は帰路に就いた。自宅では、いつも通りかおるが夕食の準備を進め、冬木が目を輝かせて傍で見守る。

 今日の献立は、鶏肉の香草パン粉焼き、たっぷり野菜のポトフ、新玉ねぎのサラダと白米。


 かおるはテーブルの端で、冬木はその隣で食事を進める。

 テレビの音だけが静かに流れ、黙々と食べ進めていたその時、冬木は食器をおいて口を開いた。


「ところで、かおる君。放課後の二人三脚は、なかなか息が合っていたわね」

「ああ、冬木が突然、取り乱したこと以外は、順調だったな」


 冬木が転倒し、かおるが彼女の身体を受け止めた。

 その時の感触、体温、彼との距離を思い出すと、冬木は慌てて首を振って心の乱れを抑え込んだ。


「あの事件は、かおる君のせいじゃない」

「いや、俺は何もしていないが」

「もう……鈍感なかおる君には、一から十まで説明が必要みたいね。わたしが倒れたこと自体が、問題じゃないの。問題は、その後の……」

「結果として、冬木に怪我はなかったはず。それに、どんな問題があるんだ?」

「いいえ、確かにあったのよ。それにあの時は、かおる君が……わたしの・・・・を、やけに意識していたように見えたのだけれど」


 かおるは確かに、冬木の持つ圧倒的な弾力感を意識した。

 しかし、あれはあくまでも偶発的な出来事に過ぎず、かおる自らが引き起こした事故ではない。


「意識というか、物理現象の観測だな。故意にやったわけではなく、むしろあの時に抱いた感想と言えば、物理的な関心くらいなもので――」


「言い訳はいいの。……それとも、もっと詳しく・・・・・・調べてみる?」


 冬木は自分の胸に手を当てて、意味深な視線をかおるに送る。

 仮に「調べてみたい」と口にしたら、いったいどんなイベントに発展してしまうのだろうか。

 しかし、相手は男子高校生的な欲求がない、あのかおるだ。

 彼は「いや、知りたいことは、概ね知れた」と答えるだけで、欲深い視線は向けようともしなかった。


「あら、随分と奥手なのね。もしかして、わたしの言葉に裏があるんじゃないかって、疑っているの?」

「ああ、毒舌な冬木のことだ。《調べてみたい》などと答えたら、いったいどんな言葉が返ってくるのか」

「もし、意地悪な言葉は返さない――そう約束したとしたら?」

「妙な問いかけだな。冬木は、もっと調べられたいのか?」

「失礼ね、わたしを痴女扱いしないでちょうだい。ただ……その、かおる君が男子高校生的な考えはないのかなって、少しだけ、気になっただけよ」

「その男子高校生的な考えというのが分からないが、そうだな。冬木も冬木で、考えていることがあるということか」


 夕食の後片付けを終えると、かおるは自室へ足を向けた。

 体育祭の前に、中間テストが迫っている。理想的な成績を残すためにも、毎日の予習復習は欠かせない。特に最近は、冬木との同居生活が始まり、勉強時間が以前よりも減少気味だ。ここしばらくは、学業に勤しむべきだろう。

 机に向かい、参考書を開こうとした時、ノックの音が二回鳴った。


「かおる君……ちょっと、いいかしら?」

「構わないが、どうした」


 かおるの部屋に、冬木が顔を見せた。彼女の服装は制服から、薄いベージュのストライプ柄で、襟付きの長袖トップスと、ゆったりとしたルームウェアに変わっている。

 その両腕には、いくつもの参考書とノートが抱えられていた。


「冬木、俺はいま勉強中だ。用があるのなら、また後でにしてくれないか」

「だからこそよ。ほら、中間テストも近いし、かおる君の分からないところは、わたしが教えてあげる。いっ、言っておくのだけれど、これはあくまでも、ご主人さまとしての、正当な義務よ。使用人であるかおる君の成績が悪いと、その責任はわたしにあると言えるのだから、きちんとわたしが面倒を見るべきなの」


 いくつかツッコミたい点はあったものの、学年1位の成績を持つ冬木となら、一緒に勉強した方が効果的と言えるだろう。


「分かった、それではよろしく頼む」

「ええ、任せてちょうだい。……ところで、かおる君の苦手科目は何?」

「苦手というほどではないが、エネルギー保存の法則が気になる。たとえばエントロピーの増大則を考えると、完全なエネルギー保存は、理想状態でしか成り立たないはずだが……」

「そうね。摩擦や熱拡散を考慮すると、利用可能なエネルギーは必ず減少していくもの。これは、時間の方向性とも関係していて――」


 背の低いテーブルを挟んで、二人は勉強に没頭していた。

 基本的には冬木が説明側に回り、かおるが適宜確認を入れる形で進んでいく。

 冬木がいてくれて学習効率が高まっていると、ひとりでに納得していたその時、かおるの視線は思いがけない光景に釘付けとなった。


「エントロピーの増大が、時間の不可逆性を生み出しているの。そして面白いのは、ここから。ミクロな世界では可逆的な物理法則が支配しているのに、マクロな世界では不可逆な現象ばかりで――」


 冬木はいま、教科書に身を乗り出すように説明している。

 この前のめりの姿勢によって、ゆとりのあるルームウェアは、重力に従順に垂れ下がり、そこから覗く曲線美と下着が、かおるの理性を揺さぶるには十分すぎるほどの存在感を放っていた。


 姿勢のせいか、それとも角度によるものか。

 いつもよりいっそう大きく見えるそれは・・・、かおるの視覚いっぱいを占め、否が応でも彼の目を引きつけるに至った。


「ちょっと、かおる君? ちゃんと、聞いているの?」

「ああ、聞いてはいるな。次は、放物線の運動についてだったか」

「ええ、そうよ。放物線運動の本質は、水平方向と垂直方向の運動が、独立・・しているという点にあるの」


 かおるはノートを取りながらも、まるで重力をものともしないそれに注視した。


「ああ、確かに独立しているように・・・・・・・・・見えるな・・・・

「面白いのは、空気抵抗を無視した理想状態では、45度で投げた時が、必ず最大飛距離になるってところね。ただし、現実では空気抵抗があるから、最適角度・・・・は、若干小さくなるの」

「そうか? 最適角度・・・・は、むしろ理論値をたたき出していると思うが」

「ううん、そんなことはあり得ないわ。空気や重力を無視できるものなんて、この世には存在しないもの」

「興味深い話だな。俺はたったいま、空気や重力を無視できるものに、心当たりがある」

「それって、いったいどんなものなの?」

「さあな。それこそ、完璧なエネルギー保存を維持しているのかもしれん」


 かおるが意味深に混ぜ返すと、冬木は、「まあ、いいわ」と元の姿勢に戻った。

 彼女はいつものように、どこか誇らしげに胸の下で腕を組むが、今日に限ってはそのポーズにかおるは違和感を覚えた。


 ……やはり、今日はいつもより大きく見えるのだ。


「ところで、話は変わるが……冬木は、着痩せしやすい骨格だと言っていたな」

「そうね。ゆったりとした衣服の場合は、シルエットが曖昧に見えてしまうの」

「これはあくまで、純粋な好奇心なのだが……今日の冬木は、少し強調・・されているように見える。これもまた、衣服による印象の違いなのか?」


 かおるがそこまで言うと、冬木は先ほどのかおるの言葉と視線に理解がいき、たちまち頬を桜色に染めた。

 そして抗議するかのようにほっぺたを丸くし、胸を両腕で覆うのだった。


「かおる君の、えっち」

「いや……俗物的な目で見た覚えはない。言っただろう、これはあくまでも純粋な好奇心だと」

「わ、分かってるわよ。かおる君が、そういう目では見ていないって。でも……えっと、今日はやっぱり、違って見えるのかしら?」

「まあ、そうだな。制服姿だと微妙な違いでしかなかったが、薄着になるとより顕著だ。今回ばかりは、パッド・・・か何かを、使っているのか?」

「パッド?? ……随分とまた愚かな見方ね、かおる君。かおる君は、女の子の胸を、無機物か何かだと思っているの? 女の子の胸は……時に、変化・・することもあるの」


 冬木は視線を泳がせ、気恥ずかしそうに声を小さくした。

 しかし、かおるはそんな女性的な事情については、全く理解の外の話だ。やや込み入った話とはいえ、これに彼の学者めいた知的好奇心が、駆り立てられる。


「変化する、だと? ……それは・・・、小さくなることも、あるのか?」

「ち、小さくなることは、あまりないと思うわ。どちらかというと……大きく……」

「突然、大きくなるのか? ……なぜ、どうして、どのような原理で、一時的に身長が伸びるようなものなのか?」

「ち、違うわよ。だから、その……ほら、女の子の日・・・・・が近い、とか……」


 いかに男女の保健体育的なことに疎いかおるとはいえ、その一言で、流石に彼女がどういった状況にあるのかは理解がいった。

 同時に、踏み込みすぎた質問への後悔が押し寄せ、かおるは慌てて咳払いで誤魔化す。


「す、すまない。いや、デリケートな話だとは思わなかったのだ」

「い、いいのよ、別に。それに、大きくなるっていっても、みんながそうなるわけじゃないから……確かに、気になることだと思うわ」

「なら、今日から冬木の下着の用意も、変えておくべきか……。いつもは、俺が用意しているはずだが、普段と同じサイズでは、不都合があるというわけか?」

「ええ、そうね……だから、どうせ話さなければならないことだったし、気にしなくても、いいのだけれど……」


 冬木はもじもじと指先を弄びつつも、何かを訴えるような目でかおるを見つめる。


「今日から少しの間、一つ上のサイズ・・・・・・・を……お願いできるかしら」


 ばかな……《H》……だと!?


 冬木の更なる進化、更なる成長に戸惑いつつも、かおるは冷静に状況を理解しようと努めた。そして、引き出しに収まりきらない衣類の数々、当初に散在していた下着の量についても、一つの答えを示した。だから、女の子は下着が多いのだろうと。


「了解した。当面は、要望に沿ったものを用意しておこう。ちなみに、一定期間が経ったら、元に戻していいわけか?」

「分からないわ。いまではまだ、なんとも言えないのだけれど……もしかしたら、もう一つ・・・・さらに・・・ってことも……」

「りょ、了解した。では、その時は、また……」

「え、ええ……そ、それじゃあね」


 冬木は急ぐように部屋を後にした。

 扉が閉まった後も、かおるの動揺は収まらない。アルファベットの一文字が示す衝撃的な数値は、まるで宇宙の未知なる領域を垣間見たかのような衝撃だった。

 そのこともあり、結局その夜、予定していた勉強は手につかなかった。

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