第27話 隣の席から、二人三脚。

 次の朝を迎えた頃には、冬木の体調は完璧なまでに戻っていた。昨日までの高熱は嘘のように消え失せ、彼女の瞳には、いつもの気高さが戻っている。


「おはよう、かおる君。今日もわたしみたいに素晴らしい朝ね」

「ああ、おはよう冬木。冬木みたいかどうかは分からないが、確かにいい朝だ。ところで、熱はどうだ? 随分と、顔色は良さそうだが……」

「36.4度……完全な平熱よ。ふふんっ、風邪でさえも、このわたしの美しさには敵わなかったようね」

「念のため、昼には保健室で検温した方がいい。一時的な回復かもしれないし、ぶり返す可能性も否定できない」

「だから大丈夫って言ってるでしょう? いつまでも心配してると、執事失格よ」


 冬木は不満げに頬を膨らませる。しかし、その仕草には、いつもの毒を感じさせない温かさがあった。むしろ、かおるの心配を喜ぶような、密やかな色が混ざっている。それは昨日の看病で、二人の距離が確実に縮まった証なのかもしれない。


「体調管理は重要だ。昨日までの経緯を踏まえれば、継続的な確認は不可欠だろう」

「ふーん。それじゃあ、これからも毎日チェックしてくれるの?」

「ああ、当分の間は必要だと判断している」

「あら、それは楽しみね。毎朝、かおる君にチェックされるなんて」

「使用人として、当然の務めだ」

「はいはい。かおる君は、本当に真面目なんだから。でも……看病してくれた時間は、わたしの宝物よ。かおる君が見せてくれた優しさも、ぜんぶ、大切な思い出」


 なぜ看病の時間が、彼女にとってそれほど特別だったのか。

 かおるはそれを訊ねようとしたが、「ごちそうさま」と、冬木が先に席を立つ。その時に残っていた頬の赤みは、本当に風邪の名残なのだろうか。そんな不確かな想いを巡らせながら、かおるは食器を洗い、登校の支度を整えていった。


「それでは、行ってくる」

「ええ……また後でね、かおる君」

 同じ屋根の下で暮らしていても、学校では、二人は関わり合いのない他人を演じている。

 高校生同士の同棲など、一度でも噂に上れば、不要な風波を立てかねない。

 そのことを危惧して、かおると冬木は、意図的に登校時間をずらしていた。


「――なあ、今日は冬木さん、来ると思うか?」

「来てくれたらいいんだが……ああ、あの美貌は、一日一回は拝まないとな」

「どうせ、ただの風邪だろ。早かったら、今日には治ってるんじゃないか?」


 教室は、いつも通り冬木の話で持ちきりだった。

 共に欠席をしていたかおるのことを気に留める者は一人もいない。幸いにも、彼が冬木の看病をしていたなどと、想像の及ぶ者はいないようだった。


「相変わらず、今日も騒がしいわね。そこまでわたしに夢中になって、彼らの楽しみは他にないのかしら」


 冬木が教室に姿を見せると、男子たちの歓喜の声が湧いた。

 彼女はうんざりとした様子だったが、着席と同時にその表情が和らいでいく。そして、ほんの一瞬だけ、隣席へと視線を投げかけた。

 かおるは、何の取り柄もない自分が、冬木の目の保養になっているとは考えもしていないようだった。そんなただ読書に没頭するかおるの横顔が、冬木にとってはささやかな幸福だった。


「さて、いよいよ来月は体育祭だ。来週の放課後までに、それぞれの出場種目を決めておいてくれ。クラス対抗リレーは男女各四名、計八名が必要となる。選抜リレーについては、50メートル走の記録上位者から――」


 そして朝のホームルームでは、体育祭の案内が担任から通達された。

 かおるたちのクラスでも、これから競技の選考が本格化されていく。既に、後ろの黒板には競技種目の一覧が整然と並び、誰がどの種目に挑むのか、生徒たちの間で、振り分けの議論が始まっていた。



「――それで、かおる君はどの種目に出場するの? 一人一種目は、必ず出場しないといけないみたいだけど」


 昼休み、冬木はいつものようにかおると校舎の屋上に立ち入っていた。

 この場所なら、二人の秘密めいた関係も、表沙汰になることはない。


「体育祭は、俺の興味の範囲外だ。黙っていれば、自然と余った種目に回されるだろう」


 かおるは二段重ねの弁当箱を取り出し、その一つを冬木へ手渡す。中身は、彼女の好みを考慮して作られており、一品一品に、細やかな気遣いが込められていた。


「相変わらず、学校のことには興味がないのね」

「かく言う冬木も、連中のことは眼中にないように見えるが」

「あら、眼中にないだなんて、ひどい言い草ね。でも、正解。たかだかわたしの登校で、一喜一憂する彼らのことなんて、どうしたって興味を持てないもの」

「無理に興味を持つ必要もあるまい。俺もそうしている」

「そうね……この体育祭も、あくまで形式的なものに過ぎないんだし。わたしたちは、いつも通りの生活を心がけましょう」

「ああ、俺にとっては冬木との暮らしの方が、よほど興味があるからな」


 冬木は食べかけていた唐揚げを喉に詰まらせ、慌てて水で流し込むと、潤んだ瞳で抗議するようにかおるを睨んだ。


「かおる君って……たまに狙ってやっているんじゃないかって、思うのだけれど」

「俺が、狙う? 何の話だ?」

「だから、こういう言葉攻めよ。まるで、わたしの心を狙っているみたい」

「言葉攻め? 単なる事実を述べただけだが」

「じゃあ……わたしとの暮らしも、単なる事実に過ぎないのかしら?」

「それは……研究対象として、価値が高いからだな」

「ふふっ、かおる君も素直じゃないのね」


 先に食べ終わった冬木は、「お弁当、ごちそうさま」と残して立ち上がる。弁当箱の片付けは、当然のようにかおるに一任されていた。

 彼女は一足先に屋上の扉に手をかけると、一度だけかおるの方を振り返った。


「ちなみに、わたしの予想では、かおる君の種目はわたしと同じになると思うわ」

「どうして、そうだと分かるんだ?」

「さあね。放課後になったら、その意味が理解できると思うの。だって、彼らの考えることは、いつも浅はかなものなのだから」


 冬木の言葉の意図は掴めなかったが、かおるはいつもの皮肉めいた発言として聞き流した。しかし、いざ放課後の時間がやってくると、冬木の言葉の真意が明らかになった。


「何というか……すごいな。冬木にかける、男子たちの情熱が……」


 ホームルーム終了後、クラスは体育祭に向けた種目決めに熱中している。

 その中でも、一際熱を帯びていたのは、冬木の出場種目を巡る議論だった。

 紆余曲折を経て、冬木の出場種目は《二人三脚》に決定されたのだが、そのペアを務める者は誰かと、男子たちが次々と名乗りを上げていた。


「ここはやっぱり、クジ引きがいいと思うんだよ」

「いやいや、二人三脚の公平性を担保する上でも、やはりあみだくじでだな!」

「じゃんけんでよくね? 一番わかりやすいしさ」


 ペア選びの議論は白熱していたが、当の冬木は無関心を貫いている。

 しかし、三十分、一時間と同じような議論が延々と続くうちに、冬木の表情には苛立ちが浮かび上がる。


 さっさと、この下らないペア選びを終わらせたい。

 そう考えた冬木は、不意に立ち上がり、男子たちに向けてこう言い放った


「わたしは、誰がペアになっても構わないわ。だから、この無駄な議論は、終わりにしましょう」

 そして冬木は、誰もが予想しなかった提案を口にする。

「――二人三脚のペアは、隣席の人がいいと思うの。席順は入学当初のままだし、完全にランダムのはず。どう、公平だと思わない?」


 クラスの主導権を握る冬木が提案したことで、男子たちは不満を抱えながらも、渋々と頷くしかなかった。

 自分が選ばれなかった悔しさを滲ませる者も多かったが、不思議なことに、その怨嗟の目は隣席のかおるには向けられない。

 クラスで最も影の薄い男子生徒。その存在の希薄さが、むしろ幸いした形だった。


「――ほら、言った通りでしょう?」


 冬木は、誰にも聞こえないような声で囁く。

 意地悪げに、しかし確かな喜びをにじませて、計算通りの結果を手にした満足感を露わにしながら、隣席のかおるに耳打ちする。


 「かおる君は、わたしはと同じ種目になるって」

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