第26話 ご主人さまの背中拭き。
夜の九時を過ぎ、二人は夕食を終えていた。
三食よく食べ、睡眠を取り、薬も飲んだことで、冬木の体調は改善の傾向が見られる。あるいは、おまじないのおかげもあったのかもしれない。
「体温は……37.8度か。少しずつ、下がってきているな。明日には学校にいけるかもしれない」
冬木の部屋では、引き続きかおるが看病にあたっていた。
彼女の容態は改善傾向にあり、いまでは読書や自主学習程度のことはできる。
この調子でいけば、明日には完全回復もあり得るだろう。
「わたしは、この時間も悪くなかったわ。もう少しだけ、続いてもいいと思うほどにはね」
「まさか、わざと具合を悪くするつもりじゃないだろうな」
「ふふっ、気付いちゃった?」
「冗談のつもりでも困る。学校にいかなければ、冬木の成績が悪化してしまうぞ」
「執事くんは心配性ね。もちろん、学校には行くつもりよ。ただ……今まで誰かに、ここまで大切にされたことはなかったから」
「俺もだ。誰かのために、ここまで必死になったのは、冬木が初めてだ」
「やっぱり、お似合いなのかもしれないわね、わたしたちは」
「……そうかもしれないな」
かおるは今日の言動を振り返り、自分でも驚くほどの変化を感じていた。
単なる看病だけでなく、おまじないを信じたり、お守りを買ったり、彼女の風邪を治すためにできることは全てやった。
冬木のためならと――そう考えている自分がどこか照れ臭く、かおるは冬木の部屋を立ち去ろうとする。
しかし、彼をこの場に引き留めようと、冬木がその袖を掴み取った。
「どうした、冬木。大方の用事は済んだことだ。俺にできることは、もう残されていないと思うが」
冬木は、ためらうように目を伏せた。頬を染める赤みは、もはや熱によるものではない。その表情には、これから口にしようとする言葉への、かすかな恥じらいが滲んでいた。
「わたしね……まだ、シャワーを浴びていないの」
冬木のパジャマは汗で湿り、肌に張り付いている。着替えは既に数回済ませていたが、彼女の体調管理を第一に考えるなら、かおるとしてもこの状態を放置するわけにはいかなかった。
「ああ、そうだな。汗を掻いたままでは、体温調節機能に支障を来す。しかし、熱は下がってきているとはいえ、シャワーはまだ早いと思う」
「じゃあ……どうしたら、いいと思う?」
「タオルを用意して、身体を拭いたらどうだろうか」
「
「ああ、温かいタオルを用意しよう」
かおるは清潔なタオルを取り出した後、洗面台のお湯でそれを温める。
バスタオルと着替えも用意すると、準備はすぐに整った。
「タオルの温度は45度、汗と皮脂を効果的に落とせる温度だ。これならシャワーに入らずとも、清潔な身体を保てるだろう」
「ありがとう、かおる君。でもね……このタオルじゃあ、全身を拭くことはできないと思うのだけれど」
「そうか? それなりに、不都合なく拭けると思うが……」
「前は、そうかもしれないわね。でも……背中は、届かないと思うの。だから、ね……よかったら、
思いがけない言葉に、かおるは一瞬言葉を失う。
「手伝うのか? ……俺が、冬木の背中を?」
「だ、ダメ?」
冬木は視線を合わせられず、思わず声が上ずっている。顔色は耳の端まで真っ赤に染まっていたが、かおるがその意味を察することはなかった。
「冬木が望むのなら、構わない。俺が、背中を拭けばいいんだな」
「うん……前は自分でするから。背中だけ……」
「分かった。準備ができたら、教えてくれ」
かおるは後ろを向き、冬木の声を待った。
するりと、パジャマが脱ぎ捨てられる音が鳴り、下着がベッドの上に置かれる。
「い、いいわよ……それじゃあ、お願い」
ベッドの上で背筋を伸ばす冬木は、胸元に腕を添えていた。しかし、その慎ましい仕草とは裏腹に、彼女の押しつぶされたそれが横に広がり、背中からでもその豊かな存在感が見て取れる。
「では、始めよう。かゆいところがあったら、遠慮なく言ってくれ」
かおるは淡々と告げ、温かなタオルを手に、ゆっくりと冬木の背に近づけていく。
「ひゃっ……ひゃぅっ!?」
そして触れた瞬間、ぴくんと身体を跳ねさせる冬木。
「どうしたんだ?」
一方、かおるは、相変わらずの理性的な表情で問いかけた。
その無邪気なまでの鈍感さに、冬木は恨めしげな眼差しを向ける。
冬木の視線には、まるで「どうして、そこまで察しが悪いの」と言わんばかりの、抗議の色を帯びていた。
「な、なんでもないわよ……い、いいから、続けてくれるかしら」
「ご要望であれば、そのようにしよう」
それからかおるは、丹念に冬木の身体を拭き続けた。なめらかな肩のラインから背中の終わりまで、あますところなくタオルを広げ、汗をひとつ残らず拭っていく。
一面に広がる白い肌、背中からでも見て取れるその半球も、何一つよこしまな思いを巡らせずに拭き続けた。
「終わったぞ。後は、任せても良いか?」
そうして二人の危ない時間は過ぎ、かおるは彼女にタオルを手渡した。
「……冬木?」
彼女の顔は限界まで紅潮し、胸の高鳴りは収まる気配もない。だがそれを悟られまいと、冬木は「ふんっ」と気丈に鼻を鳴らした。
「な、なかなか悪くなかったわね。流石は、わたしの執事さまといったところかしら」
「お褒め預かり光栄だが、タオルは部屋の前に置いておいてくれ、後で回収しておく。今日は早く睡眠を取り、明日に備えてくれ」
「うん……分かってる。今日は本当にありがとう、かおる君」
「問題ない。これもまた、俺たちの《余計なこと》の一つなのだからな」
ドアが閉まりかける頃、かおるは最後にこう言い残した。
「おやすみ、冬木」
「うん、おやすみなさい……かおる君」
かおるは自室として与えられた空き部屋に戻る。昨晩、夜遅くにこっそり自宅から必要なものを大方搬入していたため、いまではここがかおるの部屋となっている。
「……」
予習復習に没頭しつつも、かおるは今日の時間を振り返っていた。
冬木の容態は、きっと直ぐによくなる。風邪が治れば、明日から、また普段の関係に戻るだろう。
でも、きっと何かが変わっている。彼女のとの関係……いや、距離感が、何か。
そう思いを寄せながら、かおるはノートにペン先を走らせていった。
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