第25話 お姫様抱っこは、38.5℃。

 冬木が眠りについてから、一時間ほど経過した。

 熱感式のセンサーで測ったところ、体温計は38.3度と、完全な回復にはまだ時間がかかりそうだ。


「買い出しにいってくるか」

 かおるはドラグストアに向かい、そこで必要なものを探し始める。

「解熱剤、咳止め……喉の痛み用の飴も必要だろうか」

 商品棚の前で、かおるは立ち止まる。

 いつもなら即座に判断できることが、今日は少し違う。

(冬木なら、どれを選ぶだろうか)

 甘いものは好きだろうか。いや、案外酸っぱい方が好みかもしれない。

 普段なら気にも留めない選択に、妙に時間がかかってしまう。

 時間が経つにつれて、カゴには徐々に商品が増えていった。

 スポーツドリンク、レモン果汁、はちみつ、お粥用の柔らかい米……それから、使い捨ての氷枕も。保冷剤も、予備として買っておくべきだろう。


「ここまで細かく考えたのは、初めてかもしれないな。」

 かおるは孤独な学生生活を送る上で、自分自身も風邪にかかったことはあった。

 しかし、自分が風邪にかかったところで、必要最低限のことしかしてこなかった。

 そのはずが、冬木のこととなると話は違う。

 彼女の好みや、快適さ、どうやったらよくなってくれるかを第一に考えてしまう。


「……」

 帰り道で、かおるは小さな神社に目を留めた。祈りや願いとは無縁の性分だが、彼女のためなら、慣れない精神性を持ち合わせるのも一興かもしれない。

「一時的にとはいえ、居候させてもらっている身だ。冬木が体調を悪くしたのなら、恩を返す程度の義理はあるだろう」

 どうして、冬木にそこまでしてあげているのか。かおるは自分の気持ちにも気付かないまま、そう合理的な理由をつけてマンションに戻った。


「また、熱が上がってきているな……」

 かおるは、冬木の部屋へと立ち返った。

 ベッドで身を横たえている冬木の容態は、改善されているとは言い難い。むしろ、より呼吸が乱れ、汗も多く滲んでいる。

  体温は、38.5度。そろそろ身体の節々に痛みも生じてくる頃合いだろう。風邪とはいえ、軽視はできない状態だ。


「はっ……はっ……」

 冬木の呼吸は荒く、パジャマは汗で襟元が濡れていた。

 頬は上気し、普段の凛とした面影もいまは失われている。

「体力の消耗を考えると、今日は絶対安静。食事と水分補給を徹底して、明後日には通学できる状態まで回復させたい。そのためには……」


 かおるは体温計の数値を、何度も確認している。解熱剤、氷枕、水分補給――医学的な処置は全て施しているはずなのに、冬木の熱は一向に下がる気配を見せない。

 そんな中、もぞもぞとシーツの擦れる音がかすかに響いた。


「かおる君……スマホで、なにを見てるの?」

 高熱で目覚めた冬木が、ベッドから起き上がってきていた。

「ああ……いや、これはだな……」

 冬木が覗き込んだ先、かおるは普段の自分なら決して見ないようなサイトを開いていた。


《風邪を早く治す、おまじない》


「もしかして……かおる君が、おまじないを?」

 普段は決して見せない、かおるの取り繕えない一面。

 いつも冷静で論理的なかおるが、そんな非科学的なことを調べていることに、冬木は目の端を緩めた。


「やれることは、全てやろうと思ってな。科学的根拠は、ないかもしれないが――」

「嬉しい」

「……なに?」

「かおる君は、そこまでわたしのことを考えてくれているのね。おまじないでも、何でもっていうところが……なんだか、とても可愛らしく思えたわ」

「特別な意味はない。ただ、冬木が快復しなければ、使用人たる俺も学校に行けない。つまり、両者の利害の一致というわけだ」

「ふーん……利害の一致だなんて、随分と理屈っぽいのね。本当に、それだけなの? 他にも、理由があったりするんじゃない?」

「俺は、冬木と共に暮らす使用人のようなものだ。それ以上でも、それ以下でもない」


 憮然と答えながら、かおるは話題を逸らすように、スマホの画面に指を這わせた。


「――このサイトによると、風邪の時は北枕が良くないそうだ。清浄な気とやらが、散逸してしまうらしい」

「いまは、ちょうど北枕になっているわね」

「ああ、早速向きを変えてみよう」

「これだけで風邪が治るなら、お医者さんも要らなくなりそうね」

「無論、科学的な見地からは逸脱している。化け学という意味では、一理あるのかもしれない」

「確かにおまじないは、学問を化かしていると言えるとも言えるわね」

「根拠や数値は、意思決定をする上での判断材料になり得る。だが、それだけでは人らしさに欠ける。時には、無根拠で無謀な試みにも価値があると、どこかで読んだ記憶がある」


 そう言いながら、かおるは真剣な面持ちで冬木を抱き上げた。まるで、その論理的な言葉とは裏腹に、優しさだけで動いているかのように。

「……っ」

 突然のお姫さまだっこをされて、冬木の頬が淡い桜色に染まった。ただ、彼の腕の中で、安心と温もりに包まれているだけで、それはどんな科学的根拠よりも、確かな安心感をもたらしていた。


「こういう時、冬木は軽くて助かる。朝粥は、相当な量があったはずだが……」

「あら、それは褒め言葉? それとも、わたしの食欲を皮肉ってるの?」

「あるいは、食べた分が、熱で蒸発したのかもしれないな」

「元気になったら、お仕置きリストに追加しておかないといけないわね。執事さまには、淑女の扱い方から教え直さないと……」

「確かに、淑女の扱い方は、勉強し直す必要があるかもしれないな」

「ふふっ、いまのうちに逃げ道を作っておくことね。このわたしの機嫌を損ねたら、どうなるのか。もしくは、かおる君の素直な謝罪でもいいわよ?」

「看病させていただく身として、慎重に言葉を選ばせていただきます」

「ふふ、意地悪なかおる君が、こんなに素直になるなんて。熱で幻でも見ているのかしら」

「なるほど……風邪程度では、冬木の皮肉は治らないらしい。あるいは……」

「なに?」

「いや、やめておこう。さらに機嫌を損ねられては、適わないからな」

「ふふん、よく分かっているようね。今度は体調の良い時に、じっくりと聞かせてもらうわ」


 冬木を南側に寝かせたかおるは、ポケットからある物を取り出した。


「かおる君……それは?」

 冬木の視線が、かおるの手の中の小さな布包みに注がれる。

 赤と白の上品な色合いの布地で作られた、健康祈願のお守りだ。

「ドラッグストアの帰り道で、神社に立ち寄った。健康祈願のお守りだ。医学的な治療と、非科学的なアプローチ。両方試みる方が、風邪の治りも早いはずだ」


 感情を交えず、かおるはデータを分析するかのように語る。しかし、その視線は定まらず、僅かな恥じらいを隠せないでいる。


「他にも、ベッドの下に塩を撒くという案も検討したのだが……」

「し、塩って……かおる君、それは完全にやりすぎよ」

 思わず吹き出す冬木。その笑顔に、かおるはばつが悪そうに頭を掻く。

「分かっている。俺としても、そこまで本格的な儀式をするつもりはない」

「そう照れなくてもいいのよ。でも……意外ね。あのかおる君が、わたしのためにそこまで考えてくれたなんて」

「言っただろう、冬木の風邪が治らない限り、使用人の俺も学校にいけない。風邪を治すためには、手段を選ばないという、ただそれだけの理由だ」

「分かってるわ、かおる君が合理的に動いてくれたんだってことは。でも、このお守りは嬉しいわね。ありがとう、かおる君」


 冬木がお守りを胸元に抱くその仕草に、かおるは不思議な温もりを覚えた。

 論理や理性では説明のつかない、柔らかな感情。

 自分の変化に戸惑いながらも、かおるは彼女から受け取った感謝の言葉を、心地よく受け止めていた。


「さて、俺はまた買い出しにいってくる」

「もう行くの? さっき行ったばかりだと思うのだけれど……」

「夕食の準備もしなくてはな。この部屋にいると、お姫さまの毒が飛んできそうだ」

「ふーん……でも、かおる君は知っているのかしら。実は、わたしの風邪に、もっと効くおまじないがあるのよ」

「なんだ?」

「わたしの隣にいること。わたしが眠りにつくまで、見守っていること」

「簡単なおまじいだな。その程度で冬木の風邪が治るのなら、安い物だ」


 彼女の寝息だけが響く部屋の中で、かおるは腰を下ろして見守り続ける。

 非科学的な行為に奔走する自分を、不思議に思いながらも。

 彼女の笑顔のために、もう少しだけ、論理から外れる行為も味わってみたいと思うのだった。

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