2章 体育祭編
第24話 執事の看病。
翌朝の月曜日。
いつもより早く目覚めたかおるは、台所に立っていた。
今日から始まる、二人の最初の朝――かおるはどこか特別な想いを感じながら、丁寧に一品一品を作り上げていく。
「味噌汁の出汁は、昆布と鰹節……ご飯は多めに炊いておこう。冬木の胃袋は、俺ですら計り知れないからな」
焼き魚の香ばしい香り、玉子焼きの優しい黄身色、ほうれん草のお浸しの鮮やかな緑、そして湯気の立つ味噌汁。一汁三菜の朝食が、テーブルに並んだ。
「朝食……懐かしい響きだ。家族と朝食を共にしたのは、いつのことだっただろうか……いや、そもそも冬木と俺は、いったい
湯気の向こうに広がる朝食の風景に、かおるは改めて二人の繋がりを意識する。
表面的な関係で言えば、自分たちは同じ高校一年生。それだけの事実に過ぎない。
しかし、彼女は桜ヶ丘のシンデレラであり、自分は影の薄い男子高校生A。家族どころか、対等な立場ですらない。強いて言えば、彼女の使用人のようなものだろうか。
(執事、か……)
かおるは、ふと思考に沈む。冬木が冗談めかして呼んでいたその言葉が、いまでは妙に正確な響きを持って聞こえる。
「確かに……この家では、それが妥当な立場なのかもしれない。冬木が何を望んでいるのかは測りかねるが、俺は使用人として、その役割を果たすべきだろう」
最後に食器の配置を確認し、グラスに水を満たす。
全てを整えたところで、かおるはリビングを後にした。
時計の針が、七時を過ぎたところ。
かおるは冬木の部屋の前に立ち、慎重に二度ノックする。
「冬木、朝食の準備ができた」
返事を待つが、依然として冬木からの言葉はない。
「……冬木?」
もう一度、声をかける。しかし、応答はない。
ドアを開けてみると、冬木の荒々しい寝息が聞こえてくる。
ベッドの中にいる冬木の頬が、普段よりも顕著に紅潮していた。
「この熱さは、単なる生理反応じゃないな……やはり、風邪か」
かおるは冬木の額に手を伸ばし、明らかに異常な体温を感じた。
昨日の展望デッキで過ごした時間が長かったせいだろうか。それとも、休日の人混みの中で風邪をもらってしまったのか。あるいは、風に当たり過ぎてしまったせいか。
「ん……」
額に触れる温もりに、冬木がゆっくりと瞼を開く。
「かおる君……おはよう」
しかし、冬木が身体を起こすことはなく、熱気を帯びた吐息も荒々しい。いつもの凛とした面影は失われていて、それがかおるの不安を一段と募らせた。
「おはよう、冬木。早速だが、いまは安静にしていた方がいいだろう。少し触れただけでさえ、異常な熱があると分かる」
「そうね……ごめんなさい。わたしは、風邪を引いちゃったみたいね」
「学生は誰でも、年二回から三回の風邪を引く。それを考えれば、これは必然的な確率事象に過ぎない。後ろめたさを感じる合理的な理由は、どこにも存在しないはずだ」
実にかおるらしい言葉を受けて、冬木の表情が僅かに和らいだ。しかし、その口から普段のようなキレのある皮肉が返ってくることはない。
いつもの毒舌も、凛とした態度も影を潜め、か弱く横たわる冬木の姿に、かおるの胸が締め付けられる。
「動かないでいてくれ。朝食を、この部屋まで運んでくる」
「ごめんなさい。せっかく作ってくれたのに、冷めてしまうわね」
「謝る必要はない。体調が悪いというのなら、俺が冬木の看病をしよう」
「か、看病って……でも、かおる君、学校は……」
「後で、欠席の連絡を入れておく。共に暮らすことになったからには、こういう時こそ、お互いに支え合うべきだ」
「うん……ありがとう、かおる君」
風邪の影響も感じさせない、いつもの凛とした表情が柔らかく溶ける。普段は強がっている冬木の素直な一面を見られたことに、かおるはどこか特別な感触を覚えた。
「――では、朝食と薬を用意しよう。しっかりと栄養を摂り、薬を飲んで、睡眠を取る。ただの季節の風邪なら、直ぐに良くなるはずだ」
すぐさまかおるが立ち上がろうとしたその時、冬木が彼の袖を掴んだ。
「ねえ、かおる君」
「どうした?」
「看病してくれるなら……その……お粥を、食べさせてほしいのだけれど……」
「了解した。直ぐに準備しよう」
かおるは優しく頷いて、冬木の部屋を後にする。リビングには、既に朝食が用意されていたが、この程度は問題にならない。アレンジ次第で、風邪でも食べやすい内容にできるはずだ。
「このままでは、体調の悪い冬木には重すぎる。冬木の体力が消耗しないよう、より消化がしやすいものにしなくてはな……」
かおるは、すぐさま献立の再構成に取り掛かった。
炊きたての白米を丁寧に研ぎ、お粥状に。昆布と鰹節で取った出汁を加え、優しい味わいに調整していく。
朝食用に作っておいた味噌汁の出汁を活用できたのは、幸いだった。
「具材も、この状態なら使えそうだな」
焼き魚は身をほぐして細かくし、出汁と共に柔らかく煮直す。
卵焼きは薄く刻んで、お粥の薬味として使えそうだ。
ほうれん草のお浸しは小口切りにして散らし、最後に白髪ねぎを添える。
一つ一つの食材を丁寧に調理し直すことで、朝食は朝粥へと姿を変えた。
「待たせたな、いまから朝食にしよう」
湯気の立つ朝粥を携え、かおるが部屋に戻る。
ベッドでは、冬木が身を捩りながらも、何とか身体を起こそうとしていた。
「ありがとう、かおる君。お粥を、作ってきてくれたのね」
出汁と粥の優しい香りに釣られて、冬木の瞳は輝きが増した。このいつも通りの食欲がある間は、そこまで体調も悪くなさそうだと、かおるはある種の安心を覚えた。
「万が一ということもある。体調が悪化してはならない、冬木はそのまま横になっていてくれ」
かおるは自然な動作で、そっと冬木の背中に手を添えた。
「……っ」
不意に彼の手が触れたことに、冬木は小さく息を呑んだ。
冬木の背中は、いま微かに震えている。
高熱のせいだけではなく、彼とのごく近いこの距離に、冬木は動揺を隠せない。
「か、かおる君……その、わたしは、ひとりでもご飯を食べられるわ」
「無理をするな。姿勢を正さないと、粥をこぼしてしまう。粥をこぼせば、部屋着が汚れ、衛生状態も悪くなるだろう。着替えを何度も繰り返すと、体力の低下を引き起こしてしまう」
「そ、そう……なら、お言葉に甘えさせてもらうわね」
かおるがスプーンですくったお粥を差し出す。
冬木は恥ずかしそうに目を伏せながらも、ゆっくりと口を開く。
「あ……熱いわね。わたし、熱い物は、あまり得意じゃないから……」
「そうだったのか、すまない。だったら、少し冷ますとしよう」
かおるがスプーンに息を吹きかけ、粥を冷まそうとしている。
その光景に、冬木の頬はいっそうと赤みを増した。彼が冷ましてくれた粥を、これから自分が口にするというシチュエーションに、冬木は乙女心がくすぐられるのを感じる。
「冬木……どうした、食べないのか?」
そして彼女は風邪を口実に、さらに自分の欲求を満たすことを企んだ。
彼女は再び差し出されたスプーンを拒むと、あざとい上目遣いで、かおるにこう持ちかけた。
「ま、まだ熱いかもしれないから……かおる君が、味見してくれないかしら」
冬木としては、いまの言葉はあくまでもからかうつもりだった。鈍感なかおるに、少しでも刺激を与えてみようと。
「え、ちょっと……かおる君!?」
しかし、相手は恋愛の絶妙な駆け引きなどには全く明るくない、あのかおるだ。
彼はスプーンの粥を含むと、「問題ない」とだけ答え、そのスプーンを冬木に突きつけた。……冬木は、いまにも爆発しそうな顔色になっている。
「冬木、どうした? 食べないのか?」
自業自得と言うべきか、因果応報と言うべきか。
彼女は自ら仕掛けた罠にかかり、スプーンの上に載った粥を見つめている。視線がぐるぐるとさまよい、明らかに狼狽した様子だった。
「おい……冬木?」
「わ、わわわっ、分かっているわよ! た、食べたらいいのよね、食べたら!」
「ああ、栄養を摂らねば、治るものも治らない。まずはこの一口を、飲み込むんだ」
スプーンが口に近付く度、冬木の心臓の鼓動が激しさを増した。
昨日のデートでも、間接キスは経験したが、今回のコレは、それよりも刺激が強い。
冬木は精いっぱい口を近づけ、何とか食べようとしたのだが、最後には頭から湯気を出して、「きゅう……」と切なそうにベッドにうずくまるのだった。
「……冬木。本当に、大丈夫なのか?」
「き、気にしないでいいわ……その代わりに、新しい食器を持ってきて……」
「ああ、確かにその方が食べやすそうだ。直ぐに、別の小皿とスプーンを持ってくる」
かおるが部屋を後にすると、冬木はどくんどくんと激しく鼓動を打つ胸を抑えながら、こう呟いた。
「もう……かおる君の、バカ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます