第23話 シンデレラと王子さまの初デート(4)
エレベーターのドアが開くと、柔らかな風が二人を包み込んだ。爽やかな空気が、映画館の余韻を優しく溶かしていく。
モール四階の展望デッキは、予想外の静けさに満ちていた。整然と並ぶ観葉植物の葉が、風に揺られてかすかな音を奏でる。木漏れ日は床に落ちて、まだらな光の模様を描いていた。二人以外の人影は、どこにも見受けられない。
「本当に、素敵な景色ね……街が手の平に載せられそうなくらい、小さく見えるわ」
冬木の指先が、透明な手すりに触れる。その瞳には、遥か遠くにまで広がる景色が映り込んでいた。
春の陽光に照らされた街並みが、まるでジオラマのように小さく見える。遠くにはビル群の稜線が、淡い橙色を帯びて連なっていた。
「見て、かおる君。わたしたちの住むマンションも、とっても小さく見えるわ」
「ああ……まるで、空から見下ろしているようだな」
「そうね。でもこの景色は、ただ綺麗なだけじゃないと思うの」
冬木は、そっとかおるの傍に寄り添う。
映画館での密やかな触れ合いが、まだ二人の心に甘い余韻を残したままで。
それでも、その緊張さえも優しく溶かすかのように、二人の肩と肩の距離は縮まっていく。まるで、見えない糸に導かれるように。
「ねえ、かおる君」
「なんだ?」
「わたしはこれまで、ずっと一人だった。あんなに高いマンションに住んでいても、最上階から見下ろす景色は、どこか冷たく思えて……でも、いまは違う。こんな風に街を一望できる場所で、誰かと安心できる景色を、見てみたかったの」
「冬木は、いま安心できているのか?」
「ええ……そうね。とっても、安心しているわ」
冬木の頷きに応えるように、風が吹き抜ける。揺れる彼女の髪から、ふわりと爽やかな柑橘の香りが運ばれ、二人の間の空気を甘く染めていく。
「かおる君は、どう? 今日の時間を過ごして、何か感じたことはない?」
「何か感じたこと……そうだな……」
かおるは、ふと顔を上げた。空には薄い雲が流れ、その合間から差し込む陽光が、まるでスポットライトのように自分たちを照らしている。
「綺麗だな」
かおるの言葉が、風に流れて溶けていく。その一言は、景色に向けられたものなのか、それとも自分に向けられたものなのか。
冬木が静かな期待を寄せる中で、かおるは今日の一日を振り返り、言葉を紡いだ。
「俺は以前、本を買うためだけに、このモールを訪れた。当時は、この展望台すらも目に留まることはなく、ショッピングモールは風景の一部でしかなかった。だが……冬木と来てみると、この展望台から見下ろす景色さえ、綺麗に見えた」
かおるの視線の先で、冬木の瞳に映り込む夕陽が、さんさんと輝いていた。同時に、どこか柔らかな空気が二人の間に立ち込め、言葉にならない緊張が走る。
「……どうして、今日は綺麗に見えたの?」
冬木は、彼の心にもう一歩を踏み込んでみた。
かおるの凍り付いた心に変化が現れつつあることに期待し、そして、どうかその変化が自分と同じものであることを願った。
「分からない。ただ、いつもよりも輝いて見えることだけは、確かだった」
「それは、どんな風に輝いて見えたの?」
「言葉にすることは難しいが……そうだな」
かおるは冬木と過ごした一つ一つの場所が、単なる背景ではなく、新たな価値が加わっているように見えた。
朝のブランチで交わした会話も、雑貨巡りも、映画館での温もりも……そしてこの展望台も、全てが新しい意味を持ち始めているように感じる。
彼女の隣にいると心が落ち着き、長年抱えてきた心の空洞が、少しずつ温かさで満たされていくような。
そしてその温かな感覚は、遠い過去にも味わったことがある。
(ああ……そうか。誰かと共にいる時にこそ、景色は、特別な意味を持つのかもしれないな)
かおるの中で、この温もりの意味がより定かになっていく。
しかし同時に、かおるの心には小さくない恐怖が芽生え始めた。ずっと凍り付いていた感情がいま再び目覚めることは、彼にとってある種の恐れとなっていた。それはやはり、彼の過去から来るトラウマなのだろう。
「かおる君……?」
一転して、かおるの穏やかな眼差しは消え失せ、いまや無機質な面持ちが浮かび上がっている。
「――冬木。俺たちは、明日も共にいるべきなのだろうか」
そして、突如として呟かれた、かおるの疑問。彼の憂いに満ちた言葉が、二人の間に重たい沈黙を漂わせる。
明日も共にいるべきなのだろうか……とは、何を意味しているのか。
いままで積み重ねてきた彼との距離が、一瞬にして遠のいていくような感覚が、冬木を襲う。映画館での温もりも、さっきまでの甘い空気も、一瞬にして凍りついたような、そんな冷たい錯覚が。
「それって、どういう意味? かおる君は、わたしにうんざりしちゃったってこと?」
「いや……そうじゃない。むしろ……いや、だからこそと言うべきだろう」
「全然、ちっとも分からないわ。かおる君は、何が言いたいの?」
「俺は、何が言いたいのか……か」
しかし、かおるの取った沈黙という行動が、二人の間により濃密な緊張感を広げてていく。これまでの心地よい距離感とは違う、何かが変わってしまう、そんな悪い予感が冬木の胸を掠める。
《展望デッキは、間もなく閉鎖の時間となります。残っているお客様さまがいましたら、一八時までにご退出いただきますよう、お願い申し上げます》
スピーカーから流れるアナウンスが、二人の間により濃い静寂を漂わせる。
お互いに言葉を発することもなく、夕暮れの空が、深い茜色に染まっていく。
「冬木……?」
これ以上、二人から言葉は紡がれないんじゃないかと思えたその時、冬木は、かおるの手を取った。彼が映画館でしてくれたように、心を通い合わせるかのように。
「かおる君がいま、何を考えているのか、わたしには分からない。だから、教えてほしいの。かおる君はいま、何に悩んでいるの?」
冬木の温もりが、かおるの右手に伝わってくる。それは映画館での感触と同じ……いや、いまに限っては、もっと確かな熱意を帯びているように感じた。
「冬木、俺は……」
慎重に言葉を選ぶように、かおるは恐る恐る口を開く。
「俺は以前話したように、複雑な家庭で育った。父も母も、何度か変わっている。その中で、義理の両親と良好な関係を築く機会は、何度かあった。……だが、その全ては、いまに続くことはなかった」
かおるが瞳を閉じた先――そこには、これまでに経験した数々の別れと、今日彼女と過ごした温かな時間が、まるで二重写しのように映っていた。
楽しかった思い出も、心躍る瞬間も、彼女との大切な時間の全てが、過去の別れと重なっていた。
だからこそ、過去と
「今日という一日は、確かな輝きを持っていた。冬木と共にいることで、景色も、時間も、空気も、全てが違って見えた。しかし……だからこそ、怖いんだ」
風が吹き、冬木の長い髪が揺れる。その様子さえ、いまのかおるには寂しく映る。近づけば近づくほど、失うことへの不安が募っていく。
「人との絆は、深まれば深まるほど、終わりが近づく。それが、俺の知っている世界の摂理だ。これまで、最も長く続いた家族の時間は、たった三年――幼い頃に感じた幸せは、必ずこの手から零れ落ちた」
展望台から広がる街並みを見つめるかおるの瞳には、過去の記憶が映し出されている。
数えきれない別れ、そしてその度に閉ざしていった心の扉。
それはかおるの中で、まだ生々しい傷として残されていた。単なる告白ではなく、長い間抱え続けてきた孤独の形を、初めて誰かに見せた瞬間だった。
「だから、なるべく心を閉ざしていた方が……誰かとは距離を置いた方がいいって、かおる君は、そう思っているのかしら」
「ああ。相手のことを考えないように、接する機会そのものをなくせば、別れの痛みもなくなってくれる。これまで俺は、そう信じて生きてきた」
「分かったわ。かおる君の考えていることも、これまで抱えてきた気持ちも……」
冬木は静かに息を吐き出し、かおるの気持ちの全てを受け止めた。
彼の冷たい諦めの感情も、いま自分に別れの話を持ちかけたことも。
しかし、だからといって、冬木がそれを肯定するつもりは微塵もなかった。
「でも、それじゃあ寂しいでしょう? そんな寂しい生き方を、かおる君は、これからもずっと続けていくの?」
「それは……」
冬木の鋭い問いかけが、かおるの心の奥深くに響いた。
彼女の言葉は、否定できない。幾度となく両親が変わり、心が死んでいく中でも、確かに寂しさだけは感じていた。……誰かと共にいたい気持ちを、自分で封じ込めることの虚しさも。
「いや……だが、解決策は他にない。不必要な絆は、むしろお互いのためにならない。だとすれば、ここで冬木とも縁を絶った方が、俺たちのためになるだろう」
冬木は確かな自信をもって、首を横に振った。そして迷いのない決意を込めて、彼と視線を重ねた。
「うん……ありがとう、かおる君。あなたが感じている怖さも、不安も、全て理解したわ。……だからこそ、これからは、わたしが
「証明? いったい、何をどうするつもりだ?」
「簡単なことよ。――わたしと
予想だにしない冬木の提案に、かおるは言葉を失った。冬木はまた、いつもの調子で自分をからかっているのではないかと、そんな疑念さえ脳裏を過ぎる。
しかし、冬木が彼に送り続ける眼差しは、誠実で、決意に満ちていた。
そんな冬木の覚悟を決めた表情に、かおるはよりいっそうの動揺を覚える。
「ど……同棲、だと? しかし、それは些か、急な話のように思うのだが……」
「急でもなんでもないわ、よく考えてみて。わたしたち、ずっと同じ時間を共有していたのよ? それに、かおる君はわたしに《余計なこと》を教えてくれるって、約束してくれた。いままで別々で暮らしていた方が、不自然だと思わない?」
冬木の声には、いつもの凜とした響きが戻っていた。まるで迷いを振り払うかのような彼女の声音に、かおるの動揺も少しずつ和らいでいく
「確かに、俺は冬木と多くの時間を過ごしてきた。二人で余計なことをしようという約束も……だが、冬木と共に暮らすことは……」
「『だが』じゃないわ。かおる君の不安は分かる。わたしと仲良くなっても、また全てを失うかもしれないって。でも、そんな風に心を閉ざすことが、本当に正しいことだと言えるの?」
不安げに顔を上げたかおるの瞳には、まだ迷いの色が残っている。
それを見透かすように、冬木は彼の手をより強く握り締めた。
「もう逃がさない」――彼が望む温もりに、彼女は確かな決意を込めている。
「わたしは、かおる君の不安を打ち消してみせる。毎日傍にいて、ずっと離れない、どこかにいったりしないって、証明してあげる。だから……」
冬木は頬を淡く染めながらも、視線を高く保ち、彼への最後の一押しを口にする。
「だから、わたしと一緒に暮らしましょう。かおる君が心を閉ざさなくていい世界があるってことを、わたしが示してあげるから」
かおるの胸の奥で、これまで感じたことのない何かが、大きく揺れる。夕陽の日差しよりも熱く、温かな何かが、凍えていた心を少しずつ溶かしていくかのように。
そして、それがただの気のせいではないことを伝えるために、冬木はかおるの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「だから、わたしを信じて」
「……」
かおるは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
彼女の言葉を、本当に信じていいのだろうか。
かつていた両親たちのように、共に暮らすことで、いつか訪れるかもしれない別れは、より深い傷となってこの心を抉るかもしれない。
もしかしたら、彼女との別れがより深い悲しみに結びついてしまうかもしれない。
「分かった。……これからは、共に暮らしていこう、冬木」
それでもかおるは、彼女の気持ちに応えることを選んだ。たとえ、深い孤独を味わったとしても、本当にひとりで居続けたいわけではなかったから。
「俺は、冬木を信じみたいと思う。だから、これからもよろしく頼む、冬木」
その言葉を受け止めた瞬間、冬木の顔はひときわ明るく輝いた。
「ええ……ありがとう、かおる君」
「いや、感謝を言うのは、俺の方だろう。しかし……分からないことが、一つだけある。どうして、冬木はそこまで俺に……俺でなくとも、共に暮らせる者は……」
「いないって、知ってるはずでしょ? かおる君以外じゃ、だめ。あなたじゃないと……ううん、あなたがいいの。かおる君のおかげで、わたしも、明るく前を向けるようになったから」
「つまり……冬木は、恩を返すつもりで、同棲しようと言ったのか?」
そう問われた途端、冬木は言葉を詰まらせた。彼女は何かを訴えたい、切なげな視線を向けるが、鈍感なかおるには全く理解できないようだった。
「恩を返すことも、あったかもしれないわね。でも……いまは、それだけじゃないの。かおる君と一緒に暮らす理由は、他にもまだ……」
「難しいな。他には、どんな理由があるというんだ?」
「あら、分からないの? わたしは、もうとっくに分かっているのに」
「……いったい、何の話だ?」
「焦らなくても、いいの。かおる君は、心が少し枯れちゃってるから、直ぐに理解することは、難しいと思うわ。でも……いつか。いつかは、
「なるべく善処するが、もしも
「心配は無用よ。絶対に、このわたしが気付かせてみせるから」
「それは、お姫さまとしての責務か?」
「ええ、そうよ。だってわたしは、かおる君のお姫さまで、かおる君は……いつか、わたしの」
冬木が何かを口にしかけたその時、アナウンスが再び響く。
《まもなく展望デッキを閉鎖いたします。お客さまにおかれましては、速やかにご退出いただきますよう、お願い申し上げます。繰り返します――》
「さあ、帰りましょうか。これから、わたしたちのお家に」
「俺たちの家……ああ、なかなか悪くない響きだな」
差し出された手に、かおるはゆっくりと、しかし迷いなく自分の手を重ねた。
これから始まる新しい日々は、きっといままでとは違う色を持っているはず。
そんな淡い期待が、かおるの心に温かな光を灯していた。
二人で見上げた夕暮れの空には、新しい明日への希望が広がっているように見えた。
後書き:
ついに同棲生活が開始します!
甘々度が増したり、二人の駆け引きがさらに加速するかもしれません。
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