第22話 シンデレラと王子さまの初デート(3)
昼下がりの雑貨店巡りと食事を終えた二人は、三階のシネマコンプレックスへと足を運んだ。
休日の映画館は人々の熱気に包まれ、ポップコーンの香りが辺りに漂う。
「冬木は、どんな映画が観たい?」
かおるは巨大なスクリーンに映し出された上映スケジュールを確認する。
「えっと……」
一方で冬木の視線は、電光掲示板をさまよっていた。
選択肢は、四つ。
甘く切ない恋物語か、迫力満点のアクションか、幻想的なファンタジーか……それとも。
「このホラー映画は、随分と評判がいいみたいね。わたしが思うに、今日はホラー映画がいいんじゃないかしら。もちろん、かおる君が怖がらないなら、だけど」
「俺が、怖がる?」
かおるの無表情が僅かに緩み、その口角は興味深げにつり上がっていた。
「心配するなら、むしろ冬木の方じゃないのか?」
「ふん、甘く見ないでちょうだい。説明書きを見る限り、これは単なる恐怖映像の一種に過ぎないのでしょう? ホラー映画なんて、どうってことないわ」
「その発言が、現実通りに叶うといいが……ひとまず、チケットを取ってくる」
「待って。そ、その……席は?」
冬木は指先をもじもじとさせながら、その仕草には、いつもの毒舌お姫さまの面影はない。
ただ、初々しい少女の姿があるだけで。
「席? 取れる場所で、取ろうと思うが……」
「そうじゃなくって……だから、わたしと、かおる君の席は、どこにあるの?」
「中部座席の後方――冬木の席は、俺の隣だ。映画館に来たこともないと言っていたからな。冬木をひとりには、しておけない」
「ふ、ふんっ……そうよね。かおる君にとっても、そこはとてもいい席だと思うわ」
「何の話だ?」
「い、いいから、いまはチケットを取りに行きましょう。なんだか、人も多くなってきたみたいだし……」
冬木に背中を押されて、かおるは足早にチケット売り場へ。
上映開始まで、あと15分。
この映画館で過ごす時間が、二人にとってどんな思い出になるのか。それは誰にも分からない。
ただ、冬木の心に新たな期待が高まっていっていることだけは、確かだった。
薄暗いシアター内で、二人は指定された座席を探す。
休日とあって、若いカップルや家族連れで、ほぼ満席の状態。スクリーンには予告編が流れ、期待に胸を膨らませる観客たちの話し声が、小さな喧騒を作り出している。
「ここね」
通路側から数えて二席目。
冬木が先に座ると、かおるもその隣に腰を下ろす。アームレストを挟んだのみで、二人の距離は学校の席よりも確実に近い。
「冬木、緊張しているのか?」
もちろん、違う意味での緊張はあったが、冬木は首を振って平静を装っている。
「む、むしろ、かおる君の方が心配だわ。怖くなったら、いつでも言うのよ?」
「そんな瞬間があるのなら、俺は望んで見たみたいものだな。――さあ、そろそろ映画が始まる。上映中は、極力静かにしなければならない。怖くて仕方がない時以外は、慎んでしかるべきだろう」
やがて場内が暗転すると、待ちに待った本編が幕を開ける。
冬木は、強気な態度でホラー映画と向き合おうとしたが、オープニングの不気味な音楽に、思わず身を強張らせる。
(大丈夫、所詮はただの映像よ。だから、怖がることなんて……)
いくら自分に言い聞かせようと、画面の中の影が動くたびに、冬木の指先が震える。
物語は序盤、穏やかな日常のシーンから始まった。
しかしそれは、これから起こる恐怖を際立たせるための序章に過ぎない。場面の転換、突如として響き渡った落雷の音に、冬木は咄嗟に身を縮めた。
「無理をしなくていい。冬木に合わなかったのなら、途中で出るのも選択肢の一つだ」
「だ、大丈夫よ。まだまだ、これくらい……何だって、ことは……」
しかしその瞬間、スクリーンに身の毛もよだつ怪物が映し出される。
あまりに衝撃的なワンシーンだったのか、冬木の目尻には涙が浮かび、身体は絶えず震えている。――それでも、彼女の強い不安と緊張は、そのすぐ後に消失した。
「かおる君……」
暗闇の中、かおるの手は彼女の手と重なり合っていた。心配するなと言わんばかりに、彼は冬木の手を強く握りしめている。
「手と手を繋ぐと、緊張やストレスが緩和される。昔読んだ本には、確かにそのようなことが書かれていた。冬木が、不安を感じているのならと……そう考えたのだが、余計だったか?」
「ううん、全然余計なんかじゃないわ。確かに、気持ちが落ち着いたもの」
「なら、もう離してもよさそうだな」
「それはダメ。だって、わたし……まだ、怖いから。それに映画だって、まだ始まったばっかりだし……」
「分かった。映画が終わるまで、この状態を続けよう」
かおるの手に、冬木は恥ずかしさと安堵を同時に感じながら、そっと力を込める。
(かおる君の手、温かい……)
スクリーンの光が、二人の繋いだ手をかすかに照らし出す。
時間が進むと共に、画面の中ではさらに恐ろしい展開が続いていたが、冬木の意識はその隣に釘付けにされていた。
時折、かおるの指が安心させるように、彼女の手の甲を撫でる。
(なんで、いつもは鈍感なのに……いまだけは……)
上映時間も終盤に差し掛かり、最後の山場を迎える。
極限まで高められた緊張の中では、観客たちの誰もが息を潜めていた。
――そして、突如として閃いたフラッシュが場内を貫き、轟音が劇場内を支配する。
「……っ!」
気付けば、冬木はかおるの胸に顔を埋めていた。大きな音と、閃光のような演出が怖くて――彼女の顔は、最も安心できる場所に逃げ込んだ。
かすかに漂うシャンプーの香り。制服の柔軟剤の匂い。――そして、彼の鼓動。
暗闇の中、かおるだけが、怯える彼女に優しい眼差しを送り続けていた。
いつもの鈍感さは、そこにはない。
……二人の距離は、確実に縮まっていく。
スクリーンでは物語が最高潮を迎えていたが、もう二人の耳には、何も届いていなかった。かおるの吐息が、冬木の頬を優しく撫でる。冬木も、じっと見つめ返す。
まるで時間が止まったかのような錯覚が、二人を包んだその瞬間。
「……突然、どうしたのかしら。場内が、やけに騒がしいのだけれど……」
「無事に、エンディングを迎えたようだ。ホラー映画にしては珍しい、円満解決のハッピーエンドだな」
最後の衝撃的なシーンを迎えると、観客席たちから歓声が上がった。一人ひとりと席を立っていく中で、冬木は呆然と辺りを見渡している。
「さて、映画は終わったようだぞ。俺たちも、そろそろ席を立つか」
「ううん……まだ、もうちょっとだけ。ほら……エンドロールも、あるのよね」
「確かに、クレジットを眺めるのも一興か。最後まで、付き合おう」
冬木は頬を桜色に染めたまま、かおるは無表情のままスクリーンを見つめる。
しかし、二人の手だけは、まだ固く握り締められたまま。
スクリーンにエンドロールが流れ始めると、場内が徐々に明るくなっていく。
そこで二人の手は、ようやくそっと離れた。
しかし、自分たちの指先には、まだお互いの温度が鮮明に残っている。……そんな気がした。
「ねえ、かおる君。さっきの映画……怖くは、なかった?」
席を立ちながら、冬木は小さな声で訊ねる。
「ああ……なにしろ、映画どころじゃなかったからな。
観客たちが次々と席を離れ、出口へと消えていく中、二人だけがその場に留まっていた。
冬木は、まだその場から動けずにいる。
自分のためだけに、映画よりも、彼が自分を優先してくれたという事実。
そのかおるの言葉が、余韻のように冬木の胸の中に広がっていく。
「そ、そう……映画どころじゃ、なかったのね。でも……わたしも、かおる君と同じ。全然、映画どころじゃなかった。だって、映画の時間よりも……」
言葉の端に期待を滲ませながら、冬木はそこで顔を上げる。
明るくなった館内で、初めて互いの表情が鮮明に映し出された。
かおるの顔は、いつもの通りの無機質さを保っていたが、この時はどこか優し気に見えた。ほんの僅かに視線を細めて、口角を潰して、自分が怖くなかったことに安心しているような、そんな顔――。
「ま、まあいいわ。この時間も、楽しかったら。でも、えっと……そうね。かおる君、次はどこに行くの?」
「まだまだ、このモールには案内すべきところも多い。あと数時間は、見て回ることができるだろう。だが……時間的に、次が最後となりそうだな」
時計の針は現在、午後五時を過ぎている。
帰りの移動時間も考えると、デートの終わりまで、時間はもうない。
「屋上の、展望デッキはどうだ? この時間なら、夕陽が綺麗なはずだ」
「屋上からの景色……うん。それ、とってもいいと思うわ!」
「冬木のお眼鏡に適ったようで何よりだな。早速、お姫さまをエスコートしよう」
「ふふん。今日のかおる君は、随分と優しいのね。いつもは、もっと素っ気ないのに」
「冬木は、素っ気なさを求めているのか?」
「どうかしらね。でも、素っ気なさも、たまには変化をつけた方がいいわ」
「変化を、というと?」
「それは……さっきの、映画みたいに。ほら、いつも同じじゃ退屈でしょう? お姫さまだって、気分を変えたい時もあるの」
「ふむ……しかし、冬木はこのいまが退屈ではなさそうに見えるが?」
「あら、察しがいいのね。これも、映画のおかげかしら?」
「いや……あるいは、映画というより……」
「と、いうより?」
「いや、なんでもない」
「もう、そういうのはダメよ。このわたしに隠し事なんて、気になるじゃない」
「気になるのか?」
「……いつもより意地悪なのね、かおる君は」
「お互いさまだ」
二人は肩が触れそうな距離で歩き出す。
映画の余韻なのか、それとも別の感情なのか。
互いの手が、時折触れそうになる。
でもいまは、それを避けようとはしない。
さっきまでの温もりを、まだ指先に感じながら。
これから向かう場所で、また新しい思い出が作られるのかもしれない。
そんな期待を胸に、二人はエレベーターを上がっていった。
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