第21話 シンデレラと王子さまの初デート(2)
冬木とかおるが、バスから降り立った先の景色――桜ヶ丘ショッピングモールは、それ自体が一つの街のようだった。
吹き抜けの大通りを中心に、小さな路地が縦横に走り、店という店がひしめき合う。表通りには人の出入りが絶えず、休日の喧騒が街に命を吹き込んでいる。
1階は、このモールのメインストリート。
大型書店は図書館のような多彩な書物を備え、カフェやレストランは、歩き疲れた客人たちに憩いの場を提供する。ブランドショップやアクセサリー店は、この通りに華やかさと高級感を添えていた。
「こ、こんなにいるのね。多いとは、分かっていたのだけれど……」
いつにない人波に、冬木は緊張した面持ちを見せる。一方のかおるは無表情のまま、冬木を安心させるように彼女の一歩先を歩く。
「不安に思う必要はない。群集生態学でいえば、これは典型的な週末の個体密度だ。人口密度でいうと、一時的に東京ドームの3.2倍に匹敵する。単位面積あたりの毒舌量に換算すると、冬木一人で十分対抗できるだろう」
吹き抜けの大型アトリウムを歩みながら、かおるは冷静な分析を続けていく。しかし、最後の一言は余計だった。冬木は、今にも毒を含んだ言葉が零れ落ちそうな気配のまま、じっと視線を送り続けている。
「そうね。かおる君の理論武装も、いつもの3.2倍になっているみたいだわ」
「いや、それでは足りないだろう。冬木の緊張を和らげるためには、その10倍は欲しいところだ」
かおるは一度言葉を切り、冬木の周囲に注意深く目をこらした。それは、彼が冬木の進行に支障が無いかの懸念であり、先ほどの論的な皮肉も、実は冬木の緊張を紛らわすためのものに過ぎなかった。
その彼の気遣いが腑に落ちると、冬木の口角には豊かな笑みが浮かび上がる。
「ええ、今日はとてもすごい人だかりね……休日だとはいえ、ここまでの人混みができるなんて、思わなかったわ」
「基本的に、週末はこのような場所は大いに賑わう。それとも、冬木は人が多い場所は好みではないのか?」
「ええ、あまり好きとは言えないわね。だって、みんな、わたしの容姿とスタイルの良さに、夢中になってしまうんだもの」
「……冬木が言うと、自意識過剰ではなく、割と事実なのが恐ろしいな」
「そうよ。かおる君が、わたしの可憐な姿に釘付けになっているように、みんな、わたしに夢中になってしまうの」
「釘付けというほど、俺は冬木を見ていないなずだが」
「へえ……じゅあ、どうしてこんなにも目が合うのかしら?」
「それは……データが不足していて、結論が出ないだけだ」
「ふーん。いったい、何のデータ?」
「冬木の行動パターンだ」
「じゃあ、もっとわたしのこと、観察してみる?」
「……なるほど、検討の余地がある提案だな」
かおるが冬木に一瞥を向けたその瞬間、彼女のお腹から、哀愁漂う音が鳴った。
ぐうぅと、実に可愛らしい腹の虫の音だった。
「冬木、朝食は済ませてきたか?」
「そ、それは……だって、執事さまがいなかったから」
「確かに、今日までの食事の準備は、俺の役目だったな。栄養管理も俺の務めだ。この後のスケジュールを考えると、軽く何か口にしておいた方がいい」
「ふふっ、流石はかおる君ね。だいぶ、エスコートにも手慣れてきているじゃない」
「特別な教育係がいたからな」
かおるは近くのカフェに立ち寄り、明るい窓際の席に着いた。冬木は、その正面に腰掛け、テーブルを挟んで向かい合う。
「モーニング、スイーツ、果物ジュースに、コーヒーの種類も……すごい数ね、こんなにメニューが……」
「いくら冬木の胃袋でも、全ては制覇できないだろう」
「何も食べてなかったら、それもあり得るかもしれないわね。ところで、かおる君は注文しないの?」
「俺はドリンクで十分だ。朝食は取ってきている」
「でも……わたしだけ食べるのは、なんていうか、その」
「遠慮する必要はない。これは軽いブランチ程度のものだ。それに……」
かおるはこれまでに彼女に振る舞った手料理、そこで目にしてきた冬木の笑顔を思い返しながら呟く。
「美味しそうに食べる冬木の顔を見るのは、悪くない」
そのかおるの言葉に、冬木の唇から吐息が漏れた。
冬木の手は僅かに震え、ゆっくりとメニュー表が開かれる。その仕草には、どこか慌てている様子が透けて見えた。
「そ、そうね……ならお言葉に甘えて、頼んじゃいましょう」
冬木はメニュー表を顔の前で開いたまま、時折チラチラと上目遣いで、かおるの様子を確認している。明らかに恥じらいを隠す素振りだったが、かおるはまず戸惑いの念を彼女に向けた。
「メニュー表を独占されると、俺が見えないのだが……」
「で、でも、いまはダメ……これは、わたしに所有権があるの」
「まあ、俺は別に水でも構わない」
「えっとね、紅茶にコーヒー、レモンジュースやメロンソーダがあるわよ。しっ、仕方がないから、このわたしが読み上げてあげるわ」
「ふむ……その中だったら、紅茶で頼む」
注文を終えてから数分後、テーブルにはモーニングセットと、二人分の紅茶が運ばれた。
手作りブリオッシュのフレンチトースト、メープルシロップとホイップクリーム添え、季節のフルーツのデコレーション。サイドメニューはグリーンサラダにスクランブルエッグと、まさに朝の贅沢を詰め込んだような内容だった。
「流石、値段だけはあってかなり本格的だな」
「とても、美味しそうね……でも、かおる君は本当にいいのかしら?」
「構わないと言っている。この上質なアールグレイだけでも、十分に味覚を堪能できるからな」
冬木は何度目かのフレンチトーストを切り分けながら、時折かおるの様子を窺っていた。それは打算的で、彼との何かを狙っているかのような眼差し。
「……このフレンチトースト、
すると冬木は頃合いを見計らって、唐突にそんな言葉を口にした。
「食べきれそうにないか?」
「ええ、少し。でも、こんなに美味しいのに、残すのは勿体ないわ」
そして冬木は自分のフォークに一切れを乗せ、僅かに躊躇うように。
「かおる君も……少し、食べてみない?」
冬木は、緊張と喉の震えを押し殺してそう言った。
彼女のフォークの先には、一欠片のフレンチトーストが寂しげに乗っている。
「俺は朝食を取ってある。せっかくだが、遠慮しておこう」
「ううん、お願い。せっかくの美味しいものは、分け合うべきだと思うの」
流れるような仕草で、冬木は自分が使っていたフォークを、かおるに差し出す。
「執事さまにも、味見してもらわないと……ほら、アーン……なんて」
この時、冬木の顔色はいまにも火が出そうなほど赤く染まっていたのだが、幸いにもかおるの視線は、そのフォークにのみ向けられていた。
「俺は、離乳食を食べさられている男児か何かなのか?」
「もう……そんなに、食べたくない?」
「どちらかと言えば味わってみたい。だが、俺は人目を気にする方だ。学園でも、極力目立ずに過ごしているからな」
「そういえば、そうだったかしらね。まあ……これは、単なる冗談よ。このフォークを渡すから、自分で食べてみて?」
「了解した」
かおるは冬木から差し出されたフォークを受け取る。先ほどまで冬木が使っていた銀のフォークの持ち手部分は、いまに及んでかすかな温もりを帯びている。
「……」
かおるは、迷うことなくフレンチトーストを口に運んだ。彼が何事もなく一口を済ませていく一方で、冬木は手で顔を覆い、その指の隙間からかおるの様子を目撃していた。
(いま……わたしの、フォークで……)
冬木の頬から耳の先まで、じわりと熱が広がっていく。心臓の鼓動は、いままでに感じたことのないほど激しく強い。
それでも冬木は優雅に髪をかき上げ、紅茶を啜ることで、この動揺を隠そうとする。
「美味いな。確かに、これは……冬木、先の提案に感謝する。この甘美な一口を味わえたことで、俺のレシピにも、さらなる進化が期待できる。今度、同じようなものを作ってみよう」
いつも聞いているかおるの言葉も、いまは不思議なほど遠くに聞こえる。目の前で彼が何かを話しているのは分かるのに、その内容が頭に入ってこない。
ただ、先ほどまで自分が使っていたフォークが、かおるの口元に触れる様子だけが、異常なまでに鮮明に映っていた。
(お願いだから、落ち着いて……そうよ、いつも通りの表情を……)
冬木は紅茶を持つ手が、かすかに震えているのを感じた。普段の冷静さを装おうとしても、頬の熱は収まる気配がない。
視線を落としても、上げても、どこを見ていいのか分からない。結局、自然と彼の口元に目が向いてしまう。
「冬木、どうかしたのか?」
「え……っ? い、いいえ! な、なななっ、何でもないわっ!」
彼女は慌てて視線を逸らすものの、自然と声が上ずってしまう。
「ただ……その、美味しそうに食べてくれて、嬉しいだけよ」
そして冬木は、そんな上辺だけの言葉でこの場を取り繕うとした。
彼女は自分でも驚くほど、心臓が高鳴っているのを感じている。
いつもの冷静な自分は、とっくにどこかへ行ってしまったみたいで。
それでも冬木は、優雅なお嬢様らしく、カップを持つ手の震えを悟られないよう、慎重に食事を続けた。――そこには、彼がいま口に含んだフォークがあった。
「冬木、顔色が悪いようだが……本当に、大丈夫なのか?」
「だっ、大丈夫、平気よ。だ、だから……気にしないでちょうだい」
「そうか。ならいいんだが」
かおるは再び自分の紅茶を味わおうとしていたが、冬木は急いだようにブランチを食べ、立ち上がる。このまま彼の前にいたら、心臓が持たない気がしたのだ。
「さ、さあ……お会計を済ませたら、次の場所に行きましょう」
「やけに急いでいるな。まだ、時間には余裕があると思うが」
「い、いいの! ……ほら、お腹も満足したし、少し見て回りたいの」
「冬木がそう言うのなら、どこへでも付き合おう」
冬木は会計を済ませながら、胸の鼓動を抑えるように手を当てていた。
(もう、本当に……朝から、こんなことが起きるなんて……)
フレンチトーストのシェアを持ち出したかけたのは冬木自身だが、彼女は自分の心の変化に、ついていけてなかった。
時刻は10時45分。デートはまだまだこれからだというのに、いったい自分は、どうなってしまうんだろうと、そんな甘い期待さえ抱きつつある。
「冬木」
「ひゃ、ひゃいっ!?」
かおるが呼びかけると、冬木は小さな猫のようにびくんと跳ねた。
「いや、会計が済んだから、呼びかけただけなんだが……本当に、大丈夫か?」
「い、いまのはびっくりさせる、かおる君のせいだと思うのだけれど!」
「ふむ……今度から、肩を叩いてから声を掛けるか」
「心配は不要よ。ただ、いまだけはちょっと……ううん。ほら、そんなことより、次のお店に向かいましょう。あそこのお店には、可愛い雑貨がたくさんあるみたいね」
「雑貨選びか。確かに冬木の殺風景な家には、いくらか雑貨も必要だろう」
「わたしの執事さまなら、当然、わたしの趣味も把握しているのかしら?」
「さあ、どうだか。そもそも、冬木の家には、趣味らしい趣味も置かれていない」
「それじゃあ、一緒に探しに行きましょう。もしかしたら、かおる君がほしい物も、見つけられるかもしれないわね」
「そんなものがあれば面白いが、まあ、ゆっくり見て回るとするか」
二人はゆるりとモールの通りを歩む。冬木が皮肉を呟くと、かおるも彼女に冗談を混ぜ返す。そんな何気ない会話の中で、彼女の動揺は少しずつ和らいでいった。
ただ、カフェでの出来事を思い出すと、いまでも胸が高鳴る。そして、この後の展開にも大きな期待が。
しかし、冬木がこれからの展望に思いを寄せる一方で、かおるも普段にはない感情の変化を感じていた。
ブランチを食べているときの、冬木の幸せそうな笑顔。
そのワンシーンは、まだかおるの心の中で静かな余韻を残していた。
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