第19話 ブランコと夕陽と約束と。

「この髪型も悪くないけど……こっちの、サイドアレンジも気になるわね」


 冬木の長い金髪が、ページをめくる度に揺れている。どうやらいまは、髪型の選択で思い悩んでいるようだ。冬木が新しいページをめくると、彼女の指は迷うように、写真の上で静止した。


(デートか。まあ、それほど不思議なことではない、むしろ納得だ。冬木ほどの容姿を持っていれば、デートをする相手くらいいるだろう)


 冬木のデート事情を、かおるはまるで他人事のように考え、そっとこの場を離れようとする。

 しかしその時、冬木は手に持っている雑誌を閉じ、高い棚に陳列された新しい雑誌に手を伸ばそうとした。冬木の身長は平均程度あるが、棚の位置は、明らかに冬木の手の届く範囲を超えていた。


「……っ!」

 そうしてバランスを崩し、後ろに倒れかけた冬木だったが、彼女が不慮の事故に見舞われることはなかった。

「かおる君……」

 咄嗟に駆けつけた彼のおかげで、冬木の転倒は回避された。しかし、ある意味では彼女にとって、これは危機的状況でもあった。


「冬木、大丈夫か?」

「あ……う……っ」

 冬木を支えようと、かおるはその細い肩に手を掛け、彼女を抱き留めている。

 ふと視線を上げれば、そこにはかおるの顔があり、冬木はたちまちわなわなと唇を震わせ始めた。

 突然の距離に、身体の密着――かおるの手の感触や、胸板から、思った以上に筋肉質な身体つきをしていることが分かる。そんな良からぬ考えを巡らせると、冬木はいっそう顔色を紅潮させ、借りてきた猫のように押し黙った。


(熱でもあるのか? それにしては、妙な反応だな……)

 かおるからしても、冬木の様子は明らかに普段と違っていた。いつになく黙り込んでいる冬木の姿に、かおるは純粋な不安を覚える。


(やはり、どこか具合が悪いのだろうか)


 支えたままの姿勢で、かおるは冬木の体調を心配していた。彼女の赤い顔、震える唇、伏せがちな目線――全てを健康状態の異変として捉えている。

 それが決して体調の問題ではないこと、目の前で起きている感情の機微に、かおるはまったく気付いていなかった。


「冬木、本当に大丈夫なのか? どこか、身体を痛めているのか?」

「……っ!」

 かおるが顔色を覗き込もうとしたところで、冬木は限界を来したようだった。

 彼女はこんな顔を見られまいと、慌てて身体の向きを反転させて、かおるの胸に顔を埋めた。そしてぽかぽかと、切ない殴打が繰り返された。


 せめてもの抵抗、お姫さまとしての意地。

 次に顔を上げた時には、冬木は不満げな顔をすることで、何とか平静を取り繕っていた。……相変わらず、頬には赤みが残っていたが。


「ふ、ふーん。かおる君は……以外と、大胆な趣味を持っているのね」

 彼との距離を取った冬木は、自分の胸を手で押さえつけていた。ばくばくと激しい心臓の鼓動が、彼に聞かれていないかと、不安で仕方なかったのだ。


「大胆な趣味? 冬木を助けようとしたことが、大胆になるのか?」

「ええ、そうよ。だって、こんな……こんな助け方は、普通、あり得ないもの」

「普通の助け方というのが分からないが、俺は、できることをしたまでだ」

「じゃあ……じゃあ、かおる君は、他の女の子にも、同じことをするの?」

「生命の維持を脅かす重篤な場面に出くわしたのなら、そうせざるを得ないな」


 論理的な返答を受けて、冬木の瞳が寂しさを帯びていく。他の女の子にも同等の対応をすると、それが悔しくて、冬木の顔から先までの輝きが失われていく。


「そう、他の女の子にも、そうするのね。かおる君は……かおる君は、わたしの執事さまなのに――」

「だが、冬木は別だ」

 しかし、かおるのこの言葉は、冬木の心を一変させた。

「どのような場面であれ、冬木には怪我をしてもらっては困る。たとえそれが、軽い転倒であっても、俺は真っ先に冬木を助ける。俺は、冬木の執事だからな」


 冬木は「そう」とだけ呟き、指先で髪をくるくるといじり始めた。彼女は、意味ありげな視線をかおるに送るが、かおるは相変わらずの無理解を貫いていた。


 それでも、いまはいい。

 自分を真っ先に助けると、彼はそう言ってくれたのだから。


 冬木は、満足げな頷きを見せると、十冊を超える雑誌をまとめ始めた。顔色は一転して好転し、その口元にはいつものいたずらな笑みが浮かび上がっている。


「ありがとう……かおる君。それじゃあ、お会計をしてくるわね。かおる君は、買いたい本は、あった?」

「いいや、立ち読みで十分なものしかなかった」

「そう……だったら、まあ、いいわ。これを買ったら、お家に帰りましょう」


 夕焼けが街を染める頃、二人は書店を後にした。二人の間には、どこかいつもとは違う距離感が漂っている。

 冬木は購入した雑誌を胸に抱きしめ、かおるは一歩間を置いて、その背中を追う。


「あのね……かおる君。その……えっ、と……」

 しかし、冬木は突如として足を止め、かおるの方へと振り返った。

 彼女の視線は足元に向けられ、指先の動きも落ち着きを失っている。

「どうしたんだ? 雑誌の支払いで、貯蓄がなくなったとかいうわけか?」

「そんなわけないでしょう。わたしに限って、お金の心配があると思う?」

「では、夕食の話か?」

「その心配はあるのだけれど……違うの。いまは、もっと大切なこと」


 冬木は俯いたまま言葉を選んでいるが、かおるには彼女の言葉の裏側が見えない。


「俺に話せることなら、聞かせてほしい」

 冬木は何度も言葉を紡ごうとする。しかし、伝えたい言葉は形にならず、喉が震えて、声にならない。

 金曜の夕暮れ。明日からの休日を前に、あれだけのファッション誌を手に取った理由は、一つしかない。――しかし、相手はかおるだ。

 彼はただ頷くばかりで、冬木の心を読み解くことはできなかった。


「いま、話すことが難しいのなら、後ででもいい。帰り道にスーパーに寄っていくが、何か希望はあるか?」

「……そうね。この話は、食事の時にでも……献立は、かおる君に任せるわ」


 買い物を済ませた帰路の途中、冬木は街灯が灯り始めた公園の前で足を止めた。

「ねぇ、少し寄っていかない?」

 人影の消えた遊具の間で、冬木の声が静かに響く。かおるは「ああ」と相槌を打ち、公園に二人だけの影法師が長く伸びる。


 空のブランコに腰を下ろした冬木は、隣席を指し示した。「かおる君も、どう?」、しかしかおるは、「いや……俺は、ここでいい」と、彼女のそばで佇んだ。


「ねえ、かおる君。あなたとわたしは、出会ってまだ一週間も経っていないのに、随分と長い時間を過ごした気がするの」

「そうだな。冬木の存在は、俺にとって日常の一部のように感じる」

「あら……それは、わたしのそばが心地良いということかしら?」

「そうは言っていない。ただ、基本的には学校でも、放課後でも、ずっと一緒にいたからな。共有した時間の長さを考えれば、自然なことだ」

「――でも、明日からは休日・・なの。わたしたちの時間を……もっと共有するには、かおる君は、どうしたらいいと思う?」

「共有する時間、か……」


 腕を組んで思案するかおるの横で、冬木の横顔が夕陽に染まり、ブランコは静かに揺れ続けている。


「そうだな。これまで通り冬木の部屋の整理を続けよう。どうせ、服はまた散らかっているだろうし、掃除も終わっていない。やるべきことは見つかるはずだ」

「ううん……そうじゃないの。そうじゃ、なくってね……だから……」


 いつもの強気な話し方が消え、代わりに幼げな口調になった冬木には、明らかな焦りが見え隠れしていた。


「明日は、休日なの。かおる君は……そう。かおる君は、休日になると、どういう風に過ごしているの……かしら? わたしは、その……休日にしか、できないこともあると思うの」


 茜色の空を見上げていたかおるの視線が、ふと冬木の瞳を捉える。そこには普段の冷静さを失った、何かを訴えかけるような、切ない色が浮かんでいる。


「俺のやることは、普段も休日も変わらない。せいぜいが遅めに目覚めて、掃除をして、時々買い物に出る程度だ」

「お買い物? それは……ひとりで?」

「ああ。近所のスーパーだが」

 その瞬間、冬木がブランコから身を起こした。かおるの目の前に立つ彼女の姿に、二つの長い影が寄り添い合う。


「もっと……もっと、遠くでのお買い物は? 他にも、お買い物以外の場所へ……どこか、違う場所に行ったり……」

「そういえば、映画を見に行くこともあった。もう二年も前のことだが......確か、あの映画はタイトルは――」

映画・・って、なに? そこには、どんなことがあるの?」


 冬木はさらに一歩踏み込んで、かおるとの距離を縮めていく。

 彼女は、理解した上で言っている。この年にもなって、映画という言葉を知らないはずがない。それは、冬木自身が一番理解していた。

 しかしこの時ばかりは、自分の《非常識さ》を利用してでも、彼に迫る必要があった。

 願わくは、この言葉がからかわれませんにようにと。

 しかし冬木のそんな心配は、杞憂に過ぎなかった。


「ああ……そうか。冬木は映画が分からず、外の景色も見たことがないと」

「そうね。わたしの家庭のことは、知っているでしょう? だから、周りにはどんな物があるのか、わたしには分からないの」

「なら、あの呪いの言葉を乗り越えるため、《余計なこと》をしにいくか。場所は、市街地にいったショッピングモールでどうだ?」

「うん……それで、お願い!」


 冬木から、いつもの凜とした雰囲気が消え、同時に抑えきれない喜びに満ちた表情が広がった。彼女は両の手でかおるの手を包み込み、まるで子供のように飛び跳ねる。


「冬木?」

「えっ……あっ、うん……え、っと……」


 しかし、その仕草があまりに幼すぎると気付いた瞬間、冬木は慌てて咳払いをした。それでも彼女の口角には、なお豊かな笑みが浮かび上がっていた。


「それと……ごめんなさい。今日と明日は、少し一人の時間が欲しいの。夕食も、遠慮させて」

「分かった。食材は俺が預かって、冷凍保存しておこう。冷凍して、また今度にでも使えばいい。しかし……突然だな。なにか、予定でも入っていたのか?」

「ううん、入っていないわ。だから・・・、いま入れたの。出かけるのなら、色々と準備が必要だと思うから!」

「よく分からないが……了解した。待ち合わせは朝九時、場所は冬木の家の前で構わないか?」

「ええ、そうして。――じゃあ、また明日ね、かおる君!」


 彼女は言葉を残して駆け出し、公園を去っていく。

 彼女には、いったいどんな用事があったのか。なぜ、彼女があれほど浮き足立っていたのか。

 その全てが謎のままだが、かおるは心の中で、確かな変化を感じ取っていた。

 何か……いま冬木と交わした約束に、何か不思議なものを感じている。

 この感覚は、明後日への期待というものなのだろうか?


「感情は、既に枯れたと思っていたが……そうか。俺にも、何かを楽しみにする心はあったんだな」

 独り言を零しながら、かおるは古びたアパートへの帰路についた。

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