第18話 ただのお姫さまでは終わらないために。
「あら、何て顔をしているのかしら。かおる君は、いつも無愛想なのね」
かおるが校門をくぐった瞬間、冬木の声が凜として響いた。
彼女は口元に笑みを浮かべ、意味ありげな視線を向けている。今日の冬木からは、特別な余裕が見て取れた。それはやはり、先の授業の出来事が原因だろう。
『わたしはもう、あなたのことしか見えなくなっちゃってるのに、あなたは、わたしの英語も聞き取れないなんて』
鈍感な彼に、普段の想いを英語で言いたい放題言えた冬木は、胸が空いた気持ちなのだ。……もっとも、かおるのリスニング能力自体はまったく問題なく、全てを聞き取れていたのだが。
「無愛想とはいうが、これが俺なりの愛想だぞ」
「あら、それじゃあわたしへの無愛想は、かおる君の特別な感情表現ってこと?」
「それは分からないが……冬木の毒舌も、俺への愛情表現なのか?」
「
冬木は大げさに、彼の言葉を強調させた。勝利めいた笑みのまま、ふんと鼻を鳴らして、自信を持ち上げるように胸の下で両腕を組む。
「まあ、かおる君ったら。わたしの毒舌を、
「随分と、特殊な解釈だな。俺は、誰にも、何にも期待していないぞ」
「何にも期待していないのに、毎日わたしの家に来てくれるのは、どうして?」
「……それは、執事としての責務だろ」
「ふふっ、食事の時間まで? お掃除も、お買い物も?」
「お前一人だと、何もかもが
「あら……わたしのことが、
「いつもより、やけに舌が回るようだな。その毒舌も、職業病じゃないのか?」
「だって、わたしはシンデレラだもの。かおる君に毒を吐くのが、わたしの責務よ」
冬木は会話の主導権を握っている実感に、よほど満足しているのだろう。
かおるの反応を探るように、あらゆる角度から彼の顔を覗き込んでいる。にまにまと優越感に浸るように、そして
「My sweet valet(わたしの、可愛い執事さま)」
またしても、冬木は危うい挑発を仕掛けた。
しかし、返答のないかおるの様子に、冬木の顔色はよりいっそう輝きを増す。口角が自然に上がり、普段の冷たさが消え失せた目元には、純粋な幸福感のみが満ち溢れていた。
「……」
一方で、かおるは無言のまま、ただただ思考を巡らせていた。
彼には、冬木のネイティブな英語が完璧に理解できていた。この場合のsweetが、「可愛い」を意味することも、Valetが「執事」を意味することも。
普通の高校生であれば、彼女の流暢な発音を、正確に聞き取ることはできないだろう。
かおるの優れた英語理解力は、彼の複雑な家庭環境が起因していた。
(このネイティブな英語は……懐かしいな。確か、昔……二人目だか、三人目だかの父さんの時が、そうだっけ。何人かいた父さんの一人が、こんな英語を話していたな……)
冬木の英語を耳にする度に、かおるはその過去を思い返していた。
幼い頃、三年ほど共に暮らしていた父は、流暢な英語を話す人だった。金髪に青い瞳と、言語の流暢さも考えると、生粋のアメリカ人だったのだろう。
その時の父とは、関係が良好だったこともあって、英語を教えてもらう機会も多かった。その時期に培われた言語感覚が、かおるのリスニング・英語理解力を、遥かに高めていたのである。
「ふふっ……かおる君の弱点は、英語ね。英語になると、まったく言い返してこないじゃない」
冬木は大きく胸を張って、勝利宣言に出た。
実際のところは、読みは完全に外れていたのだが。
「まあ……
「ふぅーん、最後まで強がるのね。今日は、そういうことにしておいてあげるわ」
「そうだな、今日はそういうことにしておこう」
「待って、その余裕な態度……もしかして、何か隠してることが、あるのかしら?」
「いいや、隠すほどのことじゃないさ。この前の食事の時に、話すべきことは話したからな」
「なら、やっぱり英語は苦手なのね。今度、わたしが英文の添削でもしてあげようかしら。ほら、宿題で出されたでしょう? かおる君が赤点になったら、大変だもの」
「確かに、冬木は英語だと
「へえ……このわたしが、
「是非とも、お手柔らかに頼みたいものだな」
今日は冬木が彼の一歩前を行き、時折振り返っては、唇の端を柔らかく崩す。
少し寄り道していくようで、冬木はいつもとは違う方向に進んでいく。冬木からの説明はないが、かおるは静かに彼女の後を歩いていた。
「ところで、今日はどこにいくつもりなんだ?」
「本屋さんよ。いくつか、買っておきたいものがあるの」
「本屋なら、駅前と商店街にあったはずだが、冬木はどっちがいい?」
「あら、詳しいのね。……もしかして、よく行くの?」
「まあな。暇つぶしになりそうな本を、いくつか。今日は、料理の参考書でも買うのか? それとも、掃除の秘伝書か?」
「面白いことを言うのね、かおる君。でも残念。あくまでも、
「冬木に必要なもの? ……なおさら、料理と掃除の本が必要じゃないか?」
「かおる君は、英語の参考書が必要でしょうね。それとも、似つかない恋愛小説?」
「恋愛小説は遠慮しておこう。現実の、毒舌お姫さまで手一杯だ」
振り返った冬木の表情が、戸惑いに揺れる。彼女はかおると視線が合った瞬間に、頬を僅かに赤く染め、にやけそうになった口元を咄嗟に隠した。
「えっと……ねえ、かおる君。いま、わたしのことを、恋愛小説の登場人物扱いしたけど……それは、かおる君が、わたしをそう見ているから?」
「実際、冬木はそれに相応しいルックスを持っているだろ。家庭内環境はともかくとして、家柄にも優れ、気品もある」
かおるは淡々と言いながら、最後に残念な自己分析を付け加えた。
「何の特徴もない俺は、全くそうではないけどな」
「わたしは、そうは思わないけど……相変わらず、かおる君の考えていることは、分からないわね。執事の心得が、載っている本でも買おうかしら。もしくは、それをかおる君にプレゼントするべき?」
「遠慮しておくよ。現場で鍛えられてる方が、よほど身になる」
「だったら、特訓の時間を増やしてあげないといけないわね。もっと、もっと、かおる君を鍛えてあげる」
「なるほど、この状況こそが執事の心得か」
「執事は、お姫さまの尻に敷かれるものよ。……そう、いまのかおる君みたいにね」
本屋の自動ドアが開くと、紙の香りと冷たい空気が、二人を迎え入れる。
かおるは冬木の後ろ姿を目で追いながら、ゆっくりと後に続いた。週末の本屋は、制服姿の生徒たちが溢れている。
「それじゃあ、ここで一度別れましょう。ちょっと探している本があるから、後で合流できるかしら?」
「ああ、俺はこの辺りにいる。用事が済んだら戻ってきてくれ」
かおるは哲学書コーナーに立ち、無表情のまま背表紙を眺めていく。
ニーチェ、カント、ハイデガー……。
週末の賑わいの中、本を手に取る学生たちに混じって、かおるだけが静かに佇んでいた。しかし、その佇まいは周囲を遠ざけるものではなく、ただ自然と溶け込んでいた。
「――しばらく、経ったと思うが……冬木は、まだ本を選んでいるんだろうか」
かおるは読んでいた哲学書を閉じ、冬木との合流に舵を切った。
空が暮れかかる頃になっても、彼女はまだ姿を見せていない。二時間、三時間と、本の選定に難儀しているようだ。
あるいは、何か良くないことが起きているのではないかと、かおるは足早に冬木の捜索に乗り出す。
――結果として、彼女が不測の事態に陥っていることはなかった。
女性向けのファッション雑誌が展開されているコーナーで、冬木は見つかった。彼女は流行の服装や髪型の特集が並ぶページを、黙々とめくり続けている。
その横顔は、普段の冬木からは想像できないものだった。鋭い知性も、冷たい視線も、いまは消え失せ、純粋な興味だけがそこにあった。
彼女がいま開いているページは……『初めてのデートで、彼に好印象を与えるヘアアレンジ』。
夢中になってファッション誌を読みふける冬木の姿に、かおるは声をかける機会を失っていた。
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