第16話 声にならない言葉で。


 金曜の朝五時。学生が起きるにはまだ早すぎる時間に、かおるは目を覚ました。


「ここは……ああ、そうか。俺は、昨日……」

 純白のベッドリネンが視界に広がり、隣では冬木が寝息を立てている。

 そうだった。昨日、自分は冬木と一緒に眠りについたんだった。

 寝ぼけ眼をこすりながら、かおるは体を起こそうとする。

 しかしその時、かおるの左腕に違和感が走った。――冬木だ。どうやら彼女はずっとあのまま、自分の腕を抱きまくらにして寝ていたらしい。


「かおる、君……」

 どんな夢を見ているのか、冬木は至福な表情を浮かべたまま、口の端からヨダレを垂らしていた。

 どうせまた、食い意地の張った夢でも見ているのだろう。

 いち早く作業に取りかかるため、かおるは彼女の腕から抜け出そうとする。

「やだ……かおる、君……もう、ちょっと……」

 しかし、冬木の囁くような寝言に、かおるの動きが思わず止まる。


「……」

 かおるは彼女の髪に触れようとして手を伸ばそうとしたが、なぜそうしようと思ったのかが分からず、自分の右手を見つめていた。

 自分は冬木の頭に触れて、何をしようとしていのだろう。

 その意味を探ることもなく、かおるは静かに身を起こした。冬木の体を毛布で包み直し、音を立てないように部屋を出る。


 洗面台に向かうかおるの頭の中では、既に朝のスケジュールが組まれていた。

 教科書とノートの準備、予習と復習、課題、お弁当の用意。そして今日は、桜ヶ丘のお姫さまに相応しい朝食を用意する必要も加わった。


「やれやれ……俺の用事もあることだ、手早く済ませよう」

 かおるは昨日、スーパーで買っておいた食品で、朝食作りに取りかかった。

 献立は、半熟状態に仕上げたオムレツ、コンソメベースの野菜スープ、じゃがいものバター炒め、金麦食パン。

 朝食を作り終えると、かおるはテーブルに書き置きを残した。

 それぞれの料理に最適な温め方、正確な時間設定、エスプレッソの抽出手順。

 最後に選り抜いた紅茶のティーバッグをカップに添えると、いつでも温めて食べられる、優雅な朝食セットが完成した。


 この時点で、時刻は五時三十分。

 冬木が起き上がってくるには、まだ早い。


 そう思いつつも、かおるは再び冬木の部屋へと足を向けた。静かに眠る彼女の姿を確かめると、そっとドアを閉め、家を後にする。

 ……どうして、わざわざ彼女の寝顔を確認しに戻ったのかは、自分でも説明がつかない。

 それでも冬木の幸せそうな寝顔を見た瞬間、朝早くから費やした労力も報われたように感じられた。



「――おはよう、かおる君。今朝はありがとう、わたしのお腹も、あなたの働きぶりには、とても満足しているわ」


 一足先に到着した教室で待っていると、少し遅れて、冬木が姿を見せた。

 しかし、制服姿の冬木は、先のネグリジェ姿の彼女とはまるで別人だ。体積と外見の不一致、《着痩せ》という現象の存在に、かおるはようやく理解を得ていた。


「アルキメデスの原理を応用すれば……なるほど、こうもなるわけか」

「え、なに? かおる君……それは、何を表す原理なの?」

「いや、こっちの話だ。たまには頭の運動をするのも、悪くないと思ってな」


 どこか意味ありげな言葉だったが、冬木はこれを気に留めなかった。

 というのも、彼女の関心は、紛れもなく昨晩の出来事について集中していた。


「ところで、かおる君。その……昨日は、よく眠れたかしら」

「ああ、とてもよく眠れた。ベッドのマットレスや布団の質感が、俺の家とは全く違っていたからな。あのベッドなら、たとえ不眠症でも三十秒で眠れるだろう」

「生地や素材以外で、寝心地・・・のよかったところはなかった? たとえば……そうね。ほんの少し、温かく感じた……心が落ち着いた、とか……」


 冬木は恥じらうように声を落とし、指先をもじもじとさせている。


「ベッドの中なら、温かいのは当然じゃないのか?」

「そうじゃないの。温かいっていうのは、単なる温度のことじゃなくて……」

「体感温度も、いつもと変わりはなかった。いや……布団の断熱性を考えれば、多少は温かかったかもしれない。しかし、そうだな……」


 冬木と同じベッドに入っていたあの時間、あの瞬間だけは、いつもの空虚さが一切感じられなかった。

 冬木が隣で寝息を立て、時には寝言をもらしながら、自分の腕を抱き枕にする。

 状況だけを考えれば、こんな状態で寝付きがいいはずもない。にもかかわらず、かおるは昨夜の時間において、不思議な心地よさを感じていた。


「上手く言い表す言葉が、浮かばない。その上で、あえて冬木と過ごした感想を言うと、《特別》だった……ような気がした」

「特別……」


 彼に返す言葉が見つからず、冬木は無意識に髪に手を伸ばした。

 細い指先で髪先をいじりながら、普段通りの表情を保とうとしている。しかし、わずかに赤く染まる頬と、隠し切れない指の震えが、内心の高ぶりを物語っている。


「ん……冬木、急に黙り込んでどうしたんだ?」


 彼女は言葉の代わりに、制服のスカートを握りしめていた。

 嬉しさを抑え込むように、生地にひだが寄せられる。にもかかわらず、どこか幸福感に満ちた表情が、凛とした表情の隙間から溢れ出ている。


「な、なんでもないわっ。……それよりも、かおる君がそう思うのは、わたし自体が特別だからよ。わたしの隣にいると、特別な空間に感じるのかもしれないわね」


 その強気な口調が冬木らしくて、かおるの口元に軽妙な笑みが浮かび上がった。


「冬木の隣が特別なら、この俺の席も、特別仕様になっているのか?」

「当然でしょう。わたしの隣は、一番の特等席なんだから」

「しかし、この特等席は、困ったものだな。少し油断すると、直ぐに毒が飛んでくる」

「今朝、わたしの朝食を作ってくれたでしょう? この毒舌は、そのお礼よ」

「なるほど。朝食のお礼代わりか。……それじゃあ、昨日の晩御飯分の毒は?」

「あら、ちゃんと計算しているのね。特別に、明日の分まで先払いしようかしら?」

「なるほど。内のお姫さまは、とてもやっかいな趣味をお持ちのようだ」

内のお姫さま・・・・・? ……ふぅーん。かおる君は、まるでわたしを、自分の物のように言うのね?」

「別に、そういう意味じゃない。俺以外だと始末に終えないという、監督責任だ」

「もしかして、他の人に取られないようにと、妬いているのかしら? ……わたしの執事さま・・・・・・・・ったら、独占欲が強いのね」

わたしの執事さま・・・・・・・・、か。俺は、冬木の所有物になったつもりはないぞ」

「この世界には、わたし以外のお姫さまはいないの。かおる君だって、あなた以外の執事はどこにもいない。必然的に、釣り合った関係が成り立っているとは思わない?」

「まあ、仮にいたとしても、俺以外だと冬木の非常識っぷりに、耐えられないだろうな」

「ふふっ、相変わらず素直じゃないわね。でも……そこも、かおる君らしいと思うわ」

「俺らしいとは、どういう意味なんだ?」

「さあ、どういう意味なのかしらね」


 朝の教室は、二人だけの空間であり、かおると冬木の声だけが、柔らかに響き合っている。

 しかし、クラスメイトが集まり始めると、その特別な時間は終わりを迎えた。かおると冬木は、接点のない他人のように演じきる。


 授業中も、廊下の行き交いも、言葉を交わすことはない。

 だが、冬木は時折、かおるの横顔をじっと見つめることがある。

 小さな唇を動かし、声にならない言葉を紡ぐ。かおるはその口の動きを追おうとするが、彼女が隠した言葉を全て辿り切るのは、難しい。


「……」

 一つは分かった。五文字という特徴的な口の動きから、《かおる君》だろう。

 しかし、他の言葉がまるで分からない。二文字と、四文字……どちらも、先に《かおる君》と付けているが、冬木はどんなことを訴えているのだろうか。


 そうして、怪訝そうな表情を浮かべるかおるに、冬木は勝利の微笑みを浮かべてみせる。今回の口パク勝負は、冬木に軍配が上がったようだった。


 ――しかし、そうしたいたずらも、一日に数回だけと冬木は決めている。あくまでも、自分とかおるは接点のない人間のように装い、周囲の目を欺かなければならない。

 と、極力校内では彼との距離を保つようにしていたのだが、二人は隣同士の席だ。

 授業をこなしていく上で、必然的に、関わりは生じてしまう。

 五時間目の、英語のペアワーク。冬木とかおるは向かい合って座り、しばしの間、英語のみで会話しなければならない。

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