第15話 左腕の重み。

 翌日の学校のことは、かおるが早起きをして準備することで解決の目途が立った。


 しかし、本当の問題はまた別のところにある。

 冬木の家には、ベッドが一つしか置かれていない。代わりの寝床となる場所もない中で、二人はどうようにして、今日の夜を過ごすのか。

 必然的に、解決策は一つしか存在しなかったのである。


「――冬木、入るぞ」


 二度のノックの後、かおるは彼女の部屋に踏み入った。

 扉が開くと同時に、フローラルな甘やかな香りが、かおるの鼻孔をくすぐった。

 天井のLEDライトが明るく照らす室内には、寝間着に下着類、教科書に、開封したばかりのアロマディフューザーが散乱している。


 彼女の部屋に入るのは、これで二度目だ。相変わらず、女の子らしい部屋とは呼べない散らかり具合だったが、むしろこれこそが、冬木らしさを表していた。


「冬木、また部屋を散らかしたのか?」

 白く清潔なシーツと、毛布が敷かれたベッドの上で、冬木はかおるを見つめていた。

「ええ……だって、ここがわたしのお城だもの。この散らかった部屋も、かおる君へのプレゼントよ。ほら……退屈させないようにって」


 強がるような言葉とは裏腹に、冬木の頬は桜色に染まっていた。その恥じらいは、冬木がいま身に着けている、寝間着の意識からだろう。


 冬木が就寝の部屋着として選んだのは、ネグリジェというキャミソールパジャマ。

 薄い絹のような生地が、冬木の体の線を忠実に描き出している。

 すらりとした腰から、なだらかに伸びる手足の線が、しなやかな線を描いている。デコルテ部分ははだけているが、そこに谷間は一切なく、極めて清楚な印象だ。

 鎖骨までを見ると、貧相な体付きという印象が強い。しかし、その先では徐々に起伏が険しさを増し、メリハリの強いスタイルであることが分かる。


 制服姿、体操服姿、ワンピース姿、そしてこのネグリジェ姿。

 これまでにもいくつかの冬木を見てきたかおるは、服装一つでここまで体型が変わって見えることに、静かな驚きを覚えていた。


「寝間着がそれで、寒くはないのか?」

 しかし、かおるの視線は決して彼女の曲線美に留まることはない。

 まっすぐに向けられた眼差しは、ただ衣服という物体そのものに注がれ、冬木が普段は隠している胸にも、よこしまな思いを抱くことはなかった。


「確かに、夜は少し肌寒いかもしれないわね。……でも、これでいいの。今夜は、いつもより・・・・・温かくなりそう・・・・・・・だから」

「そうか? あくまでも天気予報では、そこまでの気温は……」

「ふふっ……まだまだね、かおる君。あなたにも、予測できないことがあるみたい」

「冬木の部屋が、たった一日でゴミ屋敷に戻った話のことか?」

「それもあるかもしれないわね。どうして、また物が散乱しちゃっているのか。これを、かおる君への宿題としましょう」

「どうせ、散らかしたい気分だっただけだろ」

「ええ、ちょうどその気分だったの。問題は……どうして散らかしたくなったのか、だと思うのだけれど」


 冬木がライトのリモコンを手に取ると、照明は温かみのある豆電球モードへと替わった。

 彼女はベッドの中へと潜り込み、「あなたも来なさい」と言いたげな眼差しで、かおるを見つめた。


 冬木のベッドは、二人が横になっても問題ない広さを誇っている。他の寝床もない以上、かおるの選択肢は残されていない。


「ここは、冬木の厚意にあやからせてもらうか……」

 かおるがベッドの中に入ると、冬木の仕草は途端に落ち着きのなさが増した。

 ベッドの中にいるのに、髪を整え、視線をさまよわせ、着衣を整える。

 その一連の動作には、彼女の小さくない緊張感が見え隠れしていた。


「寝ないのか?」

 しかし、そんなかおるのデリカシーのない一言で、冬木の機嫌が悪化した。

 彼女はかおるの方へと寝返りを打つと、不満気な口先でこうなじった。


「かおる君は、この状況を、なんとも思っていないのかしら?」

「そうだな……このベッドの質は確かに良い。シーツの感触も、程よい弾力も、体に沿う寝心地も申し分ない。正直に言えば、こんなベッドが欲しくなるほどだ」


「違うの。そうじゃなくて……かおる君はいま、《桜ヶ丘のシンデレラ》と、同じベッドに入っているの。なにか、こう……普段とは違う何かを、感じないのかしら」

「難しい質問だな。確かに、クラスの男子たちなら羨望の眼差しを向けるだろう。だが、普段とは違う何かというのが、俺には分からない。ただ……強いて言えば、心が落ち着く。それがなぜなのかは、説明できない」


 その答えで十分だったのか、冬木は「そう……」と静かに言葉を落とした。


「冬木……?」

「ううん、何でもないの。ただ、ちょっと安心しただけ」

「まあ……安心したのなら、良かったが……」

「こうして心がほっとするのは、いつもより、温かいこともあるのでしょうね」

「体感温度は、変わらないはずだが……いや、そうだな。このベッドの中は、確かに温かい気はする」

「かおる君も、そう思うのね。……ううん。わたし、だって……ね、その……」

「冬木、顔色が赤い気がするが、本当に大丈夫なのか?」

「ええ、問題ないわ。だから……おやすみなさい、かおる君」

「ああ、おやすみ」


 ――それからの言葉はなく、二人はこの静けさに身を委ねた。

 かおるは天井を見上げたまま、冬木は彼の方を向いて横たわっている。


 先に眠りに就いたのは、冬木だった。

 彼女は、むにゃむにゃと幼げな寝言を立てている。時折、「かおる君」と呼ぶような言葉が聞こえ、かおるもその声に誘われるように、意識を落とそうとする。


 ……が、意識が眠りへと溶けていく直前で、かおるは目を覚ました。

 冬木は抱き枕を求めるような仕草で、かおるの腕に絡みついているのだ。


「おい……何をしている、冬木?」

 声をかけても返事はなく、肩を揺らしても反応がない。


 やれやれ、とんだお姫さまだ。仕方のない話だが、このまま眠るしかないだろう。

 そう諦めを付けたかおるだったが、左腕から伝わる柔らかな感触が、かおるの意識を強く引き止めた。


 ネグリジェ越しでも十分に伝わる、冬木だけが持つ圧倒的な弾力感。

 普段の控えめな印象からは想像もつかない豊かさに、普通の男子なら、興奮で目が冴えてしまうことだろう。


 しかしかおるにとって、この偶然の接触は全く異なる意味を持っていた。

 むしろ彼は、この紛れもない感触こそに、ある疑問を抱いていた。


「理解できない。普段の姿からは想像もできないほど、着る物で印象が変わる。そしてこの感触は、物理法則の冒涜に等しい……早急に、解明が必要な現象だ」


 この感触が、あの着痩せが本物であったことを証明するため、かおるは冬木の胸に科学的なアプローチを試みる。 

 まず必要なのは、正確な体積だ。数字を使う人間は嘘をつくが、数字自体は嘘をつかない。冬木の胸の謎を科学的に証明するには、精密な体積計算が必要不可欠である。


「――いや、待てよ……これだと形状が違う。むしろ放物線を回転させた……いや、双曲線か? アルキメデスの原理を応用すれば、より正確な数値が……」

 そこまで考え出してから、かおるは唐突に我に返った。

「……俺はいったい、何をやっているんだ?」

 いま優先すべきは、明日に備えて眠ること。いつもより早起きしなくてはならないのに、どうして真夜中に、胸の体積なんかを求めているのか。


 かおるは自嘲気味に溜息をつき、頭の中で乱立させていた方程式の数々を強制終了させた。

 左腕には、相変わらず冬木が絡みついていたが、それも構わず、かおるは眠りに落ちた。



――――――

後書き:

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