第14話 シンデレラと22時の約束。

 入浴を済ませたかおるは、冬木の制服と下着の洗濯に取り掛かった。最新のドラム式洗濯機があれば、乾燥の手間もかからない。


「乾かした服は、いつものクローゼットに入れておいたぞ。できれば、シャツとブラウス、ブレザーやジャケットは、ハンガーにかけておいた方がいい。シワや型崩れを防ぐからな」


 リビングの椅子に座っている冬木は、寝間着姿に変わっていた。彼女はいま、一枚で着るワンピース型の部屋着を着ている。色は白、丈は膝下まで。

 いつもは見られないすらりと伸びた素足、そしてほんの少しだけ突出したスタイルの線が、制服姿の時よりも鮮明になっている。

 しかしかおるは、そんな彼女の体型を熟視することもなく、相変わらず涼しい顔のまま呼びかけた。


「分かったわ、ありがとうかおる君。でもね……えっと、ハンガー? それってなんだか、美味しそうな名前に聞こえるわね」

「夕食は、さっき食べただろ。もしかして、もう腹が空いたのか?」

「もう、失礼ね」

 冬木は抗議するように頬を膨らませる。

「わたしは、そんなに食い意地が張っているわけじゃないわ。ただ……その名前が、お肉をパンで挟んだ食べ物に、似ていただけよ」

 かおるは呆れたように首を振った。


「服を掛けるものと、食べ物を一緒にするなよ」

「誤解しないで、あくまでもわたしは、名前の話をしているだけなの」

「ああ、名前の話か。てっきり、明日の夕食のリクエストかと思ったぞ」

「まあ、随分と意地悪な解釈ね。……ちなみに、作ってはくれるのかしら?」

「念のため聞いておくが、ハンバーガーで、合っているか?」

「あら、見事に的中させるなんて、すごいわね。それとも、かおる君はわたしの心の中まで、読めるようになったの?」

「読めていたら、玄関であんな出来事になっていないさ」

「……」


 冬木は、目と頬と口先で、彼の失言を糾弾した。その表情があまりに見ていられず、かおるは気まずそうに視線を逸らした。


「分かった。いまのは、俺が悪かった」

「ええ、よく反省してちょうだい。でも……まあ、気にしていないわ。むしろ、かおる君にわたしが《小さい》という誤解を解けて、安心しているもの」

「着痩せする分にはいいが、あまり大きいと大変だな。着用している衣類の数も、かなり多いように見受けられたが……」

「あれでも、まだいい方よ。日によっては、さらに大きなもの・・・・・・・・を着ける時もあるから」

「……冗談だよな?」

「さあ、どうなのかしらね。かおる君も、女の子の胸のことは、気になるの?」

「あくまでも、生物学的な観点からな」

「言わなくても、分かっているわ。ふふっ……本当に、不思議な人ね、かおる君は」


 新しいテレビの青白い光が、静かな空間に溶け込んでいく。二人は、テーブルに腰掛けながら、その画面を漫然と眺めている。テレビは静寂を埋めるためのBGMに過ぎなくて、二人はお互いの声だけに、意識を向けている。


 時計の針は、二二時を指している。明日の学校のことを考えれば、もう席を立つべき時間だろう。


「そろそろ、帰らないとな。明日の支度もあるし、いつまでも居座るわけにもいかない。冬木も、予習はまだのはずだろ?」

「ええ……確かに、やることは山積みよ。でもね……その、えっと……」


 冬木の細い指が、かおるの袖に掛けられる。言葉を探すように、その瞳は揺れていた。

 その仕草に込められた冬木の想いを、かおるは理解できないでいる。

 それでも、なぜか胸が高鳴り、彼女の次の言葉を待ち望んでしまう自分がいる。


 この間も時間は過ぎ、自分のやるべきことも残されたままだ。なのに、こうして言葉を詰まらせる冬木の顔を一目にすると、他の全てのことが、途端にどうでもよく思えてしまう。


「冬木は、何に悩んでいるんだ? 夜食が食べたいとか、そういう話か?」

「それも、素敵な提案なのだけれど……今回は、まったく違う話よ」

「掃除が、まだ済んでいないとか?」

「いいえ」

「洗濯のやり方を、教えてほしいとか?」

「それも違うわ」

「だったら、他にどんな用があるんだ?」


 冬木は覚悟を決めたように顔を上げ、震えた唇のまま言葉を紡いだ。


「あのね、かおる君……その……今夜は、うちに泊まっていかない?」

 突然の言葉に、かおるはしばし、思考の整理がつかなかった。

 俺が……どうして、なぜ、冬木の家に泊まる必要が?

 冬木の家に泊まるとしても、明日の用意は、課題は、予習は、教科書は……。

 だが、脳裏に過ったそれらの疑問は、次々と霧散していく。最後にかおるの胸に残ったのは、ただひとつの素直な感情。


 冬木の家に、泊まってみたい。いや……彼女と同じ空間に、まだいたいと。


「色々と、疑問はあるし、やるべきことも残されている。明日の準備も……教科書だって、家に置きっぱなしだ。――それでも、冬木の願いは、俺にしか叶えられないものなんだよな?」


 その言葉に込められた真意を確かめるように、かおるが視線を送ると、冬木もまっすぐに見つめ返してきた。

 彼女の頬は赤く染まり、瞳には切ないほどの想いが滲んでいる。しかし、その眼差しを決して逸らすことなく、むしろ強さを込めて言葉を紡いだ。


「ええ……これは間違いなく、かおる君だけに・・・・・・お願いできることなの」

「そうか」

 かおるは小さく頷き、思考を整理するように瞼を閉じる。

 冬木が考えていることは、分からない。彼女の言葉の意図も、自分への期待も。


 それでも、冬木の瞳に宿る切なさだけは、紛れもなくかおるに向けられていた。この広いペントハウスで、今夜も一人になることを拒むように。

 いつもの毒を含んだ言葉も、意地悪な微笑みも、いまは影も形も見当たらない。

 目の前にいるのは、ただ誰かの温もりを求める、儚げな少女の姿だけだった。


「分かった」

 その言葉は、論理的な思考の結論というより、心が自然と導き出した答えだったのかもしれない。

「今晩は、世話になる。だから、まあ……よろしく頼む、冬木」


 その言葉を聞いた瞬間、冬木の肩が小さく震えた。

 彼女は何度も唇を開きかけては閉じ、言葉を探し続ける。丸い瞳が潤みを帯び、長い睫毛が幾度となく瞬きを繰り返す。いつもの強がった態度は見る影もなく、代わりに純粋な喜びだけが、その仕草の節々に溢れ出ている。


 高鳴る鼓動が自らの言葉の邪魔をして、思いは未だ喉元で詰まったまま。

 それでも冬木は、懸命にいつもの冷静さを装って、こう返したのだった。


「当然の結論ね。執事さまが、こんな夜更けにお姫さまを独りぼっちになんて、あり得ないもの。――このお泊まりも、わたしたちの《余計なこと》にしましょう、かおる君」

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