第10話 電化製品よりも、彼との距離が。
「来てくれたのね。早速だけど、家電量販店というものに案内してくれるかしら」
かおるが校門をくぐり抜けた瞬間、聞き慣れた声音に呼び止められる。
声の主は、見て確かめるまでもない。冬木だ。
この場所で待ち合わせるようになってから、どれくらい経つだろう。たった数日の出来事なのに、この場所は二人にとって馴染みのある待ち合わせ場所になっていた。
「俺は構わないが、冬木はこのまま行ってもいいのか?」
「心配ご無用よ。お財布は自宅に置いてきちゃったけど、アイフォンは持参しているし。家電量販店でも、電子決済は使えるのでしょう?」
「ああ、たいていの店は対応しているはずだ」
「それなら、さっそく出発しましょう。道中の案内係は、かおる君にお願いね」
目的地を目指し、かおるは最寄りのバス停へ足を向ける。普段なら何でもない道のりだが、桜ヶ丘の令嬢、冬木氷香を伴うとなると心配は尽きない。もしかすると、バスの利用方法すら分からないのではないかと、そんな懸念さえ抱いている。
「まずは、そうだな。バスの乗り方を教えておこう」
「あら、かおる君。流石のわたしでも、それくらいは心得ているわよ。――まずは、バス車両を買い取るのよね? 予算は、二千万円程度で足りるかしら」
「よし、分かった。整理券も、運賃も、俺に任せろ。冬木は大人しく座っていてくれ」
「ふふっ……冗談よ、かおる君。いまのジョークは、悪ふざけが過ぎたかしら」
定刻通りにバスが到着し、二人は後部座席に並んで腰を下ろした。
きっと冬木は、この街での日々をほとんど自宅で過ごしてきたのだろう。バスが角を曲がるたび、新しい発見に出会ったかのように、彼女の瞳は好奇心で輝いていく。
「通学路以外の景色って、こんなにも違って見えるのね」
「まあ、冬木にとっては、どこも初めての景色なんじゃないか?」
「そうね……でも」
窓に映る自分たちの姿を見つめながら、冬木は唇を柔らかく綻ばせた。
「初めての経験を、誰かと分かち合えるって、とても素敵なことだと思わない?」
かおるも同じように、窓に映る彼女と視線を重ねた。
「確かに、冬木にとっては全てが新しい発見なのかもしれないな」
「新しいこと自体は、それほど特別なことじゃないわ。大切なのは、その初めての瞬間を、誰かと分かち合えること」
「なるほど。でも、俺なんかと共有して、冬木が得られるものはあるのか?」
「ええ、いまも得ている最中よ。……ほら、もう花は散ってしまった桜並木でさえ、いまは特別な景色に見えるのだから」
「俺はそう思えないが……冬木は、どうして特別に見えるんだ?」
「さあ、どうしてそう感じるのでしょうね」
道すがら交わされる些細な会話と、移りゆく景色を眺めていると、目的地に到着した。
家電量販店の自動ドアが滑るように開き、冷気と共に陳列された電化製品の輝きが、二人を出迎える。
「すごいわね……まるで、SF映画の中に迷い込んだみたい」
自動ドアの向こうに広がる世界に、冬木は思わず息を呑んだ。
機械が放つ微かな熱や、ひっきりなしに流れる店内アナウンスが混ざり合い、店内には家電の音と光に包まれた異空間が広がっている。
絶え間なく押し寄せる電子情報と、機械と放射熱が生む独特な匂い、整然と並ぶ白い家電の群れ、壁一面を埋め尽くすテレビの画面。空調の冷気も、製品の輝きも、価格表示の赤い数字も、全てが夢の中のような景色だった。
「まずは、冬木の家に不足している物から、順番に揃えていこう」
「ええ……お願いするわ。正直、何が必要で何が不要なのか、わたしにはその区別すら付かないの」
「分からないことや、気に入ったデザインがあれば声をかけてくれ。基本的には機能重視で選んでいくから、特に意見がなければ、そのまま進めていくぞ」
かおるが冷蔵庫売り場へと向かうと、冬木は未知の世界に踏み入れるような面持ちで、彼の背中を追った。
「まずは、冷蔵庫からだな。これがないと、料理を作る以前の問題だ」
「確かに、かおる君の手料理が食べられなくなるのは、死活問題ね」
「どうして、俺が調理する前提になっているんだ?」
「あら、かおる君は、またわたしに手料理を振る舞ってくれないのかしら?」
「まあ……頼まれれば、断る理由はないが……」
かおるは、話題を逸らすように続けた。
「冷蔵庫のデザインは、どれでもいいか?」
「そうね。このピュアホワイトも素敵だけど、パステルブルーも可愛らしいわ」
「冬木は、色で選ぶのか?」
「ええ。だって、性能のことはよく分からないもの」
「それなら、説明するか。冷蔵庫の性能は、この仕様書に載っているからな」
専門用語を交えながら製品の機能を説明するかおるの声に、冬木は真剣なまなざしを向けていた。時折理解に苦しむ言葉に眉をひそめながらも、その表情は優しい好奇心に満ちていた。
「――この冷蔵室の下にあるのが、チルド室だ。チルド室は、0度から2度で温度制御されているから、生鮮食品を最適な状態で保存できるぞ」
「本当ね……って、あれ? 中が冷たくないのは、どうしてなの?」
「展示品だからな。全ての冷蔵庫に電源を入れていたら、電気代が馬鹿にならない。だから通常は、電源を切った状態で展示しているんだ」
「そういうことだったのね。でも、これだけ大きいと……きっと、たくさんの食材を――」
二人して冷蔵庫を覗き込んでいたその時、冬木の呼吸が、一瞬だけ止まる。
「……っ」
ふと顔を上げると、思いがけない近さにかおるの横顔があった。かすかに感じる彼の体温と、石鹸とシャンプーの清潔感ある香りに、冬木の鼓動がとくんと早まる。
「冬木……突然固まって、どうしたんだ?」
かおるの声が耳元で響くが、冬木は言葉を紡ぎ出すことすらできない。
あまりに近い距離で交わる視線に、心臓が早鐘を打ち始める。冬木は、自分の頬に集まる熱が、次第に全身に広がっていくのを感じた。
そうして彼女は慌てて顔を引っ込めて、逃げるように顔を逸らした。
「ううん、大丈夫よ。ただ、ちょっと……冷蔵庫の機能に、驚いちゃっただけ」
取り繕うように自慢の金髪をかき上げながら、冬木は平静を装う。内心では、この胸の高鳴りが彼に聞かれていないかと不安を募らせていたが、相手はかおるだ。
「そうか、ならいいんだが」
かおるは短くそう返しただけで、冬木の心の揺らぎにも気付いていなかった。
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