第9話 言葉以外の意味……視線の先にあるもの。

「見ず知らずの他人を演じるのも、なかなか面白いものね。学校でかおる君と話せないのは残念だけれど、こうして秘密めいた関係を楽しむのも、悪くないと思うわ」


 屋上に着くと、冬木は扉前で腰を下ろした。彼女はいつものように惣菜パンを手にしているが、一口が小さい。そんな小動物のような彼女の食べ方を観察しつつも、かおるは、先の体育の時間で行われた意味深なやりとりについてを訊ねる。


「さっきの、バレーの話なんだけどさ。やっぱり、冬木のあの視線・・・・は、男子たちをからかうためのものだったのか?」

「ん……あの視線、というと?」

「試合中、俺に視線を向けてきただろ。でも、俺の前には別の男子たちがいて、あいつら、《冬木が俺のことを見てる》とか言って、歓喜乱舞してたぞ」

 パンを口に含んだまま、冬木は首を傾げた。

「えっと……なに、それ? わたしは、かおる君のことしか見ていないわよ?」

「となると、男子たちの浮かれようは、ただの誤解だったというわけか?」

「誤解も何も、わたしの目には、彼らの存在さえ映っていなかったわ」

「じゃあ、俺を見ていた理由は何なんだ?」

「ふふっ、いったい何だと思う?」

「質問に質問で返すのは、愚者のやることだと、この前冬木が言っていたことだぞ」

「まあ、そうだったかしらね」

 冬木は惣菜パンを置いて、その瞳を意地悪げに細める。


「でも賢者は、時として沈黙を選ぶものなの。……例えば、かおる君への視線の意味とか、昨晩のことだとか、そういった類いの事柄についてはね」


 その言葉に、かおるの意識は、自然と昨夜の出来事へと引き寄せられた。

 自分の家を出る際、何か言いたげに振り返った冬木の姿が、まぶたの裏に蘇る。


 冬木は、緊張していたのだろう。震えた唇を開けては閉じて、じっと細めた目尻からは、言いたくとも言えない、どこかもどかしい気持ちが見え隠れしていた。

 しかし、かおるは彼女の胸の内が分からない。

 彼女がいま、何を考えているのかも、また。


「そう言えば、昨日は何を言おうとしていたんだ?」

「だから言ったでしょう、賢者は時として沈黙を選ぶものだって。全てを言葉に置き換える必要はないの。時には、言葉以外の方法が、遥かに優れていることもあるわ」

「一理ある考えだな。でも、その言葉以外の方法とやらも、相手に自分の意図が伝わらなかったら、意味がなくないか?」

「いいえ、むしろ伝わらないことこそが、大切な意味を持つの」

「……それって、どういう意味だ?」

「さあ、どういう意味なのかしらね。体育の時間中、わたしの胸ばかりを観察していたかおる君には、とても理解が及ばないと思うわ」


 意趣返しとばかりに、先程の視線を持ち出す冬木だが、当のかおるは相変わらずの無表情。よこしまな思いなど微塵も感じさせない、男子高校生らしからぬ面持ちだった。


「ああ、不快にさせてしまったのなら悪い。周りの男子たちの話題に引きずられて、つい考えてしまったんだ」

「へえ……意外ね」

 冬木は彼の弱みにつけ込むように、かおるとの距離を縮めていく。

「かおる君には、男の子特有の浅はかな欲求はないと思っていたのだけれど、やはり女の子の身体には、神秘めいたものを感じるのかしら?」

「そういった関心はないさ。だから、《考えてしまった》と言っただろ」

「考えてしまった……それは、どういう意味なの?」

「たとえば、いまの制服姿の冬木は、全体的に線が細くて、身体のラインもはっきりとしない。だから俺は、冬木を特級の美少女だと認識した上で、スタイルは悪いと思っていたんだ。だけど、体操服姿になったら、印象が変わった。たかだか服装ひとつで、ここまで印象が変わることに、純粋な驚きを覚えたんだよ」


 冬木は肯定とも否定ともつかぬ顔で、考え深げに顎に手をやる。


「確かに、わたしも着衣で印象が変わりやすいのは分かっているわ。特に体育の日は、小さく見える下着を付けているから、なおさらメリハリは出にくいでしょうね」

「小さく見える下着なんて、あるんだな」

「普通にあるわ。高さを抑えるものから、突出を抑えるものまで。ただ、長時間着けていると、少し窮屈に感じることはあるわね」

「そこまで意識的に抑えているということは、周囲の視線も察知していたということか」

「当然じゃない。声を掛けられるだけならまだしも、興味もない相手から、不純な目で見られるのは、ただ不快なだけよ。でも……そうね。《スタイルが悪い》という評価だけは、いただけないわ」


 冬木はじっと、かおるの反応を探るように見つめている。

 しかしかおるは、冬木に視線を送り返すか、手元の弁当箱に視線を戻すかの反応しか見せず、そもそも彼女の身体的な魅力などは、関心にないようだった。


「ねえ。かおる君は、スタイルのいい女の子がいたら、どう思うのかしら」

「どうって、スタイルがいいなって感想じゃないか?」

「やっぱり、かおる君は決して下心のある目では見ないのね」

「下心のある目というのが、そもそも理解できない。顔も、胸も、手足も、生物として、必要な器官の一つでしかないんだ。そこに別の価値を見出すのは、むしろ困難なことだと俺は思うぞ」


 実に、かおるらしい返答だ。

 しかし、その生物学者のような答えこそが、冬木の好奇心をいっそうと掻き立てる。

 彼の謎めいた人格と、その思考回路に、どんな特異性があるのか。より深く知りたいという衝動に駆られる。


「でも、《どうせなら》という選択は、人間である以上、自然と生まれてくるはず。たとえば、いまここに、とてもスタイルがいい女の子、とてもスタイルの悪い女の子がいたとしましょう。この時、かおる君の視線は、どちらに向かうのかしら?」

「そのどちらでもない、弁当箱という答えはダメか?」


 冬木は不満げに唇を尖らせ、突如としてブレザーを脱ぎ始めた。続けて、ニットベストまで脱ぎ去り、シャツ一枚となった姿は、先ほどまでの服装よりかは、分かりやすい曲線美を露わにしている。

 そこでようやく、かおるも彼女の身体に視線を向けた。


「へえ……やっぱりかおる君も、目を逸らせないみたいね。口では無関心を装いながら、わたしの身体には、興味があるように見えるのだけれど」

「いや……突然服を脱ぎだしたら、誰だって驚くだろ。いまの視線は、《何をやってんだ》っていう、疑問符でしかないぞ」

「でも、この方が、よりシルエットがはっきりしたと思わない?」


 冬木は意図的に姿勢を変え、その変化を印象付けるように身体をくねらせる。


「どうだろうな。そもそもシャツという制服は、冬木の骨格には合っていない気がする。こういう制服はもともと体に沿うデザインじゃないし、シルエットが活きない。スカートもネクタイも、冬木のような華奢な体型には、やや不釣り合いだと思う」

「ということは……わたしに似合う服だったら、また違った評価になるのかしら?」

「さあな。可愛いと感じれば素直に可愛いと言うし、綺麗だと思えば率直に綺麗だと言う。ただ、いまの状態では何とも言えないな」


 その答えに満足したように、冬木は柔らかな笑みを浮かべた。そっと、かおるの傍らに腰を下ろすと、惣菜パンを頬張りながら、さりげなく彼の肩に寄りかかる。


「いくら冬木が軽くても、俺にもたれかかっていい理由にはならないぞ」

「あら、さすがかおる君ね。冗談でも《重い》なんて失礼な言葉を使わないあたり、紳士的な心得はあるのね」

「単に、事実以外のことは口にしない主義なだけだ」

「そう。なら今度は、《放課後》という事実について話しましょうか」

「俺と家電の買い出しにいく話のことか?」

「ふふ、しっかり記憶していてくれたのね。ええ、その通り。冷蔵庫に洗濯機、文明の利器を揃えるという、大切な約束。当然、エスコートしてくれるわよね?」

「ああ、できる範囲で協力しよう」


 冬木の吐息が、かおるの肩に繊細な温もりを落としていく。

 昨日までは考えられなかった、彼とのこの近い距離感に、どこか自然な心地よさがある。むしろ、彼の隣には、何か大切なものが漂っている気さえした。


 頭上では、雲が緩やかに形を変えながら流れていく。冬木が言っていた通り、曇り空は確かに美しかった。

 晴れにも、雨にもなり得る空が、かおるには先の読めないの未来を映し出しているかのように見えた。

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