第8話 二人の駆け引きは、学園の中で。

 昨夜、皿洗いを終えた冬木は、何かを言いかけるように振り返って帰っていった。その背中に秘められた言葉の意味を、かおるはまだ読み解けないでいた。


「おはよう、かおる君。今日もわたしみたいに、素晴らしい朝ね」


 翌朝、席にて交わされたその言葉は、昨夜の温かな空気とは違う色を帯びていた。冬木は再び高貴なお嬢さまの仮面を被り、芝居がかった笑みを浮かべている。


「ああ、おはよう冬木。ところで、お前と朝を比べるのは無理があるな。冬木は晴れ空というより、曇り空に近い」

「あら、それはそれで素敵じゃない。曇り空はね、気分次第で晴れにも雨にもなれるの。確かに、わたしにぴったりの空模様かもしれないわね」

 冬木は意図的な流し目でかおるを見上げ、陽を浴びて煌めく金髪をかき上げた。その仕草には、昨夜の素直な表情とは異なる、計算された可愛らしさが仕込まれている。

 あたかも、《可愛いわたしを見ろ》とでも、言わんばかりに。


「どうしたの、かおる君? そんなに見つめられても、わたしの魅力は既に完璧だから、これ以上美しくなりようがないのだけれど」

「いや、今日はやけに早いんだなって。……ああ、そうか。冬木の家が綺麗になったから、ゴミ山から制服を探す必要もなくなったのか」

「それも理由の一つかもしれないわね。でも、今日の早い登校は、ただ単に早起きをしたからというだけよ」

「ふーん。どうして、今日は早起きをしたんだ?」

「さあ、どうしてでしょうね。かおる君には、永遠に分からないことだと思うわ」


 冬木は秘密を企む猫のように、唇の端をいたずらっぽく持ち上げた。

 彼女が早起きした理由は、一秒でも早く彼に会いたいがため。

 しかし、冬木の心に潜む期待と楽しみを、かおるはまるで読み取れていない。その鈍感っぷりが、どこか愛おしくもあるのだろう。冬木はご機嫌に、かおるのきょとんとした顔を見つめ入っている。


「まあ、たまには目覚めがいい日もあるだろ」

 その見当違いな答えに、冬木は心の中で小さく笑った。

「そうね。目覚めが良かったことには違いないわ。――ところで、話は変わるのだけれど、かおる君は、学校ではあまり目立ちたくはないのでしょう?」

「できれば、な。死活問題というわけじゃないが、余計な波風は立てたくない」

「だったら、お話はこの辺にしておきましょうか。クラスメイトたちも集まってきたようだし、相変わらず彼らは、わたしに夢中になっているようだから」


 朝の特別な時間は、教室に人が増えるにつれて、静かに姿を消していった。

 学校では、冬木とかおるは、関わりのない他人のように振る舞う。

 授業中のディスカッションも、体育での団体行動も、二人は完璧な他人のように演じ切る。その自然な距離感は、誰の目にも怪しまれることはない。

 ――しかし、言葉を交わさなくとも、かおるは確かに感じ取っていた。彼女から向けられる、目に見えない二人だけの合図コンタクトを。


(冬木のやつ……やけに見てくる気がするんだが、いったい、何を考えているんだ?)


 特に印象的だったのは、体育のバレーボール中のことだった。

 一組と二組の合同体育で、男女別の練習試合が行われている。冬木は女子チームで華麗なプレーを見せているのだが、それ以上に目立つのは、彼女の目配せだった。

 冬木が鮮やかなスパイクを決めた時、相手のアタックを見事にブロックした瞬間、切れのあるサーブでポイントを重ねた時。成功の度に、まるで誰かの承認を求めるように、休憩中のかおるへと視線が向けられるのだ。


「おい、いまの冬木さん、俺のこと見てたよな!?」

「ばっか、絶対に俺だって。さっきの超絶セーブを見て、俺に惚れたんじゃないか?」

「違う違う、お前らじゃなくて、俺だって。なんていうか、視線を感じるんだよ……」


 期待に胸を膨らませる男子たちの声が響くが、それは儚い誤解に過ぎない。

 冬木がしきりに目をやっている男子は、春道かおる、ただひとりだ。彼も、その事実に気が付いている。

 しかし、どうして冬木は、こうも自分を見てくるのだろうか?

 かおるは、せめて彼女の意図を探ろうと、視線を送り返してみる。すると冬木は、まるでその瞬間を待っていたかのように、艶めかしく髪を頭上で束ね直した。そして、計算された可愛らしい微笑みで、見る者の心を撃ち抜こうと試みる。


 ……一方で、かおるは彼女の笑みを見て確信した。

 冬木が視線を向けていた相手は、自分で間違いがない。その目的は謎のままだが。


「お、おおおぉ、見ろ! 俺と目が合ったから、冬木さんが、あんな笑顔を!」

「いやいや、絶対に俺、俺だって! だって、ほら、また目が合ったぞ!」

「やっぱり、桜ヶ丘のシンデレラは別格だよ……優雅さと愛らしさを兼ね備えるなんて、ずるすぎる……」


 冬木の些細な仕草一つで、男子たちは一喜一憂する。

 この光景を眺めながら、かおるは腑に落ちたように頷いた。冬木は、純朴な男子たちを手玉に取るための駒として、自分を使っているのだろうと。

 だが、その推測もまた真実からは遠く。なぜ冬木が折に触れて、自分へと視線を投げかけてくるのか。その謎を解く鍵は、まだかおるの手の届かないところにあった。


「でも、冬木さんって、意外とでかい・・・んだな。制服の時は、あんなに控えめに見えたのに」

「確かに……体操服だと、印象が違うな。もしかして、着痩せするタイプなのかも」

「そうかな? 確かに細身だけど、クラスの女子の中じゃ普通くらいじゃない?」


 そうして男子たちの関心は、思春期特有の話題へと移っていく。

 かおるは、内心で溜息をついた。

 年頃の男子というのは、どうしてこうも単純な生き物なのだろうかと。生物学的な身体の一部分を、純粋に機能的な器官として捉えるかおるには、なぜ彼らがそこまで《胸》の話題に執着するのか、理解できなかった。


 ひょっとすると、同年代の男子としては、かおるの方が特異なのかもしれない。彼は、本当の意味で、女子の胸になど興味すら持っていないからだ。


「まあ……確かに。たかだか服装で、かなり体格が変わって見えるな」

 男子たちの浅はかな推測はさておき、制服と体操服での印象の違いについては、かおるも否定できなかった。

 制服姿の冬木は、どちらかと言えば華奢な印象を与えていた。全体的に線が細く、儚げな雰囲気すら漂わせている。お世辞にもスタイルがいいとは言えず、胸元も貧相に見えていた。


 しかし体操服になると、その印象は一変する。しなやかな腰のライン、上半身の優雅で十分なボリュームの曲線、その二つは調和の取れたシルエットと言える。


 とはいえ、その抜群のスタイル評価も、あくまで彼女の繊細な骨格が基準となっており、突き出るほどの露骨なバストでないのも事実。出ているところは出ていて、締まるところは締まっている。有り体に言えば、理想のプロポーションというだけの話だった。


「あれ、どれくらいあるんだろうな……Bくらいか?」

「どうなんだ、Cはあるんじゃねーの?」

「いやいや、あれはCもないだろ。Aカップから、Bカップくらいだと思うぞ」


 そして男子たちの間で、お決まりの推測合戦が始まった。

 冬木の凛とした佇まいから描かれる優美なラインに、彼らは様々な想像を巡らせていく。

 多くの男子がAやB、Cではないかと見立て、Dと予想を付けた者は、異端のダークホース扱いを受けたが、その真実に辿り着ける者は、誰一人としていない。

 ――いや、この場にはひとり、その答えを既に知る者がいた。


(まあ、普通はその辺だと思うわけだが……確か、冬木の下着には……)


 昨日、部屋の片付けを手伝った際、偶然目にした衣類の表記。

 彼女の胸を支える下着には、予想を遥かに超える数値、《G》が記載されていた。


(脱いだらすごいとか、着痩せしてしまうとか、そういう話か? あるいは、二次元的な胸が浸透しすぎて、俺たちの認識が狂っているのか……それとも、痩せ型の冬木にとって、あれは十分すぎるほど、大きいのだろうか?)


 生物学的な興味から、かおるは冬木の立ち姿を観察していた。その視線に気づいたのか、冬木は頬を染めながら、控えめな抗議の表情を浮かべる。


 しかし、男子たちにとっては夢のような時間も、そう長くは続かない。

 体育の時間が終わり、昼休みを迎える頃には、冬木は制服姿に戻っていた。彼女の胸元は、また影を潜めるように覆われ、身体のどこにもメリハリは見受けられない。


 服装の違いが、これほどまでに印象を変えるものなのか。

 かおるがひとりでに感心していると、「ちょっと、いいかしら」と、冬木から密やかな誘いの言葉が。


 彼女に促されるまま、かおるは屋上への階段を上っていった。

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