第7話 埃かぶり姫と、王子さまの約束。

「――かおる君は、どうしてひとり暮らしをしているの? 高校生でひとり暮らしって、あまり聞かないから。もしも嫌な話じゃなかったら、教えてほしいと思うのだけれど」


 かおるは箸を止め、瞳を閉ざした。彼は過去の出来事を思い返しつつも、それを冬木に打ち明けるかどうかを、少し悩んでいるようだった。

 赤の他人に、自分の事情を話す必要はない。そう思いながらも、冬木との時間は確かに自分の《何か》を変えつつあった。彼女は他人とは違う、別の存在になりつつあると。


 かおるは再び箸を動かし始めると、静かに言葉を紡ぎ始めた。

「そんなに、込み入った話じゃないさ。ただ、俺はいわゆる《ステップファミリー》で、連れ子だったってだけの話さ」

 ステップファミリー。それは、離婚や再婚で、血のつながらない親子が同居する家庭のこと。近年の、離婚率の上昇や、再婚率の増加に伴い、ステップファミリーは増加傾向にある。かおるもその内の一人であるというだけの話で、現代社会では珍しいものではない。


「俺が物心付く前に、実の両親は離婚していた。その後も、再婚しては離婚しての繰り返しで、いまの両親は、俺とは血縁関係のない両親になってる。父さんも母さんも、他人の子である俺のことは、あまり良く思っていないんだろうな。中学に入る頃、ひとり暮らしを勧められて、それからは自分の身の回りのことは、全て自分でやるようになった。でも、恨んでいるわけじゃない。こんな俺に、毎月十分な仕送りを送ってくれてるし、こうして、不自由のない生活を送れている。俺がひとり暮らしをしているのは、そんな理由だよ」


 かおるの言葉には、何の感情も込められていなかった。

 無理に悲しみを押し殺すでもなく、自分を卑下するでもなく、ただ静かに事実を紡いでいくだけ。彼は長い時間を掛けて、自分の中で納得をつけてきたのだろう。

 だからこそ冬木は、安易な慰めの言葉も、軽々しい共感も口にはせず、ただ静かに息を落とした。

 目の前で紡がれる言葉の重みを、彼女は確かな重さとして受け止めていた。食器を重ねる音さえも、まるで彼の過去を抱き留めるように、慎重な響きを立てていた。


「…….だから、料理を覚えたの?」

 冬木の声から、いつもの刺々しさが消えていた。それは単なる優しさではなく、他者の心に触れた時に自然と生まれる、敬意に似た感情だったのかもしれない。

「ああ、《自分のことは自分で》って、言われたからな」

 どうしようもなかった過去を諦めるように、かおるは肩をすくめた。

「でも、悲しくはなかったし、意外と面白かった。自分の作った料理なら、好きな時に、好きなだけ食べられる。誰かの目を気にする必要もない」

 淡々と語られる言葉の端々に、確かな寂しさが覗いていた。しかし、それは既にかおるの中で、寂しさから強さへと昇華されており、この現状に不満を抱いてはいない。

 かおるが、高校生らしからぬ《感情》を持たぬ理由。

 それは、かおるが本当の意味で【孤独】を知っているからこそだった。

 しかし、彼はこの後も、ずっとひとりで生き続けるのだろうか。誰とも関わりなく、仕方なかったんだと諦めることが、果たして正しい人生と言えるのだろうか。

 ――ひとりで孤独な道を歩もうとする彼を、冬木はとても見過ごせなかった。


「…….ねえ、もしも、よかったらなんだけど」

 冬木は言葉を探るように、僅かな間を置いてから口を開く。

「これからは、わたしにも・・・・・作ってくれないかしら? 明日も、かおる君の料理を口にしたいの。もちろん、必要な費用は全て出すわ」

「……」

 かおるの動きが、時が止まったかのように凍りついた。彼の顔には驚きではなく、他者との距離を縮めることへの密やかな怯えが浮かんでいる。

 彼は、《失う》ことを恐れているのかもしれない。かつての実の両親のように、繋がりがあるからこそ、失ってしまう。だったら、最初から繋がりなどない方が良い――彼の引き絞った眼差しからは、そんな叫びさえ聞こえてくる。


 だから、冬木はあえて助け船を出した。

 かつて彼が自分を助けてくれたように、今度は、自分が彼を支えるために。


「大丈夫よ、断ってもいいの」

 いつもの冬木とはかけ離れた、柔らかな声音だった。

 人との繋がりに慎重な彼の心の機微を、冬木は確かに感じ取っていた。

 彼の心を追い詰めるような言葉は、できる限り、避けるべきなのだと。

 しかし、冬木がかおるのことを思う一方で、かおるもまた、冬木への関心が強まっていた。自分を気遣ってくれる彼女のことを、彼女の境遇を、少しずつ知りたいと思えたのだ。


「――話を変えてしまって悪いが、冬木のことを聞かせてもらえないか。どうして、あんな豪華な自宅に、たった一人で……ずっと、俺は気になっていたんだ」

 冬木は自分の胸に手を添えながら、これまでの日々を静かに振り返る。

 誰にも打ち明けたことのない話も、彼にならと、確かな安心感が芽生えつつあった。

「わたしのお父さんは、海外で仕事をしているの。お母さんとは、もう何年も顔を合わせていない。基本的に、わたしたち家族が集まることもない。離婚したわけじゃないけど、別居しているような状態というか……詳しい事情は、わたしも聞かされていないの」

 かおるもまた、冬木の言葉を静かに聞き入っていた。

 相槌も打たず、箸も動かさない。ただただ保ち続ける沈黙こそが、彼女の言葉に向ける最大の敬意だった。


「お父さんは、わたしに不自由はさせないつもりなの。でもね――お金で全てが、お金で何もかも、解決できると思っているの。学費も、仕送りも、ペントハウスも、必要なものは何でも与えてくれる。ただ、一緒に食卓を囲むことはない。何年も、何年も、ずっと。だから最近は、お父さんの顔すら、曖昧になってきたわ。お母さんは、仕事に忙しくて、自分の人生を生きているみたい。わたしのことなんて、もう記憶の片隅にも残っていないのかもしれないわね」


 冬木の言葉には、もはや怒りすら込められていなかった。

 ただそこにあるのは、深い諦めと、微かな郷愁だけ。


「だったら、そうか……俺たちはある意味、似た者同士・・・・・なのかもしれないな」

 かおるのそんな意見に、冬木は一部を肯定しつつも、一部には強い否定を示した。

「いいえ、かおる君の話を聞いた限り、わたしとかおる君には、大きな違いがあったの。それは、血縁関係のことじゃない」

「……とんでもないお金持ちの家庭か、そうでない家庭の違いか?」

「それも違うの。最も大きな違いは、《掛けられた言葉》にあったわ」

 かおるが戸惑いを瞳に映す中、冬木は心に刻まれた父の言葉を、まるで古い傷を確かめるように思い返した。


「《自分のことは、自分で》――かおる君のご両親は、そう言っていたのよね? でも、わたしが最後にお父さんから言われた言葉は、【余計なことをするな】。わたしのお父さんは、巨大企業の頂点に立つ人。だからわたしに期待することなんて、何もないの。ただ、生きてくれたらそれでいい……面倒事も起こさず、順調に育ってくれたら、いつか後を継がせるつもり、なのでしょう。だから、たまにお父さんと言葉を交わす機会があっても、常にこう言い聞かされてきたわ。――【余計なことをするな】、って」


 かおるは、冬木の顔と、空虚を抱え込んだ食器とを交互に見つめながら、こう言葉を絞り出した。


「余計なことって、なんだ? いったい、何が余計になるんだ?」

「分からないの……分からないから、わたしは考えないことにしたの。お父さんの顔に、泥を塗るようなことはしてはいけない。だから……ゴミを捨てることも、掃除も……」

 その時に、かおるが冬木に抱いていた疑問が、全て繋がった。

 冬木の常識から外れた行動の全ては、【呪い】の言葉が原因だった。

 何が余計で、何が必要なのか。その境界すら分からないまま、彼女は日常の些細な行為にさえ、ためらいを感じていたのだろう。

 実際、冬木の父は、彼女が何もできなくても構わないのだろう。家も、掃除も、将来も、金で全てが解決できる。――だが、そんな囚われたような生き方は、まさに【灰かぶり姫】のようで、かおるはこの状況を見過ごすことなど、到底できなかった。


「冬木」

 かおるはテーブル越しに身を乗り出し、彼女に手を差し伸べる。

「これから、思う存分、《余計なこと》をしよう。今までずっと、余計だと思い込んでいたことを、一緒にやってみないか」

 かおるの声には、確かな力強さがあった。それは、同じ孤独を知る者にしか持ち得ない、揺るぎない決意とも言えるもの――。

「でも……わたしには、何をしたらいいのかが、分からないわ。何が正しくて、何が余計なのか、もう分からなくて……」

「簡単なことだ。まずは、この食器を洗うところから始めよう。これが余計なことかどうかなんて、考える必要はない。冬木の部屋を片付けるのも、料理を作るのも、誰かと食事をするのも、全部、冬木が生きていくために必要なことなんだ。だから……明日も俺と、《余計なこと》をしていかないか」


 彼の言葉が耳に届いた瞬間、冬木の瞳に、熱い感情の発露がじわりと滲んだ。

 こんな自分に、自由を与えてくれようとする彼の姿に、胸の奥でぱちんと何かが弾ける音を聞いた。そして、心の奥で確かな何かが息づき始めていることも。

 しかし冬木は、押し寄せる感情の波に流されまいと、震える顎を上げ、迷いのない手つきで彼の手を取った。

 この大切な一瞬を、自分の弱さで曇らせたくない。

 前を向く勇気を授けてくれた彼に、今はただ、真っ直ぐに応えたいと思った。


「それじゃあ……これからも、よろしくお願いするわね、かおる君」

 言葉より行動で示そうと、かおるは食器を手に立ち上がった。

「まずは、皿洗いからだな。失敗なんて気にするな。俺がフォローするから、思う存分、余計なことをしていこう」


 優しく水を落とすように蛇口をひねる。彼の言葉に背中を押され、冬木は初めての家事への期待と不安を胸に、おずおずとスポンジに手を伸ばした。洗剤が染み込んでいく様子に見入っていると、水を含ませた指の下で、光を纏った泡たちが現れた。


「ねえ、かおる君」

 初めての皿洗いに手を伸ばそうとした瞬間、冬木は不意に浮かんだ思いを口にした。

「わたしには、何不自由ない暮らしがあるはずなのに、自由がない。豪華な部屋があるのに、自分の意志で片付けることさえできない。……でも、シンデレラは最終的に、王子さまが迎えに来るのよ。かおる君に、カボチャの馬車の用意は、できているのかしら?」

 ほんのりと頬を染めながら投げかけた冬木の無邪気な問いに、かおるはいつもの淡々とした表情で応える。

「悪いが、俺にあるのは古びた自転車くらいだ。カボチャの馬車には、とても及ばないぞ」

「自転車……それもいいわね。今度は、自転車の乗り方を教えてくれるかしら」

「なるほど、随分と気の長い運転練習になりそうだな」

「もしかしたら、カボチャの馬車よりも、ずっといい乗り物かもしれないわね。自転車に魔法は、掛かっているのかしらね」

「さあ……冬木が自分で漕ぎ出そうとしていること自体が、俺には十分、魔法みたいなものだけどな」

「それって、どういう意味なの?」

「さあ、どういう意味なんだろうな」


 冬木が震える手で食器を掴むと、かおるは自然な仕草で彼女の隣に並んだ。

 かおるは洗剤とスポンジの使い方を教えながら、皿を落とさないように、彼女の両腕をそっと支える。

 言葉は途切れても、二人共に会話を補う必要はなかった。

 古びたアパートのシンクで交わされる、素朴な家事の時間。そこに童話のような華やかさはなくとも、確かな魔法が息づいてた。

 埃かぶり姫シンデレラの物語は、ガラスの靴ではなく、食器用スポンジによって紡がれていった。





――――――

後書き:

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