第6話 埃かぶり姫には、執事の手料理を。
「少し時間がかかると思うけど、冬木は楽にしていてくれ。つまらない部屋だから、退屈に思うだろうけどな」
スーパーでの買い物を終えた二人は、かおるのアパートへと場所を移していた。
本来なら冬木の豪奢な台所で料理を振る舞いたいところだったが、冷蔵庫も調味料も、料理道具の一つさえない現状では、この古びたアパートに彼女を招くしかない。
しかし、《女の子を自宅に招く》ことへのかおるの緊張や遠慮とは裏腹に、冬木の方は意外な反応を示している。彼女は子供心じみた好奇心で、こじんまりとした空間を興味深そうに観察していた。
「全然退屈なんかじゃないわ。確かにわたしは恵まれた環境で育ったけれど、だからこそ普通の生活に興味があるの。特に、かおる君の部屋なら、新しい発見があるかもしれない」
「期待させて悪いが、面白いものなんて、ひとつもないぞ。俺は、趣味らしい趣味も持ち合わせていないからな」
かおるの住まいは質素なワンルームタイプ。玄関から土間へと続く空間には、低いダイニングテーブルが置かれ、冬木はその前で膝を折っている。
二つの窓が室内に光を落とし、L字型のキッチンが一角を占める。古びたエアコンと、天井や壁に刻まれたシミは、築年数三十年の貫禄を示している。
さらにはベッドに机、椅子に本棚――この部屋にあるのは、生活の必需品だけ。まるで、余分なものを一切排除したミニマリストのようだった。
「本は、けっこう揃えているのね。かおる君は、哲学的、文学的な物を好むのかしら」
「他人の頭の中を眺めるような雰囲気に浸れるからな。自分で考える必要もないし、時に納得したり、荒唐無稽な戯言だと一蹴するのもいい。要は、都合の良い暇潰しだ」
「でもね、本棚は持ち主の心を映す鏡だって言うわ。そう考えると……この本棚からは、随分と寂しい想いが滲み出ているような気がするわ」
「面白いことを言うな。部屋の様子も、住人の心を表すって言うじゃないか。散らかり放題の部屋に住んでいた人間は、一体どんな心持ちでいたんだろうな」
「相変わらず、話を逸らすのがお上手なのね、かおる君。ご指摘の通り、わたしの常識も、心も、少し乱れていたことは認めるわ。でも、毎日誰かさんがわたしを助けてくれるから、心も部屋も、少しずつ片付いていくのかもしれないわね」
「それって、どういう意味だ?」
「さあ、どういう意味なのかしらね」
狭いキッチンに、規則正しい包丁の音が響いている。
食材に向かうかおるの手つきには無駄がない。確かな動きで包丁を操る度に、まな板の上の鮮やかな緑のほうれん草が形を変えていく。切り口からは小さな水滴が零れ、艶やかな断面が光を捉える。
フライパンからは、温められた味噌とサバの香りが立ち昇る。皮目の焼き色を確かめるように、時折覗き込む彼の瞳に、こんがりと色づく魚の姿が映る。甘く深い香りが、次第に部屋中を包み込んでいく。
「火加減は、こんなものでいいか……」
鍋の中では出汁が静かな音を立て、味噌玉がゆっくりと溶けていく。深い旨味の香りが、白い煙となって立ち上っている。
すでに丁寧に茹で上げられたほうれん草は、色鮮やかな深緑を保ったまま、一口大に整えられていく。余分な水気を切られた菜は、出汁に漬けられ、その旨味を少しずつ身に染み込ませていった。
「すごいわね、かおる君。それとも、今どきの男子高校生は、みんなこんな風に料理ができるの?」
香りに誘われてやってきた冬木は、関心深げにかおるの手際の良さを見つめている。
「どうなんだろうな。他人様の家庭のことは知らないが、クラスメイトと比べれば、多少はできる方かもしれない」
「お野菜に、お魚に、お味噌汁。かおる君は、栄養士の資格でも持っているのかしら」
「そんな資格がなくても、これくらいの料理はできるさ」
「ここまで見る限り、かおる君の家事スキルは完璧ね。一家に一台、かおる君はいかがかしら」
「世の奥様方に仕えてやるほど、献身的な性格じゃないぞ」
「ということは、やっぱりわたしだから手を貸してくれているの?」
「放っておいたら、何をしでかすか分からないからな」
「ご忠告ありがとう。これからも、かおる君の下で常識を学ばせていただこうかしら」
「さりげなく、永続的な家事契約を結ぼうとしてないか?」
「利便性の向上は、とても重要よ。時間という限られた資源を解放し、人生をより豊かで充実したものへと彩っていくのだから」
「急にスケールのでかい話になったな。怪しげな勧誘なら、お断りだぞ」
「安心して、胡散臭いマルチ商法には発展させないから」
炊飯器から、炊飯完了を告げる音色が響き、温かな米の香りが部屋中に広がる。
蓋を開けると、白い湯気が立ち昇った。かおるは艶めく白い粒を茶碗によそい、百均で揃えた彼女用の食器に、一品ずつ丁寧に料理を盛り付けていく。
「安物の食器だが、大きさは申し分なさそうだな」
フライパンにかけていたアルミホイルの落とし蓋を開けると、サバが火を通され、こんがりとした皮目に、味噌のツヤが美しく映えていた。身はほどよく火が通り、ふっくらと柔らかな姿に変わっている。
鯖の味噌煮、ほうれん草のおひたし、ネギとお豆腐のお味噌汁、そしてご飯。
かおるの手料理が、ついにいま完成した。
「かおる君……これは、とても美味しそうな夕食ね」
「外食で肥えた舌を持つ冬木に合うかは分からないけど、栄養はあると思うぞ」
「いいえ、外食は外食、普段のお家で食べる料理とは、また違った良さがあると思うの」
「これまで自炊したことがないのに、どうしてそうだと分かるんだ?」
「食べたことがないから、分かるのよ。この食卓から漂う香り、丁寧に盛られた料理から感じる……言葉にできない、温もりみたいなものが」
「温もりがあるかどうかは、実際に食べてみてからのお楽しみだな。……ところで、ご飯を食べる前の合言葉は、知っているか?」
「心配しなくても、《いただきます》くらいは知っているわ」
「なら、問題はなさそうだな」
二人は静かに手を合わせ、心を込めて合唱した。
「「いただきます」」
冬木の箸が最初に向かったのは、艶やかな味噌の色を纏った鯖だった。
彼女はそっと優しく、鯖の身に箸を寄せる。皮目から染み出る味噌の艶に、思わず息を呑んだ。ほどよく火が通った身は、箸を入れただけで、ふっくらと割れた。
「……」
冬木は、一口を運んだ。香ばしい味噌の香りと、魚の旨味が、口の中いっぱいに広がり、思わず目を閉じて味わった。
「美味しい……味噌の豊かな風味が鯖の旨味を引き立てて、鯖の脂から溢れるまろやかな甘みが絶妙に調和しているわね。身自体も驚くほど柔らかくて、まるで絹のようにほろりと崩れてしまう。この一皿は、まさに日本の食文化の真髄を体現した芸術品ね」
冬木の大げさな感想は、純粋な驚きと喜びから来るものだった。
おそらく彼女は、こうした素朴な家庭料理に触れる機会すら持たなかったのだろう。かおるはその事実を察し、からかう素振りを見せることもなく、静かに頷きを返した。
「口に合ったようなら、良かった」
「念のため、言っておくのだけれど、これはお世辞なんかじゃないわよ。このお浸しも、お味噌汁も、まさに至高の一品とも呼ぶべき領域に君臨しているわ」
「そこまで褒められると照れくさいが、悪い気はしないな」
それから冬木とかおるは、しばらく言葉を交わさないまま、互いの空腹を満たすことに専念した。食卓の上で、料理はゆっくりと形を失っていく。時折聞こえる箸の音も、次第に落ち着いた響きへと変わっていった。
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