第5話 同じ痛みを持つ者だからこそ。
「生ゴミは、思ってたより少ないようだな」
「全て外食で済ませているから。ここにあるのは、せいぜいペットボトルくらいよ」
「どうして、そこで得意げな顔をするんだ?」
「分かってないわね、かおる君。ここは、あえて褒めるところよ。女の子というのは、褒められて伸びる生き物なのだから」
「そうか、なら褒めておこう。……冬木って、そこはかとなく、いい感じだよな」
「だからモテないのよ、あなたは」
「けんもほろろだな」
「当然の報いじゃない」
果てしなく続くかと思われた片付けも、三時間を費やすことで玄関からリビングまでの清掃が完了された。ゴミの山に埋もれていた空間も、大理石の輝きや、深みのあるウォールナットの風合いを取り戻し、高級マンションの面目を徐々に見せ始めている。
「このリビングが片付いたら折り返し地点、と信じたいところだが……しかし、広いな。いったい、何坪あるんだよ」
「正確には分からないけど、100坪はあるんじゃないかしら」
「俺がここに住んだら、一時間は道に迷いそうだ」
「あら、かおる君は、わたしとの同居生活をご所望なの?」
「同居生活なら可愛いもんだが、実際は家政夫みたいなもんだろ。俺が、このだだっ広い空間の家事を全てやらされると思うと、ぞっとする」
溜め息混じりに片付けを続けるかおるの横顔を、冬木は楽しげな笑みで覗き込んだ。
「……どうした?」
冬木の顔には、これまでにない含みのある笑みが浮かんでいる。
彼女はいったい、何を企んでいるのだろうか。
かおるの抱いた疑問に答えるように、冬木は饒舌に切り返した。
「案外、似合うかもしれないわね。かおる君の場合は、家政夫というより、
「それは、冬木がお姫さまだからってことか?」
「ええ、灰かぶり姫には、本来なら王子さまが迎えに来るものだけど……まあ、かおる君は王子さまって柄じゃなさそうだし、執事さんでどうかしら?」
「灰かぶり姫? 俺からすると、冬木は《埃かぶり姫》って感じだけど」
「あら、なかなか上手いことを言うのね。なんて、口の悪い執事さんなのかしら」
「もし雇われるなら、この重労働込みで、日給一万円は欲しいところだ」
「随分と素っ気ないのね。まあ、わたしだって、本気でかおる君と暮らすつもりはないわ。……そう、ただの思い付きよ」
わざわざ誰かと暮らすなんて、そんな非効率的な選択に興味はない。面倒が増えるだけで、得るものなど何もないはずだ。
かおるは自らの心にそう言い聞かせ、黙々と作業を続けた。しかし、冬木の言葉はなかなか頭から離れていかず、残響のように耳に残っていた。
それは恐らく、自身が抱く《家族》という幻影への未練なのだろう。
心の奥底では無意味だと切り捨てながらも、誰かとの繋がりを求めずにはいられない。本当に、人との関係が無意味だと思えるのなら、冬木とこうして同じ時間を共有する必要すらなかったはずだ。
「……かおる君。 急に顔色が悪くなったけど、大丈夫?」
「いや、何でもない」
しかし、そんな自分の弱さを素直に認められるほど、かおるは正直ではなかった。
――それから更に時が過ぎ、日が暮れかかる頃、ようやく全部屋の整理が完了した。
先ほどまでゴミと衣類と雑貨の海と化していたペントハウスは、いまや床と壁が見えるほどにまで片付いている。
「あれだけとっちらかってたのに、ポリ袋8枚で済んだのは暁光だったな。小説や雑誌、下着やタオルとかの衣類が多かったのもあるんだろう。生ゴミはなかったおかげで、虫は湧いてなかったところも幸いだった」
汗を拭うかおるの傍らで、冬木は生まれ変わった空間を呆然と見つめている。
床にはペットボトルのゴミや、雑貨、衣類の姿はなく、入居時の真新しい空間が、いまここに蘇ったのだ。埃や塵屑などはあるものの、物が散乱している様子はどこにもない。
「すごい……本当に、綺麗になったのね」
「まあ、以前よりは改善されたな。水を差すようで悪いが、埃や汚れは、まだ至る所に残っている。これを片付けるのは、また後日だな」
「床が見えるようになっただけでも、十分だわ。埃とか、汚れは、十分に換気していれば、何とかならない?」
「ならないな。掃除機……は、見るからになさそうだから、明日にでも買いにいくか」
「あら、明日もかおる君と一緒なのね」
「冬木が構わないならの話だが、このままの状態は避けた方がいい。空気が悪いと、アレルギーや鼻炎、皮膚のトラブルの原因になる。最悪の場合、喘息まで引き起こしかねない。できるだけ早く、綺麗にするべきだろう」
「それじゃあ、明日もお願いしようかしら。執事のかおる君がいれば、どんな問題も魔法のように解決できちゃいそうだもの」
「執事の待遇は? この劣悪な環境で働くには、それなりの報酬が必要だと思うぞ」
「あら、つれないわね。わたしと買い物に行けるチャンスを与えたのに、まだ足りないの? それとも、毎朝の毒舌サービスをご所望かしら。あるいは、もっと強めにして欲しい?」
「誤解されているようだが、俺はこんな劣悪な環境を好む冬木のようなマゾヒスティックな趣味は持ち合わせていないぞ」
「なかなか、興味深い話ね。毎日わたしを観察して、皮肉を浴びせられても通い詰め、こんな散らかった部屋まで掃除に来る。かおる君こそ、とてもノーマルな趣味とは思えないのだけれど――」
ぐうぅ、という不意になった腹の虫が、冬木の言葉を遮断させた。
「……」
冬木は赤く染まった頬を、咄嗟に逸らした。お腹の音を聞かれたことが、よほど恥ずかしかったのだろう
もちろんかおるは、そんな冬木の隙を見逃さない。ここぞとばかりに口角を緩め、勝ち誇ったかのように呟くのだった。
「どうやら、うるさいのは口だけじゃなかったらしいな」
「だ、黙りなさい。これは、ただの生理現象であって、わたしが心から空腹を訴えているとか、そういう話では断じてないのだから――」
ぐうぅ、と続けて鳴った追撃の虫に、冬木はいよいよ耳の端まで真っ赤になった。
しかし、立て続けになじるのも執拗だろう。
かおるはからかう素振りを見せず、思案げに顎に手を添えた。
「そういえば、冬木の家には、冷蔵庫もないんだな」
「冷蔵庫……たしか、物を冷やすための箱だったかしら」
「正確には、家電だな。まあ、冬木の生活を見る限り、生鮮食品を買う機会もなさそうだから、冷蔵庫が不要なのは分かる。でも、外食ばかりは体に良くない。栄養が偏るし、油っこい食事も増える。できれば、自炊を覚えてほしいところだが」
「そんなこと言ったって、わたしは、料理もできないし……買い物だって、あまり……」
……なんだよ、その言い方。
まるで、困った子供みたいじゃないか。いつもの、冬木らしい毒舌はどこにいったんだ。
冬木の戸惑った様子を目の当たりにすると、かおるは呆れるどころか、どこか懐かしい感情が胸の奥で揺れるのを感じた。
冬木は、料理もできないのだろう。.考えてみれば当然だ。この部屋には、キッチンは設けられているものの、台所としての形はない。蛇口から水を捻った形跡もなく、シンクには埃が溜まっている。きっと、料理を教わる機会もなかったのだろう。
(なんだろう、この感覚。胸が、少し痛むような……いや、違う。むしろ、どこか懐かしいような……)
かおるは、自分の過去へと思いを巡らせる。
それは、中学一年生になった春の某日――真っ白な壁に囲まれ、必要最低限の物だけが置かれた、温もりを失くした部屋での生活。
(いまの自分なら、まともな食事くらいは作れる。.ひとり暮らしを始めてから、必死で覚えたからな。だけど、冬木はそうじゃない。たとえ財力はあっても、きっと冬木は……いや、冬木も、あの頃の俺と同じ……)
物思いに沈むかおるの顔を、「ねえ、どうしたの?」と、冬木が覗き込む。
我に返った途端、かおるは納得したように頷きを見せた。そして冬木と視線を合わせて、彼女にこう持ちかけた。
「食べ飽きた外食と、つつましい執事の手料理。冬木は、どっちが食べたい?」
かおるは、自分のために手料理を振る舞おうとしている。
その言葉の意味を理解すると同時に、冬木の瞳には、いままでにない輝きが宿った。
「それじゃあ……夕食も、ご一緒させてもらおうかしら。わたし専属の執事さんが、精一杯のおもてなしをしてくれるんでしょう?」
「かしこまりました、
二人は高級マンションを後にし、近くのスーパーマーケットへと足を向けた。
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