第4話 魔の下着《G65》
落ち着いた色合いの大理石が敷き詰められたラウンジを進み、白と金の優美な装飾が施されたエレベーターに乗り込むこと数秒……かおるは最上階にある彼女の住まい、ペントハウスに到着した。
「これが、冬木の城か……」
扉に手をかけた瞬間、かおるの口元にいたずらな忍び笑いが浮かんだ。その表情の変化を見逃さなかった冬木は、頬を桜色に染めながら、抗議するように唇を結んだ。
「なにか、言いたいことでもあるのかしら」
「いや、これから拝見するゴミの山……もとい、芸術作品に、期待が高まってきただけだ」
「そう。なら特別に、あのロッカーの中とは比較にならない傑作を、お見せしてあげるわ」
「こんなに遠慮したくなる特別展は、人生で初めてかもしれないな」
「かおる君が、わたしの自宅を、さも美術館のように言ったのでしょう? ……まあいいわ。わたしの家に上げる男の子なんて、かおる君が初めてだから。入場料は、清掃活動で払ってもらうわね」
ついに冬木が扉を開け放った瞬間、廊下に漂う新鮮な空気とは打って変わって、重たく澱んだ空気がかおるの全身を包み込んだ。
「なるほど……これは確かに、期待を裏切らない
最初にかおるの網膜に飛び込んできたのは、玄関一面を覆い尽くす衣類の群れ。シャツやブラウスが重なり合い、通学靴が散らばり、ブレザーやダウンジャケットが積み重なっている。下着やタオルまでもが、無秩序な模様を描くように広がっていた。救いだったのは、生ゴミの姿が見当たらないことくらいだ。
しかし、際限なく溢れ出す衣類の海を前に、かおるはまず素直な疑問を投げかけた。
「それにしても、どうして制服が玄関に転がっているんだ?」
「すぐに出かけられるようにしているの。玄関で制服を脱いでおくと、明日が楽でしょ?」
「……っ?? ……????」
確かに理論的には筋が通っている。しかし、それを理由に玄関を制服の待機所にするという発想は、通常の思考回路では生まれないはずだ。
かおるは慎重に、まるで未知の生物に触れるかのように、床に広がる制服の群れに手を伸ばし、細心の注意を払って匂いを確かめた。……幸い、不快な臭気は感じられない。
これらの衣類は、《洗濯》という文明の恩恵は受けているらしい。
「心配には及ばないわ。着用済みの服は、全て
「ああ、なるほど、それで……って、
冬木は首を傾げ、かおるの動揺を理解できないという表情を浮かべる。一方かおるは、彼女の驚くべき非常識さに、さらなる頭痛を覚えることとなった。
「冬木……まさか、一日着ただけの服まで、全てクリーニングに出しているのか?」
「ええ、当然でしょう? お洋服は、洗濯しなければいけないものじゃない」
「念のため確認したいんだが、洗濯とクリーニングが別物だということは、分かっているよな?」
「何を言っているの、かおる君? 洗濯とクリーニングは、同じ意味よ。どっちも、《cleaning》じゃない?」
かおるは言葉を失った。確かに英語の《cleaning》は、洗濯を意味する。
しかし、日本における《クリーニング》とは、衣類や布製品を専門的に洗濯・仕上げする特別なサービスを指す。普通は季節の変わり目、こまめな人でも月に数回程度だろう。
しかし、《日常的な衣服》まで毎日クリーニングに出すという贅沢な習慣は、おそらく前代未聞。特に下着やハンカチまでもクリーニングに委ねるという発想は、この世界で冬木氷香ただ一人のものではないだろうか。
「追加で、確認しておきたいんだが……これは、冬木が潔癖症だからなのか? クリーニングでなければ気が済まない、そういう理由があったりするのか?」
「何を言っているのかしら。服は綺麗になれば、それで十分じゃない。クリーニング店は、単なる手段よ。それ以上でも、以下でもないわ」
予想通り、或いは予想以上に、冬木のクリーニング通いは、特別なこだわりからではなく、ただの常識知らずが生んだ贅沢な習慣でしかなかった。
「もはやコストパフォーマンスという次元の話じゃないが……まあ、冬木の家柄なら、この程度の贅沢も可能か。ひとり暮らしの娘に、こんな豪奢な一室を与えるくらいだしな」
かおるは床に散らばる衣類を拾い上げ、丁寧に畳み始める。しかし、その手際よい仕草を眺める冬木は、不満そうに口先を尖らせていた。
「かおる君は、わたしが洗濯もできない不器用だと思っていたでしょう? こう見えても、ちゃんと洗濯はできているのよ」
「どこから説明すればいいのか途方に暮れるが……世間一般で《洗濯》というのは、自宅の洗濯機で衣服を洗い、干して、畳むという一連の作業を指すんだ。冬木のクリーニング通いは、ただの贅沢な誤解でしかない」
冬木は、何度も瞬きを繰り返した。その瞳には、かおるの言葉が異世界の言語のように映っており、彼女にとって全くの理解不能を意味していた。
「洗濯機……って、そんなものは、どこにあるの?」
「家電量販店だよ。最近じゃネットでも買える。衣類を入れて、水と洗剤を加えて、機械が回転させながら洗い上げるんだ」
「そんな原始的な方法で、本当に綺麗になるの? むしろ、台無しになりそうだわ」
「洗濯機の回転と振動と、それに水流の力で洗剤を浸透させて、汚れを落としていくんだ」
「嘘でしょう? せっかくのお洋服が、粉々になってしまうんじゃないの?」
「デリケートな素材は、洗濯ネットで保護するぞ。それに衣類の種類によって洗剤も使い分ける。色落ちや、色移りを防ぐためにな」
「そんな面倒な作業、専門店に任せるべきことじゃないの? 本当に、一般人がそんなことを毎日やっているの?」
「だからこそ、洗濯は大変なんだよ。まあ、普段は洗濯機に放り込むだけでも何とかなるけど、種類によっては個別に洗って、干して、畳む手間も必要になる。冬場なら、暖房の前で乾かしたり、外干しなら天気に注意したり。家事は、意外と奥が深くてだな――」
白地にピンクのフリルが施された、可憐な胸部用下着を手にした瞬間、かおるの言葉はそこで止まった。
驚愕の原因は、そこに記された恐るべきサイズの英数字。
《G65》と、冬木の意外すぎる極秘秘密が、赤裸々に暴露されていたのである。
「ずいぶん澄ました顔をしていたのに、まさか、こんな形で個人情報を漁られるなんて、本当に呆れた男の子ね」
どこからともなく、高反発マクラが空を切って、かおるの頭に飛んできた。
デリケートな情報を目にしてしまった後ろめたさからか、かおるは「いてっ」と、声を漏らすだけで、それ以上の抗弁は控えていた。
「いや、これは偶然の産物だ。ただ服を畳んでいたら、たまたま……というか、そもそも、どうして玄関にブラジャーがあるんだよ」
「だから、説明したじゃない。直ぐに、出かけられるようにって」
「お前、家では全裸で生活しているのか?」
「失礼ね、パジャマくらい着ているわ。ほら、ちょうどそこに、サメさん模様のパジャマが散乱しているでしょう?」
「散乱って、散らかってる自覚はあるんだな……いや、ていうか、だな」
胸の大きさや、ブラジャーの大きさなど、年頃の男子が気になる事柄も、かおるにはさして興味がない。
しかし、これは別問題だ。下心などではなく、純粋な知的好奇心からの疑問だった。
この目の前にいる、か細い体格の彼女が、《Gサイズ》の下着を着けているという事実。まるでミステリー小説の謎解きに直面したかのように、かおるの顔は硬直した。
「もしかして、これはあこがれて買った下着なのか?」
その推理は見事に的外れだった。冬木は大げさな溜め息と共に、「あのね、かおる君」と、世間知らずの彼に諭すように語り始める。
「ブラのサイズにも、色々あるの。男の子はGカップと聞くと、途方もなく大きなお胸を想像するのでしょうけど、カップ数なんて、アンダーとトップの差で決まるだけのもの。わたしみたいに、痩せ型のGカップも存在するのよ」
「よく分からないけど、簡単に言うと、数字だけが大きい貧乳ってことか?」
その安直な解釈が的外れだったことを、追加のマクラによる制裁が証明した。
「見た目の印象と、実際の数値は、また別の問題よ。それに普段は、あまり大きく見えない下着を選んでいるの。あまり、このわたしを侮らないことね」
「ふむ……一見華奢で、大きいようには見えないが、影には魔物が潜んでいると。まだまだ俺の知らない神秘が、この世界にはあるということか」
「分かったら、わたしの身体美を、金輪際愚弄しないこと。いい?」
「いつの間にか、下着を見た話から、体型批評の話にすり替わってるな。まあ、俺はどちらでも構わないが……それで、この下着はどうしたらいいんだ?」
「そのまま畳んでくれて、結構よ。どうやらかおる君は、よこしまな考えとは無縁のようだし」
「それじゃあ、このパンツは?」
冬木は顔を近づけ、かおるの額に人差し指を突きつける。鋭い眼差しを向けながらも、頬は薄紅に染まり、瞳には微かな恥じらいが見え隠れしていた。
「いちいち確認しなくていいの。かおる君は部屋を片付けるために来たんでしょう? だったら、かおる君はその役目に専念なさい。分かった?」
「イエス、マイロード」
それからの時間は、衣類とゴミの選別作業に費やされた。
かおるが丁寧に洗濯物を畳んでいく傍らで、冬木は物の仕分けに取り掛かる。かおるの指示に従い、小説や雑誌、文具などの有用な物から、空き容器や包装、使い捨て食器、紙くずといった不要物を、ゴミ袋へと振り分けていく。
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