第2話 かぶっているのは、灰か猫か、それとも埃か。
「今日もいい朝ね、かおる君。まるで心も体も生まれ変わったかのような爽快な朝に思えるのだけれど、これも、あのロッカー掃除のおかげかしら」
学園の
これまで誰に対しても、一片の挨拶すら交わさず、自分から言葉を紡ぐことのなかった冬木である。昨日のロッカー掃除が、そこまで彼女の心に変化をもたらしたのだろうか。その真意は定かではないものの、隣席の彼女から声をかけられることは、かおるにとっても悪い気分ではなかった。
「おはよう、冬木。もうゴキブリにうなされる夢は見なくなったようで、何よりだ」
かおるが軽やかな皮肉を込めて返すと、冬木は勝ち誇るかのように鼻を鳴らした。
「残念なことにね、わたしはかおる君と違って、頭の中に虫は飼っていないの」
「危うく、ロッカーには飼いかけてたのにか?」
「ええ。代わりにね、厄介な男の子の顔が浮かぶようになったの。いつも皮肉ばっかりで、このままだと夢にも出てきそうだわ。まるで、始末に負えない害虫みたいね」
「俺が冬木の夢の中にとは、困ったな。今度は夢の中で、どこを掃除すればいいんだ? ……ああ、そうか。次は、冬木の毒舌を掃除した方がよさそうだ」
「ふうん。わたしの毒舌くらい、簡単に掃除できると思ってたのに。案外、不器用なのね。それに残念だけど、わたしの毒舌は掃除道具じゃ落ちないわ。ロッカーと違って、これは才能なの」
「その才能を、俺にだけ使うのはもったいないな。どうせなら、周りの奴らにも振る舞ってやったらどうだ? まるで虫みたいに、毛嫌いされるだろうけどな」
「才能を発揮する場所は、わたしが決めること。だから……そうね。これは、あなたへの特別サービスなの。分かったら、チップとして10ドル札をくれないかしら?」
「へえ、特別サービスって割に高いな。昨日のロッカー掃除も入れたら、俺の方が債権者じゃないか? むしろ、100ドル札を支払ってもらいたいところだ。それが無理なら、ポールダンスでも踊ってもらおう」
二人の言葉は途切れることがなく、まさにああ言えばこう言うの応酬だった。
しかし、冬木もかおるも、その舌戦を楽しんでいるようだった。皮肉めいた言葉の応酬の中に、どこか温かな空気が漂い、互いの口元には小さな笑みが浮かんでいる。
――だが、これほど饒舌な
「お、おい……あれ、マジか……」
「冬木さんが、ど、どどどっ、どうして春道なんかと、楽しそうに!?」
「初めて見たぞ、あんなに喋る冬木さん。そうか……冬木さんって、口調もお姫さまみたいなんだな」
「すっげー毒舌なのに……そこが、またかわいい……」
注目の矢面は主に冬木に向けられていたものの、かおるの名前も確実に囁かれていた。その事実に意識が向いた瞬間、かおるの口は急速に重みを増し、言葉を失っていった。
「あら……かおる君、どうしたのかしら?」
かおるはあくまでも前を向いたまま、どこか投げやりな調子で返す。
「単純に、ただ目立ちたくないだけだ」
「わたしたちは、目立つようなことなんて何もしていないわ。ただ、周りの関心が浅はかすぎるのよ。わたしだって、できることなら注目なんて避けたいもの」
「そんな顔をしているのにか?」
「容姿なんて表層的な話題こそ、低俗の極みだと言っているの」
「否定はしないが、これも程度問題だろう。今世紀最大の美少女さまが、この学園に降臨したとなれば、注目の的になるのは避けられない。……が、その余波が俺にまで及ぶのは、ご遠慮願いたい。……どうして隣席の俺まで、脚光を浴びなきゃならないんだ」
かおるの溜め息に、冬木の表情が影を帯びていく。
沈黙が二人の間に流れていき、やがて耐えかねたようにかおるが声をかけた。
「どうしたんだ? 冬木が黙り込むなんて、らしくないぞ」
冬木は長い睫を伏せたまま、罪悪感を滲ませるように言葉を紡いだ。
「ごめんなさい。わたしのせいで、かおる君には迷惑をかけてしまっているようね」
几帳面なところもあるんだなと、かおるは密やかな感心を覚えながら、小さく頷いた。
「誤解するなよ。冬木のことを迷惑だなんて、これっぽっちも思っちゃいない。ただ、周りの目が煩わしいって思っただけだ」
かおるの飾り気のない言葉に、冬木の表情は柔らかく溶けていった。
「そう……だったら、これからもよろしくお願いするわね、かおる君」
二組の喧騒も次第に落ち着き、担任の入室と共にホームルームが始まった。
結局、一昨日の騒動の真相は、隣クラスの不始末だったという。一組の男子たちが置き忘れた甘いジュースが、ゴキブリという思わぬ来客を招いてしまったらしい。
事件の決着と共に、教室は日常を取り戻していく。休み時間になれば例のごとく男子たちが冬木の周りに集まってくるが、彼女は以前にも増して冷淡な態度を見せていた。
(なんだか、近寄るなオーラが強くなってないか? まあ、目立ちたくない俺としては、これはこれでありがたいけど)
一転して、冬木はかおるにも言葉を投げることはなくなった。朝の軽やかな会話が嘘のように、冬木の視線は黒板だけを捉えている。
六時限の終わりを告げるベルが鳴り、ホームルームも終わると、冬木は足早に教室を後にした。ゆっくりと支度を整えたかおるが玄関に向かうと、校門の前で、例の灰かぶり姫と思いがけない再会を果たす。
「今朝ぶりね、かおる君。相変わらず、陰気臭い顔をしているようなのだけれど、そんな顔をしていたら、そのうち胞子が生えてくるわよ。鼻の下から、キノコが顔を出す日も、そう遠くないかもしれないわね」
校門で鉢合わせた途端、冬木は朝と同じ悪戯めいた表情を浮かべた。その口元は小さな弧を描き、目の前の彼を弄ぼうという企みが、隠すつもりもなく溢れ出ている。
「お前、ついさっきまで《話しかけるな》って顔をしていなかったか?」
「だって、かおる君が言ったんじゃない。《目立ちたくないから》って。わたしは、単にかおる君の願いを忠実に叶えただけよ」
なるほどと、かおるは合点いったように手を打った。
「そんな性悪なのに、気を回してくれるなんて意外だったな。ゴミの後始末の時みたいに、もっと好き勝手やるもんだと思ってた」
このかおるの挑発的な言葉に、冬木はむしろ愉快そうに鼻を鳴らした。
「わたしだって、時には思いやりを見せるわ。
かおるの表情は相変わらず無反応を装っているが、それでも彼女の言葉に乗るように、次々と応酬を重ねていく。
「そうか、それが冬木なりの配慮なのか。俺なんて、ただのロッカー掃除しかできなかったもんな」
「ふうん。〝ただの掃除〟にしては、随分と大胆な結果になったと思うのだけれど」
「いま、こうして《シンデレラ》と一緒に帰ってることとかか?」
「あら、気付いた? でも、わたしが言ってるのはね、この状況を〝掃除〟できなくなったってことよ」
かおるは足を止め、自分を見つめる冬木の瞳に、真っ直ぐな視線を送り返す。
「つまり、冬木は俺との会話が〝面白かった〟と、そう解釈していいわけか?」
冬木は「さあね」と言葉を濁しながら、答えから逃げるように目を逸らす。
「かおる君は、ずっと友達がいなかったのでしょう? こうして、気の利いた言葉を交わせる相手ができたことは、とても幸せなことだと思わない?」
冬木はあくまでも平静を取り繕いながら、それでも僅かに早口になっていた。そのことを目ざとくも見透かしたかおるは、遠慮ない一言を口にする。
「なるほど、本当は冬木が寂しかったんだな。ずっと友達がいなかったから、こうして会話できる時間が、楽しい……と」
その言葉に、冬木は勢いよく振り返った。彼女の人差し指が、かおるを指弾するように突き立てられる。しかしその仕草とは裏腹に、冬木の頬は桜色に染まり、唇は感情を抑えきれないように震えていた。
「ど、どうして、わたしの話になるの? わたしは、あくまで、かおる君のことを……」
「人が他者に向ける悪口には、自分自身の心の影が映し出されるものだと、本で読んだことがある」
「ばっ、馬鹿げた理論ね。わたしが、そんな……寂しいなんて、あり得ないことよ」
「なら、ここで別れるのもいいだろう。ちょうど寄りたい店もあるし、俺はこの辺で……」
言葉こそ発さなかったものの、冬木の指先はそっとかおるの袖を掴んでいた。その小さな抵抗が意味するものを、かおるは問い詰めるまでもなく理解していた。
「悪い、ちょっと意地悪すぎたか」
「そうね。本当に反省しているのなら、卒業までずっと、この道を一緒に歩いてもらうことになるわ。かおる君一人じゃ心細そうだから、特別に、わたしが付き添ってあげる」
「心細い、か。言われてみれば、冬木の毒のある言葉がないと、物足りない気もするな」
「あら、かおる君って被虐的な趣味の持ち主だったの? だったら毎日、少しずつ毒を強めていかないと。耐性ができてしまったら、つまらなくなってしまうものね」
「頑張ってくれよ。ただし、その毒が効かなくなったら、今度は冬木の方が寂しくなるんじゃないか? 俺以外に、毒を受け止められる相手なんて、見当たらなさそうだし」
「ふうん、気付いちゃった? でも残念。毒を吐く相手はたくさんいるわよ。ただ、ちゃんと効果があるのは、かおる君だけみたいだけど」
「それって、どういう意味なんだ?」
「さあ、どういう意味なのかしらね」
二人で歩む帰り道は自然と長くなっていた。ふと我に返ったかおるは、まだ冬木が隣を歩いていることに気付き、素朴な疑問を口にする。
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