第2話

 村を出て3日目の晩。道の途中で、ぼくたちは馬車から降りることになった。

 最初に異変に気付いたのは、リリアだった。リリアによると、森の中を何匹かの狼が並走しているという。行商人のおじさんは一瞬驚いて見せたけど、すぐに鞭を振り上げ、速度を上げようとした。だけど、馬車の速度はなかなか上がらなかった。

 そのうち、ぼくにも狼を視認できるようになった。狼はじわじわと距離を縮め、襲う機会を伺っているようだった。

「悪いが、君たちには降りてもらう」

「な、んで……」

 見上げたおじさんの顔の青さに、ぼくは言葉をなくした。本当は分かってる。速度が上がらないのも、馬が疲れているのも、ぼくたちのせいだ。ぼくたちという余計な荷物を積んでいるせいで、逃げきるのが難しいということを。

 ——こんなところで降ろされたら、あっという間に狼に襲われて……

「分かりました」

 恐怖で返事ができないぼくに代わり、リリアが落ち着いた声で言う。

「申し訳ないですが、少し速度を落としてもらえませんか? そうすれば、自分たちで飛び降ります」

 今にもぼくたちを突き落とそうとしていたおじさんは、手綱を握り直し、少しづつ速度を落としていく。

「ロキ! あたしの背中に乗って! 早く!」

 呆然とするぼくに、リリアの指示が飛ぶ。ぼくがリリアの背中に覆い被さった途端、リリアは力強く跳躍した。

「うわっ!」

 驚くぼくをよそに、リリアは優雅に着地すると、背負ったままのぼくを振り返って「ケガはない?」と、聞いた。

「ないよ。それより、リリア……」

 ぼくは、言葉を止めた。互いを気遣っている場合じゃない。目の前には、唸り声を上げた狼が3匹。両隣や後ろからも、唸り声がする。囲まれている。

 遠ざかって行く荷馬車を見送りながら、リリアとの短い旅と、短い人生が終わったことを悟った。

 ——なんの取り柄もないぼくの人生の終わりなんか、こんなもんか……

 ただ1つの心残りは、リリアの存在だった。ぼくなんかを好きになってくれて、いつもぼくを助けてくれて、ぼくなんかに付いて来てくれたリリア。

 ——リリアをここで死なせるわけにはいかない!

「リリア! ここはぼくに任せ……」

 意を決して放った言葉を遮るように、リリアが叫ぶ。

「ロキ! そこの木に登って!」

 いつの間にか荷物から取り出したナイフを構え、リリアが言う。

「あたしが時間を稼ぐ。木の上に逃げて!」

「いや、ぼくよりリリアが……」

「早くして!」

「はい!」

 指示に従い、ぼくは後ろの木に向かって走り出す。突然走り出したぼくに反応して、狼が1匹襲いかかってきた。その狼に、リリアがナイフを一線させた。思わぬ反撃を受け傷を負った狼が、すごすごと引き下がって行く。他の狼はリリアを脅威と感じたのか、襲いかかってはこない。リリアが狼の足止めをしてくれている間に、ぼくは木に登る。だけどぼくは、山育ちのくせに木に登るのも下手くそだった。リリアがあっという間に登れる木でも、ぼくはなかなか登れない。それでもぼくは、必死に登った。リリアの足手まといにならないために。

「登ったよ、リリア……」

 太い枝に掴まって下を見下ろし、絶句する。そこに、リリアの姿はなかった。いたのは、何匹もの狼だけ。狼は何かに群がり、しきりに頭を動かしていた。

「あ……、ああ……あああーーー!!」

 群れの隙間から覗く亜麻色の長い髪を見て、ぼくは絶叫した。狼の視線が、一斉にぼくに向く。瞬間、手の力が抜け、群れの中に落ちて行く。

 ——もういいや。リリアもいないし、ぼくなんか、生きていたって……

「がはっ!」

 背中を強く打って、息が詰まる。すぐさま襲ってくるだろう狼の群れと、食い殺される激痛を覚悟して、強く目をつむった。

「ん?」

 覚悟していた激痛が一向に訪れない。それどころか、辺りがいやに静かだった。薄く目を開け、寝転んだまま周囲の気配を探るが、なんの気配も感じない、体を起こそうとして、ぼくは狼の体の上で寝ていたことに気が付いた。

「うわっ!」

 ぼくがどいても、その狼はぴくりとも動かなかった。よく見ると、周囲に何匹もの狼が寝転がっているのが分かった。

「し……死んでる?」

 何が起こったのか分からなかった。静かな森の中、ぼく以外の生き物の鼓動を感じない。ぼくだけが、取り残されたような孤独感。あまりの寂しさに、リリアを食い殺した狼たちにも、なんの感情も湧かなかった。

『ロキ』

 その時、ぼくの名前を呼ぶ声がした。

 家族よりたくさん『ロキ』と呼んでくれたその声を、毎日聞いていたその声を、ぼくが間違えるわけがない。

「リリア!」

『ロキ、大丈夫?』

「リリアこそ、大丈夫? どこにいるの?」

 立ち上がって辺りを見回す。薄暗い森の中、人の姿は見当たらない。

「リリア、どこにいるの? ねえ、姿を見せて」

『ロキ……』

 風もないのに、木が揺れた。目の前に白いモヤが現れ、人の形になっていく。

『無事で良かった』

 ぼくと同じくらいの背の『それ』が、顔にぽっかりと空いた2つの穴をぼくに向け、今にも落ちそうなあごを開いて言った。

「あ……ああ……」

『ロキ、大丈夫?』

『それ』が今にも落ちそうな首を傾げ、肘から先のない右腕を突き出し、ゆっくりと歩み寄ってくる。

「あ……っ!!」

 あまりの恐怖に、ぼくは意識を失った。

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