第二章 1

「これ被ってろ」

 街の屋台でベールを買ったヘクターは、オルキデアにそれを渡した。

「あんたの目の色は、目立つ。誰かに気づかれるといけねえ」

 ヘクターは周囲を警戒しながら声をひそめてそう言った。

「目立つと、なにかいけないのですか」

「この間の駱駝の連中みたいのに見つかって、さらわれて、強姦されて終わりだ」

「終わり……とは」

「傷ものになって国に帰るってこった」

 それは、あの大男にされるかもしれなかった事と同じである。

「それは嫌だろ。ならそれ被っとけ」

 そう言われると、従わざるを得ない。おとなしくベールを着けるオルキデアを見て、よし、と呟くと、ヘクターは食堂を探した。

「食料の調達もしなくちゃならねえ。砂漠とは違って、少しは過ごしやすくなるだろうよ」

 彼は酒場に行き当たるとそこでテーブルにつき、食事を二人分注文してまた辺りを見回した。

「なにを見ているのですか」

「怪しい奴がいないか、確かめてる。おかしな男が見てたら、俺に言え」

 今のところ、そのような視線は感じない。料理が運ばれてきて、ベールを取って食べ始めた。そうしていると目の色を見られてしまうので、うつむいて食事した。

「街道を行くと、次はヨセミウっていう国だ。そこは人が多いから、目立たずにすむだろう」

「街を歩けますか」

「少しくらいならな」

 オルキデアはペールのむこうで笑顔になった。それを見て、ヘクターはどきりとする。「楽しみです。私、街というものを歩いたことがないので」

 そうか。そうだったな。この女は十三年間、塔の上に閉じ込められていたのだ。

「あの部屋にずっといたのかよ」

 ふと興味が沸いて、そんなことを聞いていた。

「そうです」

「馬にはどうやって乗れるようになった」

「おばあさまが、たまには運動をしなと言って乗り方を教えてくださったのです」

「うん?」

 ヘクターは肘をついてそれに顎を乗せ、しばらく考えていたが、

「じゃあ、塔の外には出られたのか」

「出たいと言えば、出られました」

「じゃなんで逃げなかった」

「森の外に、出られなかったからです。どんな行っても行ってもあるのは樹ばかりで、あのように道に出られることはありませんでした」

「うーん……」

 ヘクターは尚も考えていたが、やがて、

「やめた。考えてもわからん。わからんことは、放っておく。そうすると答えの方が勝手にこっちにやって来るんだ」

「それで、いいのですか」

「少なくとも俺はそうやって生きてきた。間違ったことはない」

 きっぱりと言い切るヘクターに、オルキデアは言葉が出ない。彼女は今まで、わからないことはとことん考えに考え抜いて答えが出るまで決して次に進まないやり方を通してきたから、ヘクターのそのやり方にはちょっとした違和感があった。

 しかし、相手はヘクターである。

 きっと、自分では想像もできないような苦難を乗り越えて暮らしてきたのだ。そう考えると、彼のやり方にも一理あるのかもしれないとも思う。

 そよ、と風が吹いて、かぐわしい香りが漂ってきた。

「あ……金木犀の香りです」

「あん?」

「この香り、金木犀です」

 花の名前など、薔薇くらいしか知らないヘクターである。そんなものがあるのか、くらいにしか思わなかった。

「金木犀は、自然には生えないのです。金木犀は自分で増えることができないから、香りで人間を惑わせて増えていったのかもしれない、だから金木犀の香りがするところには、金木犀が好きな人が住んでいる、となにかの本で読みました」

「ふうん……そうかい」

「金木犀は色々と伝説のある花です。月に植わっていて、その花の色で月はあんな色をしているとも書いてありました」

「そこで香りを撒き散らしてるってか」

「そうです」

「だとしたら、月が秋にきれいなのも納得できるな。今、ちょうど秋だからな」

 季節は十番目の月後半、霜降になろうとしている。砂漠ではないから、肌寒かった。

 思わず腕の露出した部分を庇っていると、

「あんたの服、新しく買わなくちゃなんないな。半袖だと寒いしな」

 とヘクターが言う。

「お気を遣わないでください。私は平気ですから」

「風邪でもひかれちゃ困るんだよ」

 そうだった。自分はこの男にとって、ただの金貨の山なのである。情などないのだ。

 そうは言っても、頼りにせざるを得ない。少なくとも、今まで出会ってきた男たちのなかではヘクターが一番まともだ。

「今日から、同じ部屋だ」

「えっ」

「あんたを一人にして、またさらわれちゃかなわん。相部屋を頼んでおいた」

「……そうですか」

 着替えはどうするのだろう、風呂に行く時は、などと考えている内に宿の主がやってきて、部屋の支度ができたと告げた。

「じゃ、行こうぜ」

 なにも考えていないようなヘクターの態度に疑問を覚えながらも、オルキデアは彼について行った。



                      1



 ヨセミウ王国には、三日後に到着した。

 見たこともない数の人間が、立ち働いている。歩いている。物を売っている。

 オルキデアはその雑踏の混雑ぶりにめまいがして、思わずヘクターの服の裾を握った。

「どうした? ちゃんとついてこいよ」

 彼は馬を引きながら振り向いて、聞こえるか聞こえないかの声でそう言った。それも、油断すると引き離された。見る見る人波のむこうに消えていく彼を見て、オルキデアは思わず叫んでいた。

「ヘクター」

 するとそれを聞いて、ヘクターが戻ってくる。

「なにやってんだ。掴まってろ」

 と腕を掴ませて、そうして二人で歩いた。

「宿を決めないと」

 適当な酒場を探してなかに入り、食事を注文するついでに宿に泊まりたいと言った。

「相部屋? それとも別々?」

「相部屋だ」

「銀貨五枚だよ」

「ほら」

 ヘクターが銀貨を渡すと、主は部屋の支度ができたら呼びに来ると言ってあちらへ行ってしまった。

「水の値段とほぼ同じくらいの値なのですね」

「うん? ああ、宿賃か。そうだな」

 また一つ、新しいことを学んだ。相部屋だと銀貨五枚だが、別の部屋だとどうなるのだろう。

 食事を終えると、街へ出た。今度はしっかりとヘクターの腕に掴まって、オルキデアは街を観察することができた。

 大勢の人間があちこちにいた。

「ほら、ぼさっとすんな。こっちだ」

 ヘクターに連れられて、古着屋に入った。そこで服をニ、三枚見繕って、今まで着ていたものは売り、新しく手に入れた服を着て、オルキデアは店を出た。

「あ、暖かいです」

「ほらな。もう霜降の月だ。半袖じゃ寒い」

 塔の部屋では、いつも気温が一定していた。冬になれば暖炉があったし、夏になればおばあさまが風の精霊を呼んで風通しをよくしてくれていた。

 だから、季節によって暑かったり涼しくなったりするということは、オルキデアにとっては新鮮なことだった。

 なんとなくそれが嬉しくて、帰り道の足取りも弾んだ。ヘクターはそれを、不思議そうに見ていた。

 宿に帰ると、夕食の時間となった。食事をする時だけは、ベールを取らなくてはならない。

「冷え込む前に、風呂屋に行くぜ」

 部屋に戻ると、ヘクターはオルキデアの目の前で服を脱いだ。それに、思わずどきりとする。

「ここで着替えて、風呂屋で着る服を着ていくんだ。そうすると、着替えを持ち歩かなくていい」

 彼はオルキデアに身体を見せることなどなんとも思っていないようである。オルキデアは慌てて背を返して、自分に背を向けて着替えるヘクターをちらりと見ながら急いで着替えた。彼は、こちらを少しも見ようとしなかった。

 そうして風呂屋に行き、周囲の人間のしていることを見様見真似でやり、髪を洗って、表へ出た。身体を拭いて服を着ていると、窓からは夜の街並みが見られた。

 二階で待ってろ、と言われたので、階段を上って二階に行った。首を巡らせて探すと、彼はもうそこにいた。

「出たか。じゃあ行くぞ」

 風呂上がりの、ベールを被っていないオルキデアをみとめた者がいた。その男は彼女を見ると驚いたように目を見開き、ヘクターと出て行くのを見て少し迷って二人の後を尾け始めた。

「秋の夜、空気が砂漠と違います」

「あ? ああ、そうかもな」

 オルキデアは月を見上げながら、街のあちこちから漂ってくる色々なにおいを楽しんでいた。どこかの家庭の、夕食のにおい。誰かが焚いている、香のにおい。仕事じまいをしている職人が片づけている、材木のにおい。

 森とは、塔の上とはまったく違う、生活のにおい。人が住んでいることが感じられた。 ああ、私は今、街を自由に歩いている。本で読んだままの世界を、本とは違って飽きることもなく。

「なににやにやしてんだ」

「いえ、楽しいと思って」

「おかしな女だな」

 そうして宿に戻ると、就寝である。異性と部屋が同じなど、考えたこともないオルキデアは、どうすればいいのかわからない。

 見ると、ヘクターが剣を扉に立てかけている。

「なにをしているのですか」

「こうしておけば、万が一誰かが入ってきても剣が落ちる音で目が覚める。俺はめったに熟睡ってものをしないが、なにかあってからじゃ遅いからな」

 なるほど、と思っていると、ヘクターはさっさとベッドに入って挨拶もせずに眠ってしまった。

 呆気に取られて見ていたが、やがてそれでいいのだと思い当たった。

 そうだ。意識する必要はない。自分は彼にとっては、ただの金貨の山なのだ。

 朝起きると、ヘクターはもうベッドにはいなかった。着替えて、階下に行く。彼は食堂で朝食を注文していた。

「おはようさん。よく眠れたようだな」

 そこで初めて、寝顔を見られたのだということに気がつく。顔が赤くなった。ヘクターはそれには構いもせずにオルキデアにも同じものを頼むと、

「ちょっと手洗いに行ってくる」

 と席を立った。オルキデアはベールを被って、そこで彼を待った。

 その彼女の隣に、座った者がいた。

 男はオルキデアが顔を上げると、

「しっ。お静かに」

 と囁くような低い声で言った。

「そのまま前を向いていてください。私の方を見たりしないで」

 その声があまりにも切羽詰まっているようなので、オルキデアはついつられて言うことを聞いてしまった。

「ゆうべ、あなた様のお顔を拝見した者です。もしかして、あなたのお名前はオルキデアというのではないですか」

 絶句して、思わず横を見た。

「前を見て。私の問いかけが合っているのなら、一度だけうなづいてください」

 こくん、とうなづくと、男は深く嘆息した。

「間もなくあの男が戻ってきます。どうか、私のことは彼に言わないで。私はあなたの味方です」

「あっ……」

 すっと立ち上がると、男はそのまま行ってしまった。止める間とて、なかった。

 彼の言葉通りヘクターが席に戻ってきて、

「なにもなかったか」

 と尋ねてきた。オルキデアはどきどきしながら、いいえ、なにも、とこたえた。

 顔が青くなっていたように思われたが、ベールに隠れていてそれはヘクターにはわからなかったようだ。

 どうしよう、ヘクターに嘘をついてしまった。でも、あのひとは私のことを知っていた。 私の名前を知っていた。そして、私の味方だと言った。

 誰なんだろう――そんな疑問が、頭をよぎる。

「もう一晩、ここに泊まるぜ。『鉄銀行』に行って金を下ろさなくちゃならん」

「は、はい」

 なぜかそう言われてほっとして、オルキデアはあの男が再び接触してくるのを待った。 一人になるのは、風呂屋くらいだ。二階で待てばいいと思っていたが、ヘクターは先に待っているし、どうしようと思っていたら次の日彼はこう言った。

「『鉄銀行』には連れて行けないんだ。だから、部屋で待っていてくれ」

 好機だ。一人になれる。

 ヘクターを送り出して部屋で一人座っていると、遠慮がちに扉がノックされた。きっとあの男だ、そう思って出ると、若い男がそこに立っていた。

「あの男はどうしています」

「出かけました。すぐには戻って来ません」

「それはちょうどいい」

 男は囁くようにして言うと、急いで部屋のなかに入った。

「お初にお目にかかります。私はこの国の騎士、ミーシャといいます。風呂屋の二階であなた様をお見かけして、後を尾けました」

「あなたは……私のことを知っているのですか」

「瞳の色を見て、もしかしてと思った次第です。これから言うことを、よく聞いてください」

 ミーシャは決死の面持ちで言った。

「あの男に、捕らわれているのですね。逃がして差し上げます。ですが、今すぐというわけにはいきません」

 捕らわれているというわけでは、ない。しかし他に、適当な言葉が見つからない。

「また隙を見て、伺います。それまで平然を装って、機会を作っていてください」

 そう言って、ミーシャは帰っていった。

 オルキデアは茫然として、部屋の扉を閉めた。逃がす? ヘクターから? 私は彼から逃げたいの? でも、この国の騎士と言っていた。ヘクターよりは、よほど信用がおけるかもしれない。

 ようやくまともな異性と出会うことができてほっとした、その頭の隅でヘクターから離れても大丈夫なのかとなにかが警鐘を鳴らす。

 いや、平気だ。なんと言っても、騎士なのだもの。

 オルキデアはすっかり安心して、ヘクターの帰りを待ちながらも、彼の隙を見てミーシャと次に話せるのはいつだろうと考えていた。

 一方のヘクターは、世界に名だたる『鉄銀行』にやってきて、金を下ろそうとしていた。 たかがそれだけの用事なのに、ここの受付は彼をじろりと見上げ、頭取が来るまでお待ちくださいと告げた。

「いや、頭取は必要ない。金を下ろしたいだけだ」

「どのようなご用件であれ、頭取に会わないとご用はすまされません」

 だからここにはなるべく来たくなかったんだ――そんなことを思いながら、座って順番を待った。

 ようやく自分の番が回ってきて、部屋に通されるとそこには三人の男が座っていた。

「こちらへどうぞ。お座りください」

「お名前をどうぞ」

「ヘクターだ。ヘクター・メディテラネ」

 椅子に座ると、男たちの一人に質問された。

「本日はどのようなご用向きで」

「金を下ろしたい。手元がちょっとばかり寂しくなったんでね」

「ほほう」

 男の一人の目が、きらりと光った。

「なぜそのようなことになったのですか」

「女と二人で、旅をしている。その女のためになにかと物入りで、小銭がなくなった」

 男たちはひそひそと小声で話し合っている。

 早くしろよ。俺の金だぞ。

 しかし、『鉄銀行』に金を預けている理由はこの慎重さにある。世界中の傭兵や賞金稼ぎがこの守りの高いのを信用して、ここに金を貯めているのだ。

「いかばかりご用意しましょうかな」

「金貨二十枚と、銀貨で五十枚くれ。手形がいい」

 またひそひそと、男たちが小声で話し合っている。真ん中の一人が言った。

「いいでしょう。こちらに署名を」

 たかが金を下ろすのに、身上調査かよ。その一言を言わないでいるのに、ひどく苦労した。そして署名して部屋を出てまた待たされると、しばらくして手形が来た。

 やれやれ、帰るか。

 ヘクターはため息をついて帰路を急いだ。

 オルキデアは、ベールを被らないで部屋にいた。

「遅かったのですね」

「案外とな。色々と手続きがあった」

 促されて、階下へ行く。ベールを被って下りていき、食事となった。

 こうしてヘクターと向かい合って座っているだけで、嘘をついたという事実に胸がどきどきした。

 どうしよう、あのひとはまた来ると言っていたけれど、次はいつ話せるのだろう。

 ヘクターと離れ離れになるのは、風呂屋にいる時だけだ。やはり、そこで時間を作るしかない。

「ヘクター」

「なんだ」

「今日も、お風呂屋さんに行きますか」

「ああ、行くよ」

「私、少しゆっくりと入りますので、ヘクターもたまにはゆっくりしてください」

「なんだって?」

「いつも私を待っていて、落ち着いてお風呂に入れないでしょう。私も今日は時間をかけて入りますから、あなたもそうしてくださいね」

 他にどう言えばいいのかわからなかった。ヘクターはわけがわからないという顔をしている。

 そして夕食を終え、風呂屋に行った。いつもより早目に上がって二階に行くと、ヘクターはまだ来てはいなかった。

 オルキデアはベールを被って、そこで一人でミーシャを待った。彼はしばらくするとやってきて、急いで近くの席に座って小声で話し始めた。

「発たれるのはいつですか」

「明日の、昼です」

「ではその頃に、お迎えに参ります」

「あの、どうやって」

「ご心配には及びません。必ずお助けします」

 そう言って、ミーシャはどこかへ消えていった。それとは入れ違いにヘクターが二階にやってきて、

「いたのか。早いな」

「のんびりお湯に浸かっていたら身体がのぼせて、涼んでいました」

「そうか。じゃあ行こう」

 ヘクターに連れられて、宿に戻る。決行は明日、という事実に、胸が躍った。

 ベッドに入っても、なかなか眠ることができなかった。隣では明日には別れ別れになるであろう男がすやすやと寝息を立てて眠っている。しかし、彼の言葉通り、熟睡しているわけではないようだ。

 下手に動いて、察知されてはならない。そう思って、心を無理矢理鎮めた。

 翌朝、支度をしていると表で鐘が鳴った。ヘクターが荷物を持ち上げて、行くぜ、と声をかけてきた。

 階下に下り、昼食を注文する。どき、どき、どき。胸が高鳴る。

 やがて食事が終わって、ヘクターが手洗いに立った。

 その隙を見計らって、ミーシャはやってきた。

「行きましょう」

 そしてオルキデアの手を取って、酒場の外に出た。

「あ、あの、ここからどうやって逃げ出すのですか」

「馬を用意してあります。そこから街道を行って、メルツァに行きましょう」

 そんなことをしたら、ヘクターに見つかるのではないか――一抹の不安が胸をよぎる。 しかし、この男は信用できる。なんといっても、この国の騎士だ。自分はようやく人間扱いしてもらえるのだ。

 手洗いから出てきたヘクターは、その場にいるはずのオルキデアが忽然と姿を消していることに仰天して、近くにいた女中に、

「おい、ここにいた女はどこに行った」

「ああ、なんか若い男の人に連れて行かれましたよ」

 なんだと。さては、目の色を見た誰かか。

 ヘクターは歯噛みして表に出た。自分が手洗いに行っていた時間など、わずかな間だ。 そう遠くには行っていないはずだ。そう思って、大通りを駆け抜けた。

 その頃オルキデアは、ミーシャのあまりの無計画さに驚いて思わずこんなことを聞いていた。

「街道を行ったら、ヘクターに見つかります」

「ご心配には及びません。あの程度の男、私が倒してご覧にいれます」

 ミーシャをと見ると、身体はでき上がっているが、ヘクターの完成されたそれとは程遠いものである。背も低いし、これで彼に勝てるとはどうにも思えない。

「あの、私やっぱり」

「早く早く、こっちです」

 手を引かれて走っているので、引っ張られている形になった。息が切れて、足がもつれた。

「待て」

 その時、後ろから聞き覚えのある声が響き渡った。振り返ると、彼がそこにいた。

「ヘクター」

「その女をこっちに渡してもらおう」

 ヘクターは雑踏をゆっくりと歩いてきて、こちらに近づいてきた。

「だ、だめだ。邪知暴虐の、悪辣の輩め。王女は私のものだ」

 罵られて、ヘクターの顔がむっとしたものになった。

「ひどい言われようだな」

「王女は、私が送り届ける。貴様は帰って娼婦でも抱いていろ」

「ご挨拶だな。なんだ、俺とやるつもりか。やろうってのか」

 ミーシャは口の端から泡を飛ばしてヘクターに食ってかかった。

「こ、恐くないぞ。お前なんか、少しも」

「恐くねえってか。じゃあ、やってみようぜ。抜きな」

 ヘクターが両手を広げて、ゆっくりと右手を腰にやった。それを見て、オルキデアは思わず叫んでいた。

「ヘクター、殺してはいけません」

「なにい?」

「殺さないで」

 ちっと舌打ちして、ヘクターは短剣を抜いた。そして、ミーシャ目がけてそれを勢いよく投げた。

 ざくっ、と肉が裂ける音がして、目をやるとミーシャが腕を押さえている。ヘクターの短剣が、そこに突き刺さっていた。

「手間取らすんじゃねえよ」

 ミーシャが苦痛に喘いでいる間にもヘクターはずんずんと距離を詰めてきて、彼の腕から短剣を引き抜くと、

「お前、誰だ。なにをしようとしてた」

「言わないぞ。誰が貴様のような薄汚い傭兵なんかに」

「言ってくれたな。んじゃ、こうだ」

 ヘクターは腕の傷口をぐりりと踏んだ。ミーシャが悲鳴を上げた。

「言え。なにをしようとしてた」

「う……」

「言え」

「せ、せっかく……」

「なんだと?」

「せっかく、金貨が山ほど手に入ると思ったのに。ついでに国王にもなれると、思っていたのに」

 ヘクターは呆れてミーシャを覗き込んだ。

「お前、ずいぶんとおめでたいな。なんだ、賞金もらって、その上婿になるつもりだったのか。そうは問屋が下ろさないぜ」

「ヘクター、だめです」

 オルキデアが脇から彼の腕を掴んで止めた。ヘクターはそれでうんざりした顔になって、「しょうがねえな、ここらで勘弁してやるから、もう行け。二度とすんなよ」

 とミーシャを解放した。騎士だと名乗った男は、少しも戦うことなく無様に負けて、這う這うの体で逃げて行った。オルキデアはその背中を、唖然として見ていた。

 やっと、やっと私を人間扱いしてくれるひとが現われたと思っていたのに。あのひとも、お金が目当てだったのだ。それだけじゃない、私と結婚しようとさえしていた。

「なんだったんだあいつは」

 ヘクターは呆れたように呟くと、

「おい、だいじょぶか。行くぜ」

 とオルキデアに声をかけ、その腕を掴んで歩きだしてしまった。

「あ、私」

「突然で、驚いたな。手洗いにどうやって行くかも、これからは考えにゃならん」

 ようやくまともな男に出会えたと思ったら、とんでもない偽善者だったわけだ。これでは、見知った人殺しの賞金稼ぎの方がまだ自分を人並みに扱ってくれるというものだ。

 真実を言い出せないまま、オルキデアはヘクターに手を引かれて歩いていた。

 ヨセミウを出ると、草原が広がっていた。秋にも関わらず、緑が凪いでいる。その光景に見惚れていると、

「ぼーっとすんな。行くぞ」

 とせっつかれた。砂漠ではヘクターはなるべくオルキデアを歩かせないようにしていたが、辺りが草原になると彼女を馬から下ろし、手綱を引いて歩かせるようになった。

 荷物はフーチが背負っているし、常時二人も騎乗していたら馬が疲れてしまうからという配慮なのだろう。それに気づいて、オルキデアはしみじみとヘクターの横顔を見つめていた。

「なんだ」

「やさしいのですね」

「あん?」

 ヘクターはなにを言われたのかわからなくて、自分に向けられた見当違いな言葉に素っ頓狂な声を出した。

「ちゃんとフーチを気遣って、歩いて。お友達ですものね」

「お友達じゃねえ。相棒だ」

 ふん、とそっぽをむいて、ヘクターはまた歩く。オルキデアが疲れたな、と思う頃には、彼は黙って休息の時間を取った。たまに、馬に乗せてくれることもあった。

 ヘクターからすれば、せっかくの金貨二十三万枚が傷でもついたら値切られると思ってのことである。それに、女は男と違って体力面でどうしても劣る。やれ疲れた、やれ足が痛いだとの言われてうるさい思いをするよりは、馬に乗せた方が楽だと考えているのだ。 そうこうする内に、街道からそれた。

「道を行くのではないのですか」

「それでもいいが、人に見られたくねえ。草原を突っ切る」

 と、ずんずん草を踏み始めて歩くヘクターの背中を、オルキデアは茫然と見ている。

 そんなことをしていて、大丈夫だろうか。しかし、自分に他に頼れる人間はいない。ついていくしかないのだ。

「ここからは、馬だ」

 ヘクターはそう言ってオルキデアを騎乗させた。なるほど、草が深くて、これでは歩きにくい。

 秋だというのに、一面の緑だ。それが風に倒されて、波のようになっている。

「ヘクター、海を見たことはありますか」

「あるよ」

「どんなものですか」

 ヘクターは手綱を引きながら、馬の背に乗るオルキデアを見上げた。

「見たことがないのです。どんなものですか」

「どんなって……大きいよ」

 そんなことを言われるとは、思わなかった。海は見たことがあって当たり前だと、思っていた。

「それに、広い」

「一面、青いと本にありました。波が白くて、それに時折さらわれる、とも」

 オルキデアは緑の草原を見渡した。

「海も、こんな感じなのでしょうか」

 ヘクターはそれにはこたえることができず、黙ってその問いかけをやり過ごした。生憎、メルツァ王国までの道のりに海はない。だから、見せてやることはできない。

 しばらく行くともっと草が深くなって、ヘクターはそこで初めて騎乗した。

「行くぜ相棒」

 そう言うと馬の腹を蹴り、フーチが駆け足を始めた。

 そうして夜になり、火を焚いていると空は満天の星である。オルキデアは白い息を吐きながらそれを見上げた。

「塔の上から見る星とは、少し違います」

「気のせいだ。ここはあそこからはそんなに離れてねえ。星の位置が変わるのは、もっと遠くに行ってからだ」

「でも、やっぱり違います」

 そう言ってオルキデアはずっと星を見つめていた。

 朝起きて支度していると、いきなり彼方から地響きのようなものが聞こえてきた。

 ドドドドド、という、無数の蹄の音である。

 オルキデアは辺りを見回して、その音がどこからやってくるのか見ようとした。しかし、音は段々大きくなるばかりで、その正体はなかなか目に映ることがない。

「来なすったな」

 ヘクターは警戒の色を目に宿し、傍らにあった剣を引き寄せた。

「なんです?」

 彼はそれにはこたえず、じっと近づく蹄の音に耳を澄ませている。

 そしてとうとう、草原のむこうから大勢の人間が馬に乗ってやってくるのが見えてきた。 白い馬、茶色い馬、黒い馬、まだらの馬、ありとあらゆる模様の馬に騎乗して、色とりどりの服を来た者たちがこちらへむかってくる。

「ヘクター」

 不安になって、身を縮めた。

「こっちに来てろ」

 騎馬の人々は野営地を見つけるとその周りをぐるぐると馬で走り始めた。二人は彼らに取り囲まれながら、ただそれを見ているしかない。

 やがて誰かの号令と共に馬が止まり、一人の男が下りてこちらにやってきた。

「我らはこの草原を統べる民、ゴカルぞ。そのゴカルの許可なくして火を焚くとは、何事だ」

 ヘクターは立ち上がって両手を広げ、敵意がないことを示して男に近寄った。

「すまない。北に行く者だ。ここを通らせてくれ」

「街道を行けばよい。ここはゴカルの土地、よそ者が通っていい場所ではない」

「そう言わずに、頼むよ」

 大勢の人間に囲まれて、フーチが興奮している。若い男が馬から下りて、フーチの側に立ちその首を撫でた。

「父上、いい馬です。私にください」

 するとヘクターと話していた男は彼を振り向きもせず、

「いいだろう」

 と言った。

「おいおい待てよ」

 これにはヘクターが黙っていなかった。

「こいつは俺の馬だ。俺の相棒だ。誰かにくださいでは差し上げますってなもんじゃねえんだよ。他を当たってくれ」

「買えばよい。お前たちはなんでも金で始末をつけたがる。新しい馬を、買えばよいのだ」

「相棒は金で買うもんじゃねえ」

 男とヘクターが睨み合った。フーチを撫でていた若い男が近くまで来て、こう言った。「では、こうしましょう。あなたと私で、勝負をする。私が勝てばあの馬は私のもの、あなたが勝てばあなた方はここを通ってもよいというのではどうです」

「おもしれえ。やってやろうじゃねえか」

 ヘクターの青い目がぎらりと光った。

「では、我々のテントに案内する。勝負はそこでする」

 男たちは騎乗し、それに従っていた大勢の人間もまた移動した。

 オルキデアは馬に揺られながら、ヘクターを振り返った。

「ヘクター」

「なんだ」

「あのひとたちは、一体……」

「ありゃ草原の民と呼ばれる騎馬民族、ゴカルだ。羊を連れて牧草地から牧草地を移動して、そうやって暮らしているのよ」

「そんなひとたちと勝負などして、大丈夫なのですか」

「ちっとも大丈夫じゃねえ。しかし負けるわけにはいかん」

 あちらの方に、白い点のようなものがちらほらと見えてきた。

「あれがあいつらが暮らすテントだ。組み立て式になってて、運べるようになってる」

 円いそれのなかから、女たちが出てきた。側では、羊が草を食んでいる。

 先程ヘクターと話していた父子がその内の一人と話していて、すぐにこちらにやってきた。

「よそ者、私と勝負だ」

「なにで勝負する」

「弓だ」

 ヘクターは悟られないように舌打ちした。弓は、騎馬民族のお家芸だ。勝てるはずなどない。しかし、ここで嫌だと言うわけにもいかない。

「いいとも」

「弓は馬に乗って射る。的は、あれだ」

 若い男が指差す方向を見ると、円形の的が三つあるのが見えた。

 ヘクターは勝てる見込みのない勝負を引き受けてしまった己を呪いながら、フーチの手綱をぎゅっと握った。黒馬は、ひひんと鳴いて彼に鼻面をすり寄せてきた。

「よしよし、お前を誰かにやったりしないからな」

「イル、用意しろ」

 父子の父の方が息子を呼んだ。

 息子は馬にひらりと飛び乗ると弓を受け取り、勢いをつけて助走して、それから的のある方向に馬首を巡らせた。

 そして一気に駆け抜けると、騎乗したまま弓を構えて矢を放った。

 一つ目の的には、隅に当たった。

 息子が矢をつがえた。馬が全速力で駆け抜ける。

 二つ目の的の中心に、矢が当たった。歓声が沸き起こった。

 三つ目の的には、左隅に当たった。

 乗馬の腕は無論のこと、その使いこなれた弓の手さばきに、オルキデアは見惚れた。あんなすごい弓の射手に、ヘクターは勝てるだろうか。しかし、負ければ彼はフーチを失う。 あんなに大切にしている馬をである。ヘクターは息子が馬から下りて周囲の人々の賞賛を受けるのを見て、歯噛みした。

 勝てるか。いや、勝たなくちゃならねえ。

 フーチが興奮したように嘶いた。

「頼むぜ相棒」

 フーチの側にいた男が、彼に手綱を渡した。ヘクターはそれを受け取って、鞍に飛び乗った。そして全速力で馬を駆った。

 弓を引き絞り、的を狙う。

「――」

 一本目の矢が、的の隅に刺さった。

 オルキデアは両手を胸の前で握り締めて、祈るようにそれを見守った。

 誰か、どうかヘクターを勝たせて。彼からフーチを奪わないで。

 ヘクターが騎乗で弓を引く。

 二本目の矢が当たるかどうか、という瞬間、黒馬が竿立ちになって暴れた。それと同時に、ヘクターの乗っていた鞍が外れ、彼は落馬した。

「イルの勝ちだ」

 誰かが言うその言葉を、オルキデアは遠くで聞いていた。そんな。では、ヘクターはどうなるの?

 落馬したヘクターはしばらく動けない様子である。それを案ずるかのように、フーチが側で様子を見ている。

「待て」

 人々が歓声を上げて喜び合うのを、息子が止めた。彼は倒れるヘクターの側へ歩み寄り、主の元から離れようとしない馬の鞍を調べて、顔色を変えた。

「腹帯が、切られている。誰かが細工したな」

 息子は先程ヘクターに手綱を渡した男を呼び、問いただした。

「お前、なにをした」

「俺はなにも……」

「あんなに馬を大切にする男が、腹帯が切れたまま騎乗などするはずがない。なにをした」

 父が近くまでやってきて、男の目を見た。

「腹帯を切ったのは、お前だな」

「……」

 男はくさったようにうつむいた。息子が声を張り上げた。

「この勝負は、なしだ」

 ヘクターが痛みに顔を顰めながら、ようやく起き上がった。

「よそ者、お前は負けていない。お前はわざと落馬させられたのだ」

「なんだって……?」

 ヘクターはまだ、まともに息ができないようである。なにを言われたのかわからなくてしきりに痛みに耐えているヘクターの元へ、オルキデアが駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか」

「ちっとも大丈夫じゃねえ。息ができん」

「よそ者、泊っていけ。飯も食え。私は負けてはいないが、お前が勝ったわけでもない。 勝負は、お預けだ」

「いいだろう」

 知らない内にそういうことになってしまって、ヘクターはまだ意味がわからない。

「腹帯は、新しいのをこちらで用意する。その間ここに留まっているといい」

「なんかよくわからねえけどこれでいいみたいだ」

 ヘクターはそう呟くと、フーチの首を撫でた。黒馬がまた、ひひんと鳴いた。

「よそ者、名をなんという」

「ヘクターだ」

「私はイルだ。我々はよそ者は嫌うが、客はもてなす。お前は、客だ」

「そりゃどうも」

 テントに連れられていき、そこで馬の乳の酒を振る舞われた。その強さに、ヘクターが盛大にむせた。それを見て、母親らしき女が笑った。

「イル、羊を一頭つぶせ。客人をもてなさなければ」

「はい父上」

 父親がテントにやってきてイルに言い、そこに座った。

「お前はいい度胸をしている。息子と弓の勝負など、誰もしない」

「相棒がかかってるんじゃ仕方ねえ」

 ヘクターは酒を勧められながらこたえる。

 夜になって、焼いた羊が供された。ゴカルの民は、飲むと陽気になる。もう飲めないと言っているのに、ヘクターは何杯も付き合わされた。

 テントのなかは温かく、簡易ベッドのようなものがあった。オルキデアはイルとその家族と共に、そこで眠った。

 朝になると、母親が食事の支度をしている。鍋で、なにかを煮ているようである。

「よう、起きたな」

 ヘクターがテントの入り口にやってきて、声をかけてきた。

「馬の鞍の腹帯は、そう簡単に付け替えられるものじゃねえ。時間がかかるかもな」

 広がる大草原を見ていると、胸がすっとした。気温は低く、季節は十一番目の月の前半、立冬を迎えようとしている。

「お前、きれいだな」

「え?」

「昨日は勝負に夢中で、よく見ていなかった」

 イルがオルキデアの側にやってきて、こんなことを言った。

「ヘクター、この女を私にくれ」

 イルがヘクターに言うのに、オルキデアは仰天して振り返った。

「だめだ。そいつは俺のもんだ」

「へ、ヘクター」

「では、私と勝負しろ。私が勝ったら、この女と結婚する。お前が勝ったら、お前のものだ」

「元々俺のもんだ。俺の得にならねえ勝負だ」

「ではお前が勝ったら、私の弓をやる」

 ヘクターは飲んでいた馬の乳をそこへ放ると、にやりと笑った。

「おもしれえ」

 男たちが集まってきて、イルとヘクターを円く囲った。二人はそこで上半身を脱ぎ、向かい合った。

「ゴカルの民は、女を賭ける時取っ組み合いをする。先に音を上げた方が負けだ」

「いいだろう」

 オルキデアは男たちが輪になっているので、ヘクターの側に行けない。そうこうする内に合図がされて、イルとヘクターが組み手をし始めた。二人は肩を掴み合い、角を突き合わせる水牛のように睨み合った。

 イルが気合いの声と共に、ヘクターを持ち上げて放り投げた。彼はすぐに起き上がり、イルの足を蹴り払う。男たちがわあわあと歓声を上げてそれを見守り、オルキデアははらはらし通しで気が気ではない。

 何度も打ち付けられ、放り投げ、取っ組み合って、両者は土だらけになった。どちらにも疲れが見え始め、肩で息をするようになった時、ヘクターが動いた。

 彼は気合いの声と共にイルの腰に組みつき、彼を持ち上げてしまうと、そのまま大地に投げた。そしてふらふらになって、自分も倒れた。

 イルもヘクターも、起き上がらない。男たちが二人を囃し立てた。

「また引き分けだ、ヘクター」

「おうよ」

 ぜいぜいと息をしながらやっとのことでこたえると、ヘクターは大きく息を吐いた。オルキデアが側にやってきて、

「大丈夫ですか」

「昨日からそればっかだな。大丈夫じゃねえ。全身打ち身だ」

 そこから起き上がることも立ち上がることもできずに、ヘクターは空を見上げた。

 冬の水色の空が映えて、彼の顔も同じ色になっていた。

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