第二章 2

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 五日が経ち、新しい腹帯ができて、鞍が修復された。その間にイルとヘクターはすっかり打ち解けて、イルは彼を兄弟とまで呼ぶようになった。

 腹帯が新しく取り付けられたのなら、出発である。

 旅立ちの朝、イルはヘクターに自分の弓を渡した。

「行くのか、兄弟」

「ああ。行かなくちゃなんねえ」

「また近くに来たら、私を訪ねろ。それまで、この弓はお前のものだ」

「いいのかよ」

「ゴカルの弓は、親愛の証だ。親兄弟の契りを結んだ者にしか渡さない」

 ヘクターはその強靭な弓をしみじみと見て、

「じゃあ受け取っておく」

「次に会ったときは、また私と勝負しよう」

「おうよ」

 そうしてゴカルの民と別れ、二人と一頭はまた草原を渡った。

「よかったですね」

「なにがだ」

「親しいお友達ができて」

 ヘクターはまじまじとオルキデアを見た。

「俺に友達なんていねえ」

「嘘。弓をもらったじゃありませんか」

「なりゆきだ」

 ふふ、と笑った。

「そういうことにしておきましょう」

 少し行くと、また道が見えてきた。

「あれは昔使われていた街道だ。でもあっちの方が便利だってんで、ここはほとんど人が通らなくなった。お誂え向きだ」

 そうして夜になって野宿になって、ヘクターは手元の食料が少なくなってきたから狩りに行く、と言って出かけていった。

 しばらくすると彼はうさぎを二羽持って帰って、

「少し小さいが、二人分には充分だ」

 とそれを捌き始めた。

 冬の冷たい空気が、しんしんとせまってきている。敷き物を敷いて横になっても、寒くてなかなか寝られなかった。

 ヘクターの異変に気づいたのは、その翌朝になってからであった。どうも、気だるげにしていて覇気がないのである。

「手洗いに行っておけよ」

 という声も、力が入っていない。目はどことなく虚ろで、心なしか足取りもふらついている。

「どうかしたのですか」

「なんでもねえ」

 言うや、彼はオルキデアにもたれかかるようにしてずるずると倒れてしまった。オルキデアは仰天して、彼を揺り起こした。

「ヘクター、ヘクター」

 しかし、ヘクターは唸り声を上げるだけで返事をしない。身体に触れると、ひどい熱があった。

 どうしよう。ゴカルのひとたちの側にいればよかった。

 しかし、今は自分一人である。己でなんとかするしか、ないのだ。

「ヘクター、起きてください」

 オルキデアはヘクターを抱き起こして、朦朧とする彼を立たせた。そして、ひどく苦労してフーチの背に乗せた。男の身体は重たく、彼女の手には余った。

「行きましょう」

 フーチが不安げに鼻を鳴らしている。オルキデアは手綱を取って、道を行き始めた。

 どうしよう。とにかく、誰かに診せなければ。

 ヘクターが火を熾すのは見ていたが、自分でそれができるとは思えない。野営は、無理だ。それにこんな病人がいては、それどころではないだろう。

 日が傾き、夕暮れになってきた。焦るオルキデアの目に、一軒の廃墟が見えた。彼女は家のなかを調べると、ベッドであったらしき場所にヘクターをなんとかして運び、そこに寝かせた。

 彼は、目を覚まさない。熱もひどいようだ。

 とにかく、火を熾さなければならない。薪を拾ってきて、暖炉にくべた。そして、ヘクターがやっていたように火をつける努力をした。寒くて、手がかじかむ。

 何度も何度も失敗して、夕闇がせまり、手元が暗くなってきた。点け、点け、点け。

 オルキデアは祈りながら、震える指でほくち箱を擦った。

 ボッ、とオレンジ色の炎が灯って、慌てて暖炉にそれを移した。次第にあかあかと火が燃え始めて、暖気が室内を覆う。よかった、と一安心していると、腹が減ってきた。しかし、今はそれどころではない。

 水はないのだろうか。人が住んでいたのなら、井戸がどこかにあるはずだ。

 表に出て、薄暗いなかを探して回った。少し歩いたところに、古びた井戸があった。まだ水が残っているだろうかと不安になりながら水を汲む。清潔なものでありますように、飲めなくてもいいから、ヘクターの身体を冷やせますようにと祈りながら桶を引き上げた。 そうして水を汲むと、重いそれを家まで運んだ。そして布を取り出して水に浸し、固く絞ってヘクターの額に乗せた。

 汗をかいている。ひどい熱だ。

 医者がいればいいが、人が住まない場所である。そんなものはいないだろう。

 オルキデアは蝋燭の燃え残りを探し出して、側に置いた。とりあえず、火はある。寒くてこれ以上悪くすることはないだろう。しかし医家の手がないのなら、よくもならない。 熱にうなされるヘクターの側で一晩中、布に水を含ませては彼の額に置く、ということだけを繰り返していた。

 馬が、その辺にある草を食んでいる。水をやりたいが、暗くて清潔な水かどうかはわからない。朝になるのを待った。

 そうして彼の枕元にどれだけの間いたことだろう。

 疲れ果ててうつらうつらとしていると、朝日が差し込んできている。それには気づかず、オルキデアは眠ってしまっていた。

 目を覚ましたヘクターは、起き上がってそれを見た。

 なんだ。なにがあった。ここはどこだ。

 傍らを見ると、オルキデアがこっくりこっくりとうたた寝をしている。身体はまだ熱く、全身がだるかった。

 倒れてからの記憶が、一切ない。その前になにをしていたのかも、よく覚えていない。 しかし、ここまでやって来るのにこの細腕の女がどれだけ苦労したかくらいは、理解できた。暖炉には、火まで灯っている。

「おい、おい」

 身体はまだ熱い。本復していないのだ。ヘクターはオルキデアを揺り起こして、彼女がはっと目覚めると、

「なにがあった」

 と尋ねた。

「あ……ヘクター。目を覚ましたのですね」

 彼女は疲れた顔で無理して笑うと、ふらふらと立ち上がろうとした。

「どこに行きやがる。座ってろ。へろへろじゃねえか」

「水を取り替えようと……」

 水だと。そんなもの、どこにある。汲んできたのか。呆気に取られていると、オルキデアはそのままふらりとなり、そのまま眠ってしまった。

 心身の限界がきたのだろう。

 ヘクターは重い身体をなんとか励まして、表に出た。黒馬がこちらに駆け寄ってきて、鼻をこすりつけてきた。

「お前がここまで運んでくれたのか」

 そしてあちらの方を見ると、だいぶ遠い場所に井戸があった。ヘクターはそこに行って水を汲むと、熱で火照る顔をつけて冷ました。そうするとようやく事態が飲み込めてきて、ふらつく頭も大分はっきりとしてきた。

 とにかく、なにか口にしないと。

 そう思って、荷物から食料を出した。オルキデアはベッドであったらしきものの上に乗って、すやすやと眠っている。

 干し肉を暖炉の火で炙って、無理矢理胃に流し込んだ。肉は硬く、病身の彼には少々荷が重たかった。

 身体が、だるい。うまく歩けない。しかし、朦朧としているわけではない。これなら馬にも乗れるだろう。

 水を汲んできて、フーチにやった。それだけでもかなりの重労働になるほど、今のヘクターは弱っていた。

 昼過ぎになって、オルキデアが目を覚ました。

「よう、起きたな」

 ふらつく頭を励まして言うと、その金色がかった緑の瞳を見開いて、彼女はがばっと起き上がった。

「ヘクター、寝ていなくてはだめです」

「もう平気だ。あんたが起きたのなら、出発だ。飯があるから、食っておけ」

「だめですだめです」

 ふらりと外に出ようとするヘクターを、オルキデアは慌てて止めた。

「平気だってば。ちょっとゆらゆらするだけだ。馬には乗れる」

「でも」

「俺はいいから、食ってろ」

 彼女を無理矢理座らせて、ヘクターは馬の準備をした。

 暖炉の火を始末し、身支度らしいものも整えずに、オルキデアは彼を追ってきた。

「馬に、乗れますか」

「心配すんな。元気百倍だ」

 よろめきながらなんとか騎乗し、馬を進める。

 後ろに座るヘクターの身体が、熱い。オルキデアは不安になって何度も彼を見上げた。 荒い息で、苦しそうにしているのが痛々しかった。

 夕暮れがやってきてなんとか人家を探さなくては、と思う内に、人里が見え始めた。そこに酒場の看板を見出したオルキデアは、ヘクターを振り返った。

「ヘクター、あそこで休みましょう」

 後ろにいる彼は、曖昧な返事を寄越した。

「さあ早く」

 そしてふらふらになった彼をなんとかして馬から下ろすと、オルキデアは店の主人に病人がいる、宿を借りたいと告げた。人がやってきてヘクターを支え、二人は部屋に通された。

 まともな寝床があれば、少しはいいだろう。ここなら、薬湯くらいはもらえる。

 そうして、三日近くもヘクターは眠り続けた。

 五日も経てば顔色が元の通りになり、起き上がって階下で食事ができるまでになった。「よかった。すっかり元気ですね」

「元から元気だ」

 強がる彼を、オルキデアはくすくすと笑いながら見ている。

「笑うな」

「笑ってなんかいません」

「笑ってる」

「笑ってません」

 ヘクターは苦い顔になり、あちらをむいてしまった。

 人に弱みを見せないように生きてきた自分がまさかこのようなことになるとは、ヘクターは思ってもみなかった。そして、金貨の山扱いしている目の前のこの王女がこれだけのことをしてくれたのにも、驚いていた。

「お母様のことを、思い出していました」

「母親?」

 はい、オルキデアはうなづく。

「さらわれる前、お母様はこう言ったのです。ひとにされたくないことは、誰かにもしない。ひとにされて嬉しいことを、してあげなさいって」

「……」

 それはそうかもしれない。しかし、その生き方は自分がやってきたものではない。

 強い者が生き延び、弱い者は食われて死んでいく、そんな世界にヘクターは生きてきた。 冷たい冬の日の雨からも、飢えをしのぐために啜った泥水で病気になった時も、誰も助けてはくれなかった。頼れるのは、自分だけだった。

「だから、されて嬉しいかもしれないと思ったことをしました」

 目の前で微笑むオルキデアを見ていると、そのぬるさに微かな苛立ちを感じた。

 ヘクターはふん、と鼻で嗤った。

「俺は誰にされても嬉しいことなんざないね」

 言うや、彼は立ち上がった。

「食ったら、風呂だ。行くぞ」

「は、はい」

 ヘクターにとっては、久し振りの入浴である。冬で寒いこともあって、彼はオルキデアと同じくらいに外に出てきた。

「身体が冷えるな。早く戻ろう」

「もう、草原は見えなくなりました。この後はどうやって行くのですか」

「森を行く。そこを抜けて、大雪山だ」

 森ならば、オルキデアは少しは詳しい。幼い頃からずっと暮らしてきた場所だ。

 この先にはなにがあるのだろう――と考えて、国に着いたらこの男とは離れ離れになるということに思い当たった。なぜか胸が痛んだが、それがなぜかまでは、わからなかった。

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