第一章 3

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 砂漠の隅のレコルという小さな街に、ヘクターは産まれた。捨て子だった。

 誰の子かわからない孤児を引き取って育てるほどの余裕のある人間は、この街にはいなかった。ヘクターは歓楽街の残飯を漁って生き延び、そこの客たちの飲み残しの酒で喉を潤した。

 この世の誰も、信じられるものはいなかった。信じられるのは、ただ一人自分のみであった。雨季になると、泥水を啜って生き延びた。

 十の歳に、初めて人を殺した。パンのかけらを奪い合って、もつれにもつれてつい殺してしまったのがきっかけだった。

 それについては、特になにも感じなかった。感じるのはただ、空腹ということのみであった。いつも腹が減っていた。空腹にたまりかねて裏路地に座り空を見上げていると、そんなことは知らないとでも言いたげな青い空が建物に切り取られて見えた。

 この街では、空すらも小さかった。

 幼い彼に、娼婦たちは同情してよく食べ物をくれた。水をくれたこともあった。時には金を恵んでくれる女すらいた。

 金をくれる女は大抵彼と寝たがっていて、それに気づいた時にはもう女たちを抱いていた。一晩に何人もの客と寝なければならない彼女たちは、せめて自分の好みの男と寝ることでその鬱憤を晴らしていたのだろう。ヘクターはその恰好の的だったというわけだ。

 女に買われることもあれば、男に買われることもあった。生きていく為には、なんでもしなければならなかった。そのために生じる苦痛や屈辱など、なんでもなかった。

 十三になって街を飛び出したヘクターは、やがて剣を持って人と戦うことを生業とするようになった。戦に出たこともあった。盗賊の真似事をしたこともある。

 そうして賞金稼ぎという仕事に収まった彼は、やはり世間のなにものをも信じていなかった。信じられるのは自分と金、それだけだった。

 女たちは彼に金がない時でも優しくしてくれて、無償で宿を貸してくれた。そういう時、彼女たちはヘクターと寝ようとしなかった。ただ弱いものが困っているという庇護の思いから、そうされていたのである。

 だからそのお返しに、娼婦を買う時はとびきり丁寧に女たちを扱った。会えば恋人にするように抱いた。一晩に何人もの客をこなさなくてもいいように、一晩中貸し切りの金額を払った。

 彼女たちが味わっている屈辱や無力感は、自分が歩いてきたもののなかにも同じようにあるものだった。彼と娼婦たちは、同じものだった。

 同じなら、それなりに慎重に扱うのが礼儀というものだ。

 ヘクターはたちまち娼婦たちの人気者になった。夜眠らせてくれる客、こっちの嫌がることは強要しない、まるで愛しい女にするみたいに抱いてくれる客と、評判が立った。

 剣の腕でも、ヘクターは誰にもひけを取らなかった。

 殺さなければ、殺される。

 そんなわかりやすい暮らしは、裏街道を歩いてきた彼にとっては僥倖だった。稼げるだけ稼いで、いいだけ貯めて、遣いたい時に遣う。どうせ俺みたいな生き方してる人間はろくな死に方をしねえ。

 だったら、好きなように生きるのが楽ってもんだ。ヘクターはそう思っていた。

 そんな時に彼の目に飛び込んできたあの金色がかった緑の瞳の娘は、ヘクターをよく混乱させた。

 およそ彼に人殺しはならないと説教する者など、誰もいなかったのである。

 殺すな、だと? 笑わせるな。

 酒を飲みながら、へっ、と言葉が出る。

 殺ししか、俺は知らねえ。殺すことで生き延びてきた。殺さなかったら、こっちが殺される。それが俺の生きる世界だ。

「ねえヘクター、なにを考えてるの」

 その分厚い胸に指を這わせながら、さっき抱いた女がしなだれかかってくる。

「お前のことだよ」

「あら嬉しい」

 女の嬌声を聞きながら、今頃あの大男もあの女とよろしくやってるだろうな、とちらりと考えた。

 ヘクター、殺しはなりません。

 あの緑の瞳、金色がかった不思議な緑の目が、こちらを見ている。

 砂漠は、きれいなところですね。

 その言葉が脳裏に蘇る。

 あなたは、あの馬に名をつけているのですね。かわいがっているのですね。

 動きを止め、目をじっと閉じた。

「あらん、どうしたのん」

 女がとろんとした目つきで見てくる。

 ヘクター、ヘクター。あの声が頭にこだまする。

「……くそっ」

 ヘクターは起き上がって女を押し退け、立ち上がり服を着ると、駆け足で娼館を出た。 そしてあの屋敷を目指して走り出していた。

 一方のオルキデアはというと、ヘクターに売り払われた後、召し使いたちがやってきて別室に連れて行かれ、たっぷりと湯の入った浴槽のある大きな浴室で身体を入念に洗われ、香油まで塗られ、身体を拭いてそこから上がると、絹の服を着せられた。そして、そこに溢れんばかりに置かれている金銀財宝のなかから選びだされた宝石に身を飾り、また部屋に連れて行かれた。

 そこはあの大男の寝室で、部屋はだだっ広く、ベッドも特別誂えの大きなもので、人が五人は横になれそうな幅があった。

「こっちに来い」

 そのベッドの上で酒を飲んでいた大男は彼女を手招きすると召し使いたちを下がらせ、オルキデアを近くまで寄せた。

 荒い鼻息が、ここまで聞こえてくる。これから起こりうることを考えると、絶望で目の前が真っ暗になった。

 震える身体を励まして、前に出る。大男がたまりかねて、乱暴にその腕を引っ張った。

「きゃっ」

「おとなしくしねえか。悪いようにはさせねえ。ちょっと我慢してりゃ、気持ちよくなるからよ」

 脂ぎった手で腿を撫でられ、鳥肌が立った。

「嫌です。放して」

「おおっと」

 逃げようとしたところへ、足首を掴まれてそのまま引っ張られた。そして、着ているものを滅茶苦茶に切り裂かれた。

「嫌がる女を従わせるのは気持ちがいいんだ。もっと嫌がれ」

「いや。やめて」

 ベッドの上で這いずるように逃げる。しかし、追求の手はやまない。布切れになった服の切れ端でなんとか身体を覆って、それでも逃げた。

「もっと逃げろ。その方が燃える」

「いやです……誰か……誰かたすけて」

「呼んでも誰も来ねえよ」

「誰か……ヘクター……」

「あいつはあんたを売っ払った金で、今頃女とよろしくしてるだろ。俺たちもそうするとしよう」

 びりびりと服を破られて、目尻から涙が滲んだ。

「ヘクター……ヘクターたすけて」

「あいつは来ねえ。誰も来ねえ」

 足を舐められて、怖気が奔った。下半身に手が伸びてくる。これまでだ、とぎゅっと目を瞑ると、なにかがなにかにぶつかった鈍い音がした。

「? ……」

 そっと目を開けると、大男はうつ伏せに伸びていて、ベッドの上には見覚えのある顔が立っていた。

「ヘクター」

「誰も来ねえと言っておきながら、俺が来たぜ」

 彼は持っていた壺をそこに放ると、ちらりとオルキデアのあられもない姿を見て、それから辺りを見回した。

 そして側にあった服を彼女に投げてよこすと、

「着ろ。早くしろよ」

「ヘクター、来てくれたのですね」

「八百枚よか二十三万枚の方がよっぽど値打ちがあると思ったからこうしたまでだ。出るぞ」

 オルキデアは彼が自分の方を見ないようにしているのに気づいて、それで初めて自分の姿にはっとなって、慌てて投げられた服を着た。

「どうやってここまで来たのですか」

「窓から忍び込むなんてのはお手の物だ」

 そう言って首にオルキデアを掴まらせ、ヘクターは窓の外から侵入した時と同じように、縄を伝っていった。そうして階下に下りると、

「あいつは女を抱いたあとには必ず湯を浴びる。すぐに使用人にみつかるだろう」

 と低く言って走り出した。

 裏口にはフーチが根気強く待っていて、彼を見ると前足を掻いて喜んだ。

「待たせたな相棒。さ、トンズラするぜ」

 言うやオルキデアを引っ張り上げて鞍に乗せ、ヘクターは夜の街を走り出した。

 そして一気に砂漠に出てしまうと、後ろを振り返った。

「これで俺もしばらくこの辺りには近寄れねえ。あいつを敵に回しちまったからな」

 そう言って一昼夜、休むことなく馬を歩かせ続けた。

 そうして砂漠の果てまでやってくると、徐々に砂が姿を消し、代わって緑が目立つようになってきた。

 そこを少し行くと、草地に出た。

「ここまで来れば追って来られないだろう。ひと安心だ」

 オルキデアは背後のヘクターがそう言うのを聞いて、思わず振り返って彼を見上げていた。

「ヘクター」

「なんだ」

「どうして私を助けてくださったのですか」

 すると彼は少し困ったように言葉に詰まり、もごもごと口のなかでなにかを言うと、

やがて吐き捨てるように告げた。

「言ったろ。八百枚より二十三万枚の方が価値があるってもんだ。それに」

「それに?」

「……あの薄気味悪い男が満足そうにしてるのを思い出すと、なんだか腹が立ったのよ」 それより、と彼は言葉を継いだ。

「あんたも、俺の名を呼んでいたな」

「えっ……」

「窓から様子を窺ってたから、見聞きはできた。あんた、俺の名を呼んだな。なぜだ」

「……」

 オルキデアはうつむいた。そんなこと、考えもしなかった。ただ恐くて、逃げ出したくて、夢中になっていた。

「なぜでしょう……」

 彼女は頭のなかで懸命に言葉を探して、それを見つけ出そうとしているようだった。

「呼べばあなたが来てくれる、そんな気がしたのかもしれません」

「へっ」

 ヘクターはそこに唾でも吐かんばかりの勢いでこう返した。

「俺は正義の味方じゃねえぜ。もらうもんはきっちりもらう。あんたを国まで届けて、金貨二十三万枚を頂く」

 それでいいと、オルキデアは思った。自分にその価値がある限りは、この乱暴な男は自分を守ってくれるだろう。

「道中俺がなにをしようと、指図するな。したらまた、売るからな」

「でも、なるべく人は殺してほしくありません」

 物怖じせずに鞍の上で言うオルキデアの声を聞くと、うっと言葉に詰まる。

「努力する。歩み寄りだ。だからあんたも、少しは目を瞑れ」

「歩み寄りですね」

「そうだ。歩み寄りだ」

「わかりました」

 オルキデアは知らず知らずの内に微笑んでいた。容赦がないだけで、悪い男ではないのだ。そう思った。

 馬は間もなく草原の地を踏もうとしていた。

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