第一章 2

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 ヘクターは無敵の傭兵、ひとたび剣を握らせれば電光石火の素早さ、旭日昇天の勢いで敵を薙ぎ倒す、疲れを知らず血を浴び続ける姿は闘う水牛のようだと恐れられた。

 また、女の扱いにもヘクターは長けていた。一度抱かれたら忘れられない、娼婦たちはうっとりとしてその背中を見送り、口々にそう言った。

 そんなヘクターが信じるものはただ一つ、金だというのだから、およそこの男がどういう人生を歩んできたかはそれで少しはわかろうというものだ。

 どんなに親しくしていても、相手が男だろうが女だろうが次の日にはその首に賞金がかけられれば、大抵ヘクターが最初に動いてその首を持ってくる。

 そこには温情だとか、人情というものは一切ない。

 そんなヘクターが、今日もまた血の垂れる袋を下げて登録所にやってきた。

「ようヘクター。なんか用か」

 受付のダレルが、煙草をふかしながらヘクターに尋ねる。

「なんか用か、じゃねえ。こんなしけたところに来るのは用事があるからだ」

「ご挨拶だな。今日の獲物はそれか。見せてみな」

 ヘクターは肩に下げていた袋をぞんざいにダレルに投げてよこした。その中身を見て、ダレルは眉を寄せた。

「おいおい、こいつはもしかすると≪四つの樫の木≫通りのリーンじゃねえか」

「もしかするとじゃねえ、正真正銘のご本人様だ」

「お前、こいつとこの前飲んでたじゃねえかよ。ダチじゃなかったのか」

「そんなもんはいねえよ。首に金がかかってたから切った、それだけのことだ」

 ほれ、とヘクターは手を差し出した。その掌に、ダレルは決められた賞金の入った革袋を乗せた。

「やれやれ、お前にかかっちゃあひとたまりもないな。俺も気をつけなくちゃ」

「お前に賞金がかかったら真っ先に来て叩き切ってやらあ」

 そう言い捨てると、ヘクターは登録所から出ていった。向かうは歓楽街、女でも抱くつもりであった。

 なじみの娼婦、というものを、ヘクターは持たない。女となじみになってもいいことなどない、いつか弱みになって寝首を掻かれるか、そうでなくても面倒なことになるのがおちだと言って、いつも違う娼館に行った。

 その日も適当な妓≪おんな≫を選び、飲み、抱いて、ヘクターは情事の余韻に浸っていた。その厚い胸に指を置いて、女がしなだれかかった。

「ねえヘクター、どうしてなじみを作らないの。みんな自分こそはって息巻いてるのよ」「へっ」

 ヘクターは頭の後ろに両手を組み、天井を見つめながらこたえる。

「そんなもん、面倒でかなわねえ。なじみなんか作った日にゃあ、他の女が抱けやしねえ。 やれ浮気しただの自分の男だの、女どうしで諍いが起こるに決まってる。ご免だね」

「つれないのねえ」

「いいから湯でも浴びてこい。それから、酒だ」

「はいはい」

 女がベッドを出ていくと、入れ違いに酒が運ばれてきた。どんな娼婦でも、ヘクターは女をぞんざいに扱わない。まるで自分の恋人でもするかのように丁寧に抱き、熱く燃え上がり、そしてすぐに冷めるのだ。

 そんなヘクターを、娼婦たちは歓迎した。

 彼が客につけば、その夜別の客をとらなくてもいいし、湯は浴びに行かせてくれるし、それに、眠らせてくれる。多くが人間扱いされない彼女たちにとって、ヘクターは英雄のように崇められていた。

 女が湯から出てくると、ヘクターは服を着た。

「あら、もう行っちゃうのん」

「お前はここで寝てろ。金は一晩分払ったから、好きにしていい」

「ありがとねえヘクター様ぁ」

 女の粘っこい声を背に、ヘクターは夜の街を歩いた。あちこちの窓から、ヘクター、こっちに来なさいよ、ヘクター、寄っていかないと声がかかる。いちいちそれにこたえながら、彼はフーチの元までやってきた。

 黒馬は彼を見ると荒い息を吐いた。

「そう怒るなよ。あとでお前の好物をやるから」

 フーチに乗ると、軽く声をかけて走り出した。これから別の街に行ってまた賞金でも稼ぐか、そう思っての移動である。今出ていけば、あちらには昼前には着くだろう。

 翌日街道からそれて、森を行った。どこで誰に出くわすかわからない、賞金稼ぎの身体である。目立つ道は避けたかった。

 しかし、それがいけなかった。森に入った途端、ヘクターは迷ってしまったのである。「こりゃいかんな。地図でもあればいいんだがな」

 フーチの首を撫でながら、ヘクターは独りごちた。なんのことはない、すぐに出られると思って気にせずに、勘を頼りにずんずん奥へ進んでいった。

 しかしどれだけ馬を進めても森は益々深くなっていく一方で、道など見つかりそうにもない。

「参ったな」

 と呟いていると、黒い樹々のむこうになにか白いものが見え隠れしているのに気づいた。 塔だ。

 近くまで行くと、螺旋にねじれた外観を持つものであることがわかる。見上げると、高いところに小さな窓が一つついていた。

 あそこから森の外が見られるかな。

 そう思って、なにも考えずに入り口らしき扉を開け階段を上った。螺旋階段を行くと、なにか不可思議な香りが漂ってくるのに気づいた。

 なんだ? 香のにおいか。

 人でもいるのか。こんな森深い塔の上で、一体なにをしているというのだ。やがて行き止まりに行き当たると、少し迷ってそこの扉を開けた。

 風が、ヘクターの黒い髪を舞い上げた。

「――」

 彼は息を飲んだ。

 そこには、黒く長い髪を持つ女が一人、立っていたのである。

「なん……」

 絶句していると、女の方も彼の突然の来訪に驚いたようである。

「きゃーっ」

 と悲鳴を上げて、近くのものをあるだけヘクターに投げつけてきた。

 手鏡、櫛、帳面、インク瓶、枕。

「ちょっ……やめろって」

 それらを必死でよけながら、ヘクターはなぜこんなに若い女がこんな場所にいるのだろうと考えていた。

「待て待て待て。待てったら」

 女が椅子を持ち上げたので、たまりかねてヘクターは両手を上げた。

「待て。俺は怪しいもんじゃねえ」

「あ、怪しいひとに限ってそう言うのだとおばあさまが言っていました」

「そいつは正しい。正しいが、この場合は違う」

「きゃーっ」

 ヘクターが近寄ろうとしたので、女がまた悲鳴を上げて椅子を投げつけてきた。それをすんでのところでよけて、ヘクターは女の側まで素早く移動した。

「待てってば」

 そしてその両手を掴むと、これ以上別のものを彼にむけて投げないようにしっかりと自分の目の前に持ってきた。

「俺はヘクター。街道からそれた道を行っていたら、いつのまにか迷っちまった。森の出口を教えてくれりゃ、それでいい。すぐにでも出ていくから」

「森で……迷った?」

 女は息を切らせてその言葉を聞いた。

「そんなはずはありません。森には、誰も入って来られないはずです」

「んなことあるかい。現に俺はこうして入ってきた」

「入れもしなければ、出ることもできないはず」

「なんだと?」

「森の外には、出られません。私はそうしてここに閉じ込められているのです」

「閉じ込められてるだと」

 ヘクターは思わず聞き返した。冷徹無慈悲な賞金稼ぎではあるが、女にはやさしい、それがこの男なのである。

「誰だそんなひでえことしやがるのは」

「お、おばあさまです」

「どれくらい閉じ込められてるんだ。ひと月か、ふた月か」

「……十」

「うん?」

「十、三年になります」

 ヘクターは青い目を見開いて、女を見た。

「十三年だと……」

 途轍もなく長い年月である。彼は驚きを隠せずに女をしげしげと見た。

 腰の下まである、黒い長い髪。そして、緑の瞳。それが、陽の光を受けて時折金色に光った。

 あれ、どこかで聞いたような。どこだっけ。

「……あんた、名前は」

 ヘクターは女の腕を離し、なにかを思い出そうと部屋のなかを見回した。

 本棚に、ずらりと本が並んでいる。ベッドに鏡台に、机がある。その近くには、小さな扉があった。

「オルキデア、といいます」

「生まれは?」

「メルツァという国です」

 うん? メルツァのオルキデア? ヘクターはなにかを思い出して、懐からしわくちゃになった紙を取り出した。

『メルツァ王国第一王女 オルキデア・アレクサンドレッタ

 黒髪に金色がかった緑の瞳

 見つけた者には金貨二十三万枚』

 ヘクターの青い目が、その文字を見て躍った。

 彼は顔を上げて、オルキデアと名乗った女を見た。

 黒髪に、確かに金色がかった緑の目をしてる。この独特な色は、確かに一度見たらそう忘れられるもんじゃねえ。

「……あんた、メルツァの王女かい」

 オルキデアは迷いながらもこくりとうなづいた。

「十三年前にさらわれたっていう」

 すると、彼女はまたもうなづいた。

 金貨二十三万枚。

 いいぞ。俺にも運が向いてきた。

 ヘクターはオルキデアの腕を掴んだ。

「こうしちゃいられねえ。ここから出るぞ」

「出る……とは」

 扉を出て、階段を降りながらヘクターは急ぎ足である。

「あんたをさらった魔女がいつ帰ってくるかわからん。今のうちに逃げるんだ」

「それは無理です」

 階段の途中で、オルキデアは立ち止まった。

「この森からは、出られません」

「俺は入れた。ってことは、出られるってことだ」

 さあ早く、とヘクターはオルキデアの手を引いた。そして入り口まで階段を降りてくると、フーチにひらりと乗った。

「俺が出してやる。ついでに、国まで届けてやる。一緒に来い」

 オルキデアは自分に差し出されたその手をじっと見た。見上げると、青い目の男はこちらを一心に見つめている。

「……」

 黙ってその手に掴まって、馬に乗った。どうせ森から出られることなどない、あれだけ自分が試したのだから、と、半ば諦めの気持ちで、それでも森から出てみたいという好奇心に負けて、オルキデアはヘクターの手を取ったのである。

「南はどっちだ」

「あちらです」

 指差すと、ヘクターは馬首をそちらに向けて走り出した。

「南に行けば街道に出るはずだ。そこから砂漠へ向かう」

 馬に揺られながら、ヘクターはそう言った。

 砂漠……オルキデアの胸が躍る。

 本でしか読んだことのない、砂の地であるという。森の樹くらいしか見たことのない彼女にとっては、未知の世界だ。

 どんなところなのだろう、私はこれから、どうなるのだろう――オルキデアの胸の一抹の不安になど気づかず、ヘクターは夢中で馬を走らせていた。

 金貨二十三万枚。それだけあれば、一生楽して暮らせる。けちけち賞金稼ぎをしなくたって、生きていける。

 彼の頭にはそのことしかなかった。

「出たぞ。街道だ」

 ヘクターは馬を止めると、そこから走るのをやめて歩かせた。オルキデアは、それに驚きを隠せない。

 一体どうやって森の外に……私があれだけ出ようとしても、決して出られなかったというのに。それに、おばあさまが戻ってきて私がいないことに気づいたら、すぐに追ってくるだろう。そうしたら、このひとはどうなるのだろう。きっとひどい目に遭わされる。

 オルキデアはしきりに後ろを見ながら、魔女が追ってくるのを気にしていた。しかし、夜になっても街に着いても、老女はやってこなかった。

 それを不思議に思っている内にヘクターは宿を決め、そこで二人分の部屋を取ると、酒場で食事をし始めた。

「ほら、あんたも食えよ」

 初めて見る食べ物に、オルキデアの手が迷った。

「食い方わかんないのか。こう持って、こうだ」

 ヘクターがしているようにして食べる。ふつうに旨い。オルキデアは酒場の喧騒にびくびくしながら、ヘクターに言った。

「あ、あの……」

「うん?」

 肉を噛みながら、ヘクターは彼女を見た。

「じきに、おばあさまが追ってきます。見つかったら、痛い目に遭います」

「痛い目って、どんな目だ」

「それは……」

 具体的にはわからない。しかし、おばあさまは恐ろしい力を持った魔女だということくらいは、幼い頃からその術の数々を見てきた自分にとっては当たり前の認識だ。

「とにかく、痛いことをされます」

「あんた、されたことあるのか」

「え?」

「痛いこと、されたことあんのか」

 ヘクターは尚も食べ続ける。オルキデアは少しの間考えた。

 痛いこと……およそ、自分の嫌がることをあの老女はしなかった。悪いことをすれば叱られたが、それは当然のことだ。しかし、叱られたことはあっても折檻された覚えはない。「……ありません」

「そうか。ならいい」

 ヘクターは食事を終えて酒を一気に飲むと、皿をどけてオルキデアに言った。

「どんな魔女だろうと、俺が倒す。俺があんたをメルツァまで届けてやる」

「お父様とお母様に会わせてくれるというのですか」

「ああ」

 だから安心してろ、とヘクターはもう一口酒を飲んだ。

 なんという奇特なひとだろう。塔から助け出してくれた上に、国まで届けてくれるなんて。オルキデアは感動で胸がいっぱいになって、じっとヘクターを見つめた。

「なんだ」

「いえ、ご親切にありがとうございます」

「いいってことよ」

 なにせ、金貨二十三万枚だからな。心のなかでそう言うと、ヘクターは立ち上がった。「手洗いに行ってくる。誰とも話すなよ。目を合わせてもいけねえ」

 そう言い置いて、オルキデアを一人残して手洗いに行った。

 戻ってくると、一人の酔漢が彼女に話しかけているようである。

「ようねえちゃん。飲んでるかい」

 オルキデアは言われたとおりに、その男とは話さないようにと顔を背けた。

「つれねえなあねえちゃんよう。ん、なんだなんだ、きれえなお目目してるじゃねえか。 見せとくれよ」

 ヘクターはそれを聞いて慌てて近くまで歩みより、黙って男の襟首を掴んで持ち上げた。「なんだなんだなにをしやがる」

「悪いねおっさん。彼女は俺の連れだ。他を当たんな」

「は、離しやがれ」

「ほらよ」

 と手を離すと、男は這う這うの体で逃げていった。

「だいじょぶか。なんかされてねえか」

「は、はい」

「ここは物騒だ。もう部屋に行こう」

 確かにこの目は目立つな――ヘクターはその夜、どうすれば効率的にこの王女を彼女の母国まで連れて帰れるかを考えていた。オルキデアはオルキデアで、初めて出てきた外の世界、生まれて初めて見る塔以外の場所と人の数に興奮して、なかなか寝付くことができなかった。

 朝になって、ヘクターはオルキデアを連れて街へ行った。そして白いベールを彼女に買い与えると、

「ほれ、これ着けてろ。あんたの目は目立つ。他に気づかれちゃ面倒だ」

「面倒、とは」

「なんでもねえよ。さ、行こうぜ。フーチはあっちに繋いである」

「フーチ?」

「俺の相棒さ」

 馬を繋いである場所に行くと、ヘクターは買ってきたにんじんを黒馬にやった。

「よしよし、これから暑いとこに行くからな」

 と首を撫で水をやる様は、彼を良い人間に見せた。ところが、後になってわかるがそれは大きな勘違いであったのだ。

「ここから少し行くと、砂漠だ。そこを抜けてメルツァに向かう」

 地理がさっぱりわからないオルキデアには、否も応もない。フーチに揺られてベール越しに見る風景は、どれも新鮮で興味深いものばかりだった。

 街を行く人々。屋台では、野菜を売っている。それを買いに来て、値切る女たち。その側を走り遊ぶ子供の姿。男たちが、立ち働いている。鋸を曳き、金槌を振り下ろし、また物を売る。

 見たこともない世界だった。

 言葉もなくそれらに見惚れていると、やがて街の外に出た。空気が乾いてきた、と思う内に、砂に囲まれていた。

 砂漠だ。

 太陽がじりじりと照りつけてくる。風が、熱い。

「ヘクター」

「なんだ」

「息が、できません」

「じき慣れる。呼吸を浅くしないで、深く吸ってろ」

 そう言われても、鼻腔には熱い空気が止めどなく入ってくる。森のしん、としたものとは、違う。ベール越しだということもあり、オルキデアは息苦しくなった。

 暑い……汗が出てきた。水が飲みたい。くらくらする。昨日よく眠れなかったせいもあって、オルキデアは知らないうちに後ろにいるヘクターにもたれかかり、意識を失っていた。

 気がつくと、馬からは下りていて横になっていた。見回すと、天幕のなかである。

 そっと起き上がると、掛け物が掛けられていた。

「お、起きたな」

 そこへ、ヘクターがやってきた。彼の肩までかかる髪が、熱い風に吹かれてさらりと舞った。

「……ここは」

「近くのオアシスだ。あんた、気絶してたんだよ」

 砂漠に初めて来る人間にはよくあることだ、と言って、ヘクターは持っていた杯をオルキデアに渡した。

「あんたの分の水を買ってきた。ほら、自分で持ってな。喉が渇いたら、そこから飲むんだ。でも飲みすぎるなよ。いっぺんに飲むと、次の街までもたなくなるからな」

 そう言って彼女に革袋を渡すと、自分も持っていた杯の中身を飲んだ。

「飲めよ。高かったんだ」

「ここでは、水を買うのですか」

「ああ。水は貴重だからな。女よりも命よりも、水は価値がある」

 最初の街では、井戸があって人々はそこで自由に水を汲んでいた。砂の地では、水売りから買わないと得られないのだ。

「少し腹に入れとけ。夜までは休みなしだ」

 そう言って果物を渡すと、ヘクターはまた出ていった。それをつまんでいるとやがて彼は戻ってきて、

「立てるか。立てるなら、出発だ」

 と言ってオルキデアの手を引いた。

 フーチは日陰の涼しい場所に繋がれていて、砂を浴びて満足していたようである。

「行くぜ相棒」

 黒馬に乗ったヘクターを、オルキデアはじっと見上げた。

「なんだ」

「馬に、名前をつけているのですね」

「ああ……」

 そんなことか、と呟きながら手を引いてオルキデアを馬の背に乗せてしまうと、

「相棒には名前がいるだろ」

 と馬を進め始めた。

 この頃には鼻に入ってくる渇いた熱い空気にも慣れてきて、オルキデアは夜まで気を失わずにすんだ。日が暮れるとあんなにも熱かった大気は鳴りを潜め、代わりに風が冷えたものになってきた。

「火を焚くから、そこで待ってろ」

 ヘクターは枯れ木から枝を取ってきて、器用に火を熾してそこに座った。

 パチ、と火が爆ぜて、やがて夜になると辺りは真っ暗になった。焚き火の炎だけが、そこに灯っている。

 ヘクターは街で買ってきた食料を手早く火で炙ると、オルキデアに差し出した。

「野宿の間は、これが食事だ。口に合わないかもしれねえが、我慢しろ」

 おずおずとそれを口にすると、慣れない味ながらにもそうまずいものではない。オルキデアは黙ってそれを食べた。

「食ったら、寝ろ。明日も一日砂の上だ」

 敷き物を広げて、そこに横になった。不思議と、身の危険は感じなかった。

 月が砂漠を青く照らしている。

 昼間も思ったが、砂の地がこれほどまでに美しいとは、オルキデアには見るまでは感じられなかったことだ。本には、そんなことは書かれていなかった。砂漠が美しいなどと。 パチ、と火が爆ぜて、その炎をヘクターがじっと見ている。

「ヘクター」

「なんだ」

「ここは、きれいですね」

 彼は顔を上げて、横になるオルキデアを見た。

「砂漠がきれいなものだとは、知りませんでした。明日もなにか、きれいなものが見つけられるといいと思います」

 そう言って彼女は目を閉じた。ヘクターはその言葉をじっと噛みしめて、それから、

「砂漠がきれい、か」

 と低く呟いた。

 そんなことは、思ったこともなかった。

 月が沈み始めてうとうととした頃に、フーチが嘶≪いなな≫いた。それで目を覚まし、ヘクターは傍らのオルキデアかいなくなっていることに気がついた。

 不審に思って周囲を見渡しても、それらしき影はない。フーチがしきりに、前足で砂を掻いている。

「どっちだ」

 ヘクターはすぐに黒馬の側まで行ってそう聞いた。相棒は、また嘶いた。

「あっちか。よし」

 ヘクターは馬に飛び乗り、フーチが進む方向に向かって駆け始めた。

 その一団には、すぐに追いついた。駱駝に乗る、五人ほどの男たちである。その一人が、なにかを抱えている。

 ヘクターの青い目が怒りに燃えた。

「待ちな」

 最後尾の一人が、こちらを向いた。

「その女は俺のもんだ。離してもらおうか」

 すると、なにかを抱えている男が振り向いて剣呑に言った。

「なんだてめえは。この女がどれほどの価値があるのか、わかってんのか」

 ヘクターは目を細めた。

「お前ら、あの酒場にいたな。そこでその女の目を見た。そうだな」

「そうともよ。金貨二十三万枚だ。お宝よ」

 すらりと剣を引き抜いて、ヘクターは言い放った。

「そうはいかない。二十三万枚は俺のものだ」

 言うや、最後尾の男にむかって剣を振り下ろした。男はそれに気づいて抜刀し、あっという間に乱戦となった。

 オルキデアを抱えていた男が少し離れたところからそれを見ていて、手下の四人がヘクターと戦っている間にそっと駱駝を進めた。

「待ちやがれ」

 ヘクターは襲ってきた男の喉を斬り払って、その男を追った。両者の距離はすぐに縮まった。

 男がオルキデアを駱駝に乗せたまま、剣を抜いてこちらに向かってきた。ヘクターはその近さを目で測って、馬の腹をひと蹴りした。

 そして男とすれ違いざまに、その胸を貫いた。男の駱駝は乗り手が斬られても少しの間歩いていて、そこで男がどさりと落ちて初めて止まった。

 ヘクターはフーチから飛び降りて、駱駝の上に乗せられているオルキデアを抱き上げた。 両手を縛られ、猿轡を噛まされている。それを外すと、たちまち抗議の声を浴びせられた。

「殺しましたね」

「――」

 意外な一言であった。

「殺しては、いけません」

「なにを言ってやがる」

 両手を縛っていた縄を切ってやると、オルキデアはそれに構いもせずにヘクターを見上げて言った。

「殺しは、なりません」

「助けてくれてありがとうだろうが」

 ヘクターも黙ってはいられない。この女、俺にむかってなんて口を利きやがる。

「人命は尊いものです。それを殺すとは、何事ですか」

「あんた、あいつらにさらわれたんだぞ。なにされるかわかったもんじゃねえ、賞金目当てのとんでもない連中なんてのは、見りゃあ誰だってわかる。それを……」

「とにかく、殺してはなりません」

「わけのわかんねえことを言うんじゃねえ」

 ヘクターは頭にきて、オルキデアを担ぎ上げて馬の鞍に乱暴に乗せた。そして野営していた場所まで戻ってくると、うたた寝した自分を叱咤しながら彼女を下ろした。

「ヘクター、約束してください。もう殺しはしないと」

「俺は賞金稼ぎだ。殺さねえと、首は取れねえ。そうしないと稼げない、それが賞金稼ぎってもんだ。人の生き方にいちいち口出しするんじゃねえこの世間知らずが」

 暗闇に言い合いの声だけが響いた。それをうるさがって、馬がひひんと鳴いた。

 オルキデアは火の側に座ると、まだ腹立ちの収まらないヘクターの乱暴な所作をじっと見ていた。ヘクターはなにかを荷物にしまおうとしてうまくそれができず、舌打ちをしながらそれを乱暴に放った。

「ヘクター」

「黙ってろ」

「黙りません。あなたは間違っています」

「間違ってて結構だ。なにが正しいなにが間違ってるなんてもんを判じるのは、人間のやることじゃねえ。そんなことは子供だましの見世物だ」

「それでも、あなたは間違っている」

「だから間違ってても構わねえんだよ俺は。何度言ったらわかる。綺麗事じゃ世の中は渡っていけねえ」

 ヘクターは吐き捨てるように言うと、奪ってきた荷物のなかから金目の物を探し始めた。 オルキデアはそれを、じっと見つめている。

「あの男、おかしなことを言っていましたね。金貨二十何万枚とか」

「ああ……」

 そのことか、と思って、ヘクターはなんでもないようにこたえた。

「あんたには、賞金がかかってる。無事連れ戻したら、金貨二十三万枚だ」

「それは、どういうことですか」

「最初は十万枚だったそうだ。それが一年経つたびに、一万枚増えてった。それが今は二十三万枚ってことさ」

「では、あなたは最初からお金目当てで私を助けたのですね」

「そうに決まってるだろ」

 他になにがあるってんだ、と毒づきながら、彼は荷物を探る。ろくなものが入っていなかった。

「……」

 パチ、と爆ぜる火を、オルキデアは膝を抱えて見つめている。そうか。そうだったのか。 奇特なひとではなかった。賞金が目当てだったのだ。

「俺でよかったな。あいつらの手に渡ってたら、あんたなにされてたかわかったもんじゃねえ。順繰りに輪姦≪まわ≫されて、ひどい目に遭ってたろうよ」

 なにを言われているのか、よくわからない。頭のなかにあるのは、自分と金貨二十三万枚が均等に釣り合いが取れているということ一点のみであった。

 金貨がどれだけ価値のあるものなのかは、外の世界に疎いオルキデアにはいまいちわからない。しかし、今朝買った水は柄杓に一杯で銀貨二枚だった。それよりはずっと価値があるものだということだ。

「もう遅い。寝ろ」

 ヘクターは自分の方を見もせずにそう言い、尚も荷物を探っている。

 世の中の人間が金でしか動かないということに、オルキデアは衝撃を受けていた。そんなものなのだろうか。ひとって、その程度のものなのだろうか。

 憧れていた外の世界が、急に色を喪い始める。

 オルキデアは横になりながら、それでもとにかく、自分を無事国に届けてくれるのは、頼りになるのはこの男だけなのだ、と自分に言い聞かせて、そうして目を瞑った。

 しかし頭のなかはぐちゃぐちゃに混乱していて、その夜も彼女はよく眠れなかった。

 翌朝日の光の下で見ると、ヘクターの着衣には血がついていた。それが昨夜のものであるということに思いが至って、オルキデアは胸が痛くなる。閉じられた世界に住んでいた彼女にとっては、目の前で人が殺されるなどという場面は刺激が強すぎたのかもしれない。「そろそろ水がなくなる。オアシスに行く」

 ヘクターは馬に乗るなりそう言って、北に馬首を進めた。

 頭上では太陽がぎらぎらと照りつけていて、暑いことこの上ない。しかし、呼吸は大分うまくできるようになった。汗が出るのがうっとうしいが、水を飲まなくては死んでしまう。

「どれくらいで砂漠を出るのですか」

「このぶんじゃ、当分先だろうな」

 それ以外に、話すことがない。オアシスに到着して一休みすることになって、天幕のなかでオルキデアはヘクターと向かい合ってこう告げた。

「ヘクター、よくわかりました」

「なにがだ」

「あなたはお金のために私を助けてくれた。そうですね」

「だからなんだ」

「ならば、私の言うことも少しは聞いてください」

「なんだと?」

 水を飲みながら、彼は自分の耳を疑って聞き返した。

「お願いです。人を殺さないでください。殺さずにすむのなら、そうしてください」

「できねえ相談だ。俺は十の時からこうして暮らしてきた。眉の上まで、耳の中まで返り血がこびりついてる。今更そんな生き方はできないね」

「それでも、やってください」

「だめだ。あんたに命令される筋合いはねえ」

「だめです」

「黙ってろ。口縛るぞ」

 そう言われて初めて、オルキデアは口を噤んだ。しかし、なにか言いたげなのは表情でわかった。

「もう少ししたら、出発だ。それまでしっかり休んでろ」

 言い置いて、ヘクターは革袋に水を満たしにそれを買いに出かけた。

 それを見て、オルキデアは静かに立ち上がった。そして馬を繋いである場所まで行くと黒馬を見つけ出し、その手綱を引いて鞍に乗ると、方角もわからないままに走らせ始めた。 一足遅く天幕に帰ってきたヘクターは、彼女の姿がないのでまた仰天していた。今度はどんな奴に連れて行かれた、と辺りを見回しても、それらしき影は見られない。

 もしかして、と思ってフーチのいる場所まで行くと、案の定馬は盗まれていた。

「あのアマ……」

 ヘクターは側にあった誰かの馬に飛び乗ると、予想をつけて走り出した。

 少し走ると、彼方に黒い点のようなものが見えた。あれだ。

 ヘクターは馬に鞭をくれて、全速力で走らせた。

 そしてその背中がいよいよあの女のものだとわかると、指笛を吹いた。

 すると前を走っていた黒馬は突然竿立ちになり、乗っていたオルキデアを振り落としてこちらに向かって走ってきたのである。

 ヘクターは馬から下りて、近づいてきたフーチの首を撫でた。

「よしよし、いい子だ」

 それから砂地に放り出されたオルキデアの元まで行くと、

「来な。それ以外に選択肢はねえだろ」

 と冷たく言い放った。

 オルキデアは自分をきっと睨みつけて、それから悔しそうに唇を噛むと黙ってついてきた。ヘクターはなにも言わずに彼女を鞍に乗せた。

 オアシスまで戻ると、ヘクターはオルキデアに言った。

「他の誰に頼ってもいいが、誰もあんたのことなんて信じちゃくれねえぜ。どこぞの金持ちに売られるか、娼館に連れて行かれて死ぬまで働かされるのがおちだ」

 彼女はなにも言わず、それを聞いていた。

「それが嫌だってんなら、黙って俺についてこい。指図もするな」

 そして再びフーチに乗ると、オアシスを発った。水と緑の地はあっという間に小さくなって、やがて陽炎の先に消えてなくなってしまった。

 夜になると、火を焚いて野営した。今日こそは大丈夫だろうと、ヘクターも横になった。 それがいけなかった。

 馬の嘶きで目が覚めると、傍らにいるはずのオルキデアがいなくなっている。チッ、と舌打ちすると、フーチに飛び乗ってその影を探した。

 月の下に、女が歩いているのが見えた。ヘクターは呆れ果てて、彼女めがけて馬の腹を蹴った。そしてすぐにオルキデアに追いつくと、

「何度言われりゃ気がすむんだこの馬鹿アマ」

 とその腕を掴み身を屈めて彼女を肩に担ぐと、乱暴に馬の鞍の上に乗せた。野営地に戻ると、その両手を縛った。

「今度おかしな気を起こしたらただじゃすまねえからな」

 さすがに息を切らせて彼がそう言うと、オルキデアはその金色がかった緑の瞳できっと睨んでくる。

「どんだけ睨んでも、恐くねえよ。人を平気で殺せる俺がそんなもん恐がるか」

「あなたは心得違いをしています」

「それで構わねえ。それが俺の生き方だ。あんたは俺に助けられて、国に戻る。俺はそれを運ぶ。俺たちはそれだけの関係だ。余計な口を挟むな」

「嫌です」

「黙ってろ」

「黙りません」

「うるせえ。髪の毛むしって井戸の底に放り込むぞ」

 怒鳴りつけると、そこで初めてオルキデアは黙った。手は縛ったし、これでもう逃げ出そうなどという気にはならないだろう。

 ところが、そうはいかなかった。

 彼女は翌日立ち寄った街で、またも逃亡を諮ったのである。

 これにはさすがのヘクターも頭にきて、両足を縛り上から袋をかぶせてしまうと、荷物と一緒に馬の尻に乗せた。

「なにをするのです。放しなさい」

「黙ってろ。あんたみたいなお荷物は、こっちからご免蒙る」

 その時、ヘクターの頭に名案が浮かんだ。そうだ。この女を欲しがるのは、なにもメルツァの国王だけじゃねえ。

 考えがまとまると、行動は早かった。次の街まで急いで移動し、宿を取ってオルキデアに袋を被せたまま部屋に放り込み、道を行った。角を曲がり、裏道をいくつかよぎると、ヘクターは黙ってその屋敷に近づいた。

 そして門番に用事を告げると、少し待たされてなかに入った。そして屋敷の主と話をつけると、上機嫌で宿に戻ってきた。

 袋を取ると、乱れた髪と共に怒り心頭に達したオルキデアの顔があった。

「なにをするのです。乱暴はやめてください」

「次におかしな気を起こしたらただじゃすまさないと言ったはずだ。あんたとはこれきりだ」

 オルキデアの動きが止まった。

「喜べ。砂漠で一番の金持ちの家だ。不自由のない生活が送れるぜ」

 そして袋を再び彼女の頭に被せると、肩に担いだ。それでもオルキデアは暴れていたが、構うものではなかった。

 先程の屋敷に着くと、主は大広間に出てきて彼を待っていた。

「ようヘクター、それかい売りたい女ってのは」

「ああ。ついぞお目にかかれないほどの上玉だ」

 広間にオルキデアを放ると、袋をどかした。彼女はいきなり連れてこられた場所がどこなのかが見当もつかず、動きを止めてしまっている。

 見上げんばかりの大男が、広間の奥に座っていた。一目で絹とわかる豪奢な刺繍の入った服を纏い、指には金ぴかの指輪がいくつもはめられている。頭を剃り上げていて、目だけが爛々と輝いていた。

「これだ。どうだいこの目の色。まるで猫みたいだろ? それに、生娘だ。自分好みに育てることができるぜ」

「馬鹿言っちゃいけねえ。女は教育するもんじゃねえ、従わせるもんだ。俺好みじゃなかったら、そうするまでのことだ」

「それでこそ砂漠にこのひとありと言われたドルク様ってもんだ。金貨千枚でどうだ」

 大男は顔を顰めた。

「高い。六百枚だ」

「十八だぜ。九百枚」

「七百だ」

「なあドルク」

 ヘクターは気安げに大男の肩に手を置くと、まるで悪魔がするみたいにその耳に囁いた。

「十八の、男を知らない肌がお前のものになるんだ。あの白い肌が上気してほのかにバラ色になること考えてみろ。八百五十枚でも惜しくねえはずだ」

 大男はじっとオルキデアを舐め回すようにして見てから、腕を組んだ。

「そうだなあ。じゃあ、八百だ」

「商談成立だぜ」

 ヘクターはにやりと笑って大男と手を握ると、言われた金額の手形を持って屋敷を出た。「いつ手に入るかわからん二十三万枚より、目先の八百枚だ。ついてたぜ」

 これで当分、遊んで暮らせる。今夜は豪遊するつもりで、ヘクターは街に繰り出した。 そして適当な娼館を見つけるとそこで妓≪おんな≫を選び、いつものように飲んで、それから抱いた。

 いい厄介払いができて金までもらえた、そうとしか考えていなかった。


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