第3話 水
「うん。わかったよ。また目途がついたらすぐに連絡するね。その代わり今度会った時は必ずお寿司ご馳走してよね。ええ、牛丼ならいいの。んー、それなら焼肉で我慢するからご馳走して。
ありがとうね。ではまた近いうちに。」
小柄で愛嬌のあるショートカットの女はスマートフォンの通話を切電すると、白衣に袖を通し、お茶を一気飲みする。
女の名前は蠍 沙織(さそり さおり)。 ちょうどよいサイズの白衣がないのか、丈も長く、着ているというより着られている。
「蠍くん。こっちの仕事手伝ってもらっていいかな。」
「はーい、すぐに行きますー。」
蠍は残りのおにぎりを口に詰め込み、頬を膨らませながら駆け足で呼ばれた上司の元へ向かう。
―
「大変お待たせしました。本日はどのようなご用件でしょうか。」
人口の少ない町役場に勤務する男の名前は鯨井 真之(くじらい まさゆき)。年齢は20代半ばで恰幅の良い体をしている。
2年前に都市部から就職するために転居してきたが、おおらかな性格もあって町民と打ち解けるまで時間はかからなかった。
「鯨井君、また見ないうちにより一層大きくなったんじゃないのかい。」
年齢70代の山田(やまだ)が鯨井へ声を掛ける。髪は白髪一色だが、滑舌も背筋もしっかりしている。
「山田さん、先週も原子力発電に関する進捗説明会に来られたばかりじゃないですか。」
「何言ってるんだい。この前お会いしたのは1年前じゃないの。」
「え…」
「わしが覚えてないとでも言うんかい。」
「えーと…」
鯨井は何度も先週の記憶を遡ってみるものの、間違いなく山田と会話した記憶がある。その間、無言の時間が続く。
「鯨井さん、冗談だよ。あなたは本当にいつもすぐに人のことを信じるんだねえ。少しは人を疑うこともしないとだめだねえ。」
「山田さん、その元気があればまだまだ長生きできそうですね。まずはあなたを疑うことから始めてみることにします。」
「それは良くないことだねえ。人のことは信じなさい。特にわしのことはねえ。」
軽妙な軽口を言うとまた来ると言い捨て、足早に立ち去っていく。
午前の業務が終わり、昼食前に喫煙所へ歩を進める。
鯨井は20歳から煙草を吸うようになった。元々煙草は興味が無かったが、幼少期から学生時代まで同じ時間を過ごしてきた幼馴染の無理な勧めに、最初は拒んでいたものの、気が付くと一息つくときに嗜むようになっていた。
酒についても同様に、アルコール分3%のアルコール飲料を二口程度飲むだけで体の火照りと動悸が止まらなくなっていたが、幼馴染と毎日のように酒を飲み交わしていると体が自ずと順応していった。
今となっては仕事終わりに毎晩自宅で嗜むほどになっていた。
喫煙所に入り、人が誰もいないことを確認すると、おもむろにポケットからスマートフォンを取り出し、先ほど不在着信が来ていた早乙女へ折り返し連絡する。
「もしもしミラさん、先ほど電話が来ていたみたいですが。」
「折り返し連絡してくれてありがとう。助かるわ。
先日協力してもらっていた件で続報よ。あの人以外にも接触を持つことができそうなの。おそらく地位は少なからず上の人だわ。今の資金ではこれ以上続けるにも無理がありそうだから、そろそろ決行したいの。来週の水曜日に時間を作れないかしら。彼の日程は問題ないそうよ。」
「了解です。自分も空けられます。」
「では水曜日の午後2時頃から時間が取れるか彼らに確認して追って連絡するわね。
リッチ、もし上手くいったら頭を撫でるかお尻を叩くかの好きなほうを褒美としてあげる。」
「追って連絡お待ちしてます。それではどちらの褒美もいただく運びでお願いしてもよろしいでしょうか。」
「…」
期待に胸を膨らませるも最後の返答がないまま通話が切れると、鯨井は意を決したように深く息を吐きだし、煙草に火を付ける。
「いよいよか。どちらの褒美がもらえるのか楽しみだな。
それにしても白髪が増えてきたな。まだ25歳だというのに。」
お互いにミラ、リッチと愛称で呼び合う早乙女と鯨井。
鯨井は鏡に映る自分の姿を見ながら小言を言う。
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