つきは

内谷 真天

つきは

 振り返ると白い痕ができていた。

 僕の足がかき分けてきた、どこまでも伸びる白い痕だった。まっすぐにはできずにくねくね曲がってるのが、空に花咲く月の光を浴びて、なんだか余計な影ばかり生み出している。

 常緑樹の並木道から大きくそれて僕の足下まで続いた。

 ここまで。目の前には、雪の毛皮をすぱっと断ち切った氷の皮膚が、僕をひとひらの蝶にでも見立てる大きさで広がっている。無数の切り傷を刻んで生々しい氷。

 浮かんでいる島の、月が照らし出す冬を、僕はじっと眺める。

 ずいぶん遅くなってしまった。

 透明の膿が点々と染み出て、これより先は、踏めば脆そうな湖面に拒絶されている。

 思う通りにはいかない。

 首をふる、と冷気が顔を刺す。


 ✿


 ぽわっと灯ってるのが湖畔まで届いてた。

 雪の森の入り口に一つだけ、寂しさを紛らすように、暖かそうだった。

 また白い痕を刻んで近づいてみると、二階建てのログハウスに変化した。雪害対策に一階を背伸びさせてウッドデッキを横付けさせた、実際のとこ半二階くらいの。三角屋根から突き出た煙突が静かに息を吐いている。

 ウッドデッキの階段に足をかける。入り口の看板が、どうも何かのお店らしくって。デッキだけは雪が掃かれてた。

 ドアにかけられたランタンが灯りの正体で、営業中のサインのような気がしたけれど中から物音はしない。ノックするのも変に思って無言で取っ手を掴む、とそこはバルのようだった。

 寒さに身を縮こまらせた、ほの寂しくてほの温かい、ミニマムサイズのバル。暖炉の火が揺れるのはカウンター席でくつろぐ一つのためだけだった。

 線の細さとラフな服装が雇われの、って感じだったけど、他に誰もいないから彼女が店のミストレス、と一目で受け取った。背中の雰囲気がぼんやりと退屈なひとときを醸し出してる。

 冷気を受けて、ちらっとこちらに振り返る。

 僕を見つけると、彼女は自分の時間を中断してカウンターの奥に回り込む。

 どうぞ、と招かれる。

 僕は軽く会釈して、やっと前に進み出る。

 内装に中てられて空腹を思い出していた。なにか食べられるものを。できれば芯から温まってすぐにありつけるような。

「いくらでもあるけれど」

「それの一番安いやつ」

「冬場は営業してないからお金はいらない」

 なら、と断ろうとしたけれど、彼女は淡々と工程に移ってしまう。

 既に決定されて取り消せないような自然な振る舞いが、ポストにはがきを投函したあとの諦めや安心の心境をもたらして。僕はただドアのランタンの不思議について思いを巡らせた。

 営業してないのに営業中。

 手際よく、配達員が運んでくれる。

 アサリと小エビのパエリア。それとトマトのスープ。パブやバーというよりも、やっぱりバルって感じだった。

 サフランが口の中に広がって香ばしい。

 感想は求められてない気がしたから黙ってスプーンを往復させる。

 半分くらい減ったところで彼女が言った。

「雪、深かったよね」

 それとなくうなずく。

「ここまで歩き?」

「街から」

 呆れた、って息を吐く。

「こんな季節に訪ねてくるってことは、そういうこと?」

 咀嚼しながらうなずく。

「それさ、やめといたほうがいいよ。冬はキツいっていうよ」

「島に渡りたい」

「島?」

「そこの湖の」

「わかるけど。わざわざ?」

「人が待ってる」

「人。人ね」

 と簡単に受けあって彼女は腕組みをする。スプーンを握りながら僕は目だけ見上げる。若くって、まだ二十代の中か後半かってくらい。なのになんだか堂に入ってる。

「ひかり」

「そう。よろしく」と僕は答える。

「そっちは」

 僕は僕の名前を告げる。彼女は小刻みにうなずく。

「じゃ、お互い腹を割るって感じで。ひかり。そら。いいよね?」

「でも口は一つだけ」

 彼女は笑ってスプーンの行き先を促す。

 あいだに色々と聞かされた。二年前に叔父が亡くなって、それから店を継いでるってこと。冬にも僕みたいなのがいるから巣ごもりしてるってこと。のぞむ湖がその手の名所だってこと。止めるために私はいるもしくは話を聞くために。ってこと。

「島には行けない。結氷で船は出せないし、歩いて渡るには薄氷」ってこと。

「僕もさっき確認してきた。方法があれば教えてほしい」

「行けない」

 ときっぱり言う。僕も食い下がる。

「人が待ってるんだ」

「渡る方法はない。つまり、わかる?」

「それでも待ってる」

「誰もいない」

「だけど、そういうことにしてあるんだ」

「してある?」

 どういうこと、って目がこっちに向く。最後をスープで押し込んで、胃が充実したときの息を吐いてから、僕は言う。

「あの島に僕を待ってる人がいる。たどり着いたら一緒に夜を眺める。何日かかるかわからないけれど、それまでずっと僕に寄り添うって約束してくれた。だからまず湖を渡らないと」

「待って」と彼女は片側の目頭を抑える。「それ、現実のつもり?」

「いや。空想だよ。そういうことにしてある、って言ったろ?」

 彼女は何かを確かめるみたいに小さく何度も首を動かす。

 何か、ではなく僕の頭が狂ってるかどうか。

「その人に名前は?」

「古い和歌からとってる」

「なんていうの」

 いざかくて 居り明かしてん 冬の月 春の花にも 劣らざりけり

「つきは」

 月の春。や、月の花のほうがいいかもしれない。月花。つきは。僕に寄り添って共に眺めてくれる人。

「つきはさん、ね」

「島で待ってる」

 対処に困った人がよくやる額をかく仕草を彼女も模倣する。

「とりあえず今日は泊まっていって」と告げられる。


 ✿


 きっとそうなるだろうと思ってた。案の定。熱が出た。

 バルの二階の客室に部屋を借りて、昨日から寝込んだままでいる。

「無茶するからだよ」

 とひかりからは呆れられたけれど、ここに訪問したのも悪かった。久しぶりの慣れない相手との会話でわかりやすく人気に中たった。

 昨日よりはいくらか楽になった。でも、まだぼんやりと、熱に浮かされる。

 ベッドに横になりながらうっとりと天井を眺める。

 木目に絵画を探す。

 健全なときには暮らす場所じゃない、ちょっぴり排斥的な雰囲気と、だけど僕が属する世界の一部っていう親近感が、まどろんだ視界の中に共存してる。

 絵画は真珠の耳飾りだったり日傘をさすだったり読書する娘だったり次々に変化する。

 土地つきの別荘に季節が変わるたび訪れるような、よりも趣味でギターを弾く人が自前のちっちゃなガレージに通うような、そんな感覚。

 見知らぬ場所ってのがなおさらいい。現実と架空が錯綜してる。

 ノック音。

 開く。ひかり。

 足音が横までやってくる。

 遠くから椅子をひく音。絵画を探しながら耳で聞く。

「具合はどう?」

「ベッドに沈み込んでく」

「無茶するから」

「昨日も聞いたよ」

「いま、朝食の支度してる」

「朝食ね」

 僕が初めてここを訪れた二日前、一旦この部屋に通されてから、僕たちは朝までバルで語り合う。なにか特別な出会いを感じたとかいうんじゃなくて、僕もひかりも時間を持て余してた。冬には彼女も夜型になるらしく。

 目を覚ますのは夕方。朝食って言い回しが合ってるのかどうか。

「おかゆ?」

「他のがよかった?」

「いや。また焦げ付きか」

 たまたまだから、とひかりは弁解する。

「本当に君一人なの?」

「いたら火の番してもらってる。雪が積もれば郵便も届かない」

「じゃ、僕はだいぶ驚かせたろうね」

「あの雪で、誰か来るなんて思わなかった」

「アポ無しなのは失礼」と僕は言う。「予約が必要なんて、聞いてなかったからさ」

 そもそもオフシーズン、とひかりは笑う。その笑顔をすとんと落として、もう一度弱い笑みを作り直す。

「体、強くないんでしょ」と言う。

「わかる?」

「慣れてる感じがする」

 そっか。風邪にも慣れとかあるのか、と僕は思う。

「生まれつきね」と僕は答える。「幼い頃はもっと色々背負ってた。虚弱っていうの? 人と同じようには動けない」

「ならなおさら」

 決めたことだから、と言って僕は目を閉じる。首をふる雰囲気が伝わる。

「疲れてるんだよ、体も、心も。ここに来る人たちはみんなそう。少し落ち着いてったらいい」

「落ち着いて考えたことなんだ。結果は変わらない」

 ため息が聞こえる。心配の、青っぽい色を濃いめにした吐息。

「島には誰もいない」と強めの口調でひかりが言う。

 真剣さに僕は思わず笑う。

「君は、まだ慣れてないみたいだね」

「何人かは見てきたけど、そらほど頭の狂ったのはね」

「率直だ。面白いよ。でも、狂ってる相手に狂ってるなんて突きつけてやらないであげてくれ」

「そらは冷静でしょ?」

 そうね、と僕は答える。

「冷静に頭を狂わせてる。叔父が言ってた、そういう相手には工夫を使うなって。ありのままぶつかりにいかないと深刻な傷になる」

 そっか。叔父さんは慣れてたんだ。

「彼は正しいよ。僕もそう思う」

 気の触れそうな原因に長いあいだ付きまとわれて、解決の見込みもないままに、そのうち冷静さがやってくる。鈍化。常態化。麻痺。心の悲鳴をただ養生テープで塞いだだけの、くぐもった叫び声のやまない弥縫策。

 そんな相手に、気休めだとか心にも無い一言だとか意固地で素直でない態度だとか、あるいは何かの策略を巡らしたりだとか、は養生テープの粘着力を弱まらせるだけ。

 絶え間ないそれらによって、とうとう僕もここにやってきた。

 彼は正しい。僕は心からそう思う。

「だから、不慣れだけどそういう接し方をする。いい?」

「ぜひ」

 僕がうなずくと、だからもう一度繰り返す、とひかりは言った。

「島には誰もいないの」

 僕はうっすらと目を開く。開いてぼんやりひかりを見る。

「わかってるよ。そこを突かれても何も起こらない」

「認識から変えないと」

 違うんだ、と僕は首をふる。

「寂しいんだよ。誰か側にいてくれると思わないと。だから作り上げた。つきは。呼ぶと恐怖が薄らぐような、そういう響き。僕をずっと待ってくれてる」

「あの島である理由は?」

「孤独って感じにぴったりだから」

 ちょっと待っててね、火かけっぱなしなの忘れてた、と言ってひかりは部屋を出る。


 ✿


 一昨日のパエリアから、昨日はおこげの、今日は卵入りのおかゆが運ばれた。弱火でじっくり煮込んだ、粒が消えるくらいどろどろの。シソの葉のいかだに浮かべて小梅が添えてある。

 食事だけみればバルなのか療養所なのか、それとも調理実習なのか。

 おなじように対話のアプローチも変えてきた。

 つきはさんってどんな人。

 実在しない、と僕は答えた。

「イメージは?」

「持ってない」

 不思議そうに首をかしげる。

「理想の女性なんじゃないの? 性格でも、顔でも、なんでもいいからさ」

「ないんだよ。必要ない」

「月みたいにきれいとか、春みたいに暖かいとか」

「花みたいに優しいとか?」

「たとえばね」

 首をふって答える。

「歌の内容が気に入っただけさ。そこから文字を探し当てると、語感もよかった。それだけだよ」

「いざかくて。清原元輔。清少納言の父親の」

「調べてみた?」

「和歌はよくわかんない」

「そう。実をいえば僕は元々この歌を好きになれなかったんだ。冬と春の美しさを同じにしてしまってるあたりが」

 錯綜する頭で言う。錯綜しながらの会話が妙に愉快っぽくあって、いつもなら踏みとどまってしまう停止線のシグナルをふわっと見過ごす。

 と、もう一度詠んでみて、とひかりが言った。

 意外だった。けど僕は静かに笑う。


 いざかくて 居り明かしてん 冬の月 春の花にも 劣らざりけり


「優劣よりもその二つは全く別のものだよ」と僕は言う。「ただ、情景よりも状況に興味が湧いて」

 状況? とひかりが訊く。

「誰かに問いかけてるように聞こえない?」

「だから、さ、古語はさっぱり」

「いざかくて。訳すと、さあ、こうして、って感じ。捉えようによって詠み人の隣に誰かいる絵が見えたんだ」

「それはどんな人?」

「だから着想は持ってない」

 肩をすくめる。それから雪対策でウッドシャッターの降ろされた窓の方に視線を向ける。室内を息苦しくしている窓。月明かりも差し込ませない窓。

 その先の湖を頭に浮かべているような口ぶりでひかりが言った。

「ただ誰かにいてほしい」

「できれば異性の」

「異性」

「いや、君に頼んでるんじゃない」

「わかってる」とひかりは簡単に笑う。「気持ちはわかるかな。なんとなく」

 僕に見返す。

「どうしても島に行きたいの?」

「行けるなら」

 それならもっと気温が下がるのを待ったほうがいい、とひかりは言う。冬が深まれば氷も厚くなる。

 ここには好きなだけいてくれて構わない。オフシーズンでも人手はあった方が助かるから。と付け足して。

 僕は食べ差しのおかゆを見て笑う。レンゲを泳がせるととろみがまとわりついて、じっくり。どろどろと。

 同じだ。どうも長期戦が望まれているらしい。

「うん。そういうことだよ」

 とひかりは言った。


 ✿


 ここを僕の目的で訪れる人はそれなりにいて、理由はそれぞれに異なった。ただ共通してある悩みを抱えていた。

 みんな誰かに必要とされたがってる。孤独には耐えられなかった。

 叶わずに長い時を過ごしてきたせいで少しずつ欠けてって、そのほころびに何かしら問題が入り込んだとき、ほら、僕のようになった。ここを訪れて、帰った人、帰らなかった人、どちらも共に。

 だけど僕はほんのちょっぴり彼らとは違ってる。瞳の色が異なる。らしい。

 月明かりに満ちた湖畔の際までくると、ひかりが言った。

「私には濃い青紫に見えるんだよ、そういう人たちのは」

「そう。僕のは?」

「わかんない。ただ、受け入れちゃってる、って感じはすごく伝わる」

「事実そうだから」

「でも怖いんでしょ?」

 うん。だから架空の人を創造した。つきは。眠りに落ちる直前には彼女の名前をつぶやいて、安らかな気持ちに変換したい。

 遠巻きに眺めると色味の強い湖が足下では透明度の高い氷を張っている。島はそう離れてないのにいくら経ってもたどり着けない。

 もう、何日目だろう。体はすっかりよくなったし僕が刻んできた白い痕も、そっちは幼い頃の恐怖体験みたいに未だに残っちゃいるけれど、だいぶ角が取れて滑らかなモーグルになってきた。

 いろんなことに時間の流れを感じる。

 でも、そのうち何もかも溶けて緑生い茂る平坦に、とは心の方は都合よくならなくて、なんだか隔たってるうちに、青も赤も白も、少しずつ映る色が失せてってしまう。

 きっとそれが僕の瞳の色。

「できれば僕だって島には渡りたくない。最大限の理想をいえば」

 ひかりは白い息を吐きながら聞いている。のぼって消えてく様子を最後まで見届けて、から言った。

「理想通りにはいかない?」

「かっこつけて言うわけじゃないんだけど、僕の問題は、個人的な感情を超越しちゃったとこにあってさ。もっと大きな意味で、僕は誰からも必要とされてないんだよ」

「充分かっこつけてるよ」とひかりは笑う。

「そう聞こえるだろうね。でも事実。誰からも求められないし、求められることを望んでもいけない。僕の方から求めることはもっと悪い」

「思い込みだよ。求めることは誰にだってできる」

「できない人間もいるんだよ」

「だとして。そらがそうであるとは限らない」

 どうかな。とつぶやく。聞こえてるはずだけどひかりは何も返さない。

 あんまりやりすぎると嫌気を差されてしまいそうで、僕もよくわからない。うまく説明できれば楽なんだけど、問題が複雑に混ざりすぎて頭の整理も追いつかないし、向き合えば会話の流れも生まれてしまい、理路整然と、なんて不可能に近い。

「無理だ」、「もうだめだ」、「どうしようもない」。だから反対に、そういう簡単な言葉に気持ちを全部乗っけてしまう。

 伝わらないのはわかっちゃいるけれど。

 なら、種類ごとに問題を類型化して、箇条書きにでもして提出しちゃおうか。余計伝わらない気がする。「どうにもならない」。

 月と星を見上げる。澄み切ってしんとして星たちが刹那に色を変える夜。色がきらめきながら、それでも冬の空って時空を固定してるっぽく見える。

『いざかくて 居り明かしてん 冬の月 春の花にも 劣らざりけり』

 平安時代に詠まれた古い歌。

 冬の月。春の花。

 同列には僕には思われない。けど、もしかすると、昔の冬は夜空が固定されずにおぼろげだったのかも。目に映る光景の細微がどこか今とは異なっていて。

 でも僕は僕の目に映るものにしか感受性を働かせられない。

 柔らかさとか、優しさとか、の無い、もっと冷淡で凛とした。

 つきはを思う。

 見上げてるんだろうか。今も、あの島で。

 しばらくそうしてた。

 ひかりが首元をさすってる。厚手のコートの衣擦れの音。

「そろそろ戻らない?」

「そう」

「また風邪ひくよ」

「大丈夫。いちど罹ったら間が空く」

 とは限らない、とひかりがまた言い出す気がした。

 結局なにも返ってこなかったけどちょうどいいから続ける。

「昔からこの体と付き合ってる。幼なじみなんだ。なんでも知ってる。一週間くらいは免疫が保つってことも知ってるし、できないことがこの上なく多い子だってことも」

 ひかりを見るとこっちをじっと睨んでる。僕は笑う。

「その目も知ってる。他人の悲観には付き合いたくないって目。大げさだ、うんざりだ、もっと楽に考えなよ、そういう目」

「もっと楽に考えなよ」とひかりが言う。

 思わずまた笑っちゃったけど、取り合わずに続ける。

「健全な精神は健全な肉体に宿る。逆にいえば不健全な肉体には、だよね。だから心もおかしい」

「うん」と諦めっぽい顔で言う。

「小さいときから島が近くにあった。生々しく僕の横に寄り添って、夜には背中に触れられてる気配さえ感じた。朝には目覚めないかもしれないという予感。おかげで僕には独特の感性がある。決して他人には理解されない、褒められた種類でもない感性」

 君の目がいま宿してるものかも、と僕は最後に付け足す。

 諦観。のようなもの。

 ひかりはすこし怯んだ様子を見せる。

 それも僕には構わない。ついでだ、ついで。だから言う。

「肉体と、精神と、ついでに頭もおかしい」と。

「狂ってるとは思う」とすぐさま返ってくる。

 僕は笑う。

「今はね。狂ってるんじゃなくて、おかしい、だよ。子どもの頃から頭がおかしい。自覚もあった。複雑な場面では頭にもやがかかるし、直感的なことでもまるっきり相手に考えが伝わらない」

「でもないよ。私には伝わってる。ある程度」

「訓練の結果だよ。自発的に一つずつ矯正を加えてった」

 でも、それでもやっぱりおかしい。そのうちこっちから説明することが嫌になっちゃって、こればっかりは、の境界が越えられない限りは、他人の前では黙しがちになってった。

 僕の口数が少ないのをいいことに、彼らは変に誤解して、変に値踏みして、そうして僕の人格は彼らの常識によって定められていく。

 僕の方ではそれさえ訂正するのが億劫だから、ある時からいっそ、彼らの前ではこっちから定められた人格に合わせるようにした。

 だって、僕の熱意がどれほどであっても、彼らがそれまでに積もらせた雪は決して溶けてくれることがない。何度やっても対価のない抵抗だった。

 だから会う人によって僕はまるっきり違ってたりもする。一体本当の僕がどこにいるか、は一人になるとはっきりするけれど、それを人前で晒してみる勇気は、気づけば失っていた。

「そういう人たちとは何度か会った。そらの目は彼らほど怯えてない」

 ああ。とうんざりのため息を僕はつく。

 ここにも雪を感じる。

「だから僕は普通? 思い込みが激しいだけ?」

「そうは言ってない」

「根底に諦めがあるんだよ。どうせこんなもんだ、って。だからどっかで割り切ってしまってる」

「諦めなかったら良かった」

「そう? 諦めてばっかりだったと思うかい?」

「わからない」

「一つずつ矯正を加えていった、ってさっき僕は言った。それとも努力が足りなかったとでも? 方法が間違っていたとでも?」

「わからないって言った」

「だけど君は諦めなければよかったと言った」

「口論するつもりはない」

 うん。と僕はその言葉を聞いて気を落ち着かせる。

「ごめん。僕だってそんなつもりじゃない」

 ただ、と僕は続ける。

「ね。こんなもんだよ。言葉で定義しようとするほど実体ってなぜか言葉から離れてっちゃう。それに、聞いてる側も、軽く踏み込めばわかることでも簡単に値踏みしちゃう」

 どれだけ論理的に並べ立てたって、どれだけ言葉の美醜を追求したって、おなじ。心から歩み寄ろう理解しようが無かったら生まれるのは亀裂だけ。

「人ってさ、無意識に人を下に見るように作られてる」

「ちゃんと見てくれる人もいる」

「かもしれない。僕の前には現れなかった」

「現れるよ」

「そう? たとえば君とか?」

 言ってしまったあとで、皮肉が過ぎたことを感じる。ひかりが苦痛っぽく顔を歪める。

「ごめん。またやらかした。そんなつもりじゃなかった」

「いい」

「楽なんだ、自分の弱みも見せずにすむし、場の空気もそれほど壊さない。おかげで皮肉がくせになっちゃった。そうでもないと耐えられなくって」

「いいよ。大丈夫」

 横顔に、内省のようなのが浮かんでる。「私も軽率だった」を言い出せなくて心を晴らせない、困った様子。居た堪れない気持ちが僕にも同調する。

 一歩寄り添えばわかることを、誰もがそうしたがらない。

「そらには加減しないつもりだった」

「わかってる。感謝してるよ」

「ボリュームの調節って難しい」とひかりは言う。

 凛として冷酷、に見えるけど、澄んだ世界に浮かぶ、優しい光。

 現れたのかも。

 もっと早くに出会えてればよかった。

 でも。

 僕は首をふる。

 これ以上はやめとこう。なんだか疲れてしまったし、こんな地平のすれすれに立っても、打ち明けるのに恐れることがあって。

 衣擦れの、体が凍えるふりをして踵を返す。

「戻ろ。風邪ひくからさ」と僕は言う。


 ✿


 僕の決意はどうしても島でなければってほどでもなくて。

 ただ、いちど納得させた態度を軟化させることがむずかしい。

 場所を求めて湖と島のことを知った。そこにつきはを置いてみたら想像がすんなりいった。最初に当て込んでいた山あいの砂防ダムよりも、適切な気がした。

 その島はいま月の出ていない夜に黒く溶け込んでしまってる。

 たどり着けないもどかしさを感じながら、ほうきを壁に立てかける。午後から小雪がぱらついて、掃いていた。

 心地いいめまいを感じながら僕も壁にもたれかかる。

 ウッドデッキの後ろには深い森が広がっている。すぐに暗闇に溶け込んで、平面だけの森だけど、島よりは近いし、どこか生々しい。

 肩の雪を払いながらじっと見る。

 いよいよのときには分け入いってしまおうか。シラカバの群生に囲まれながら、つきはとともに。

 うまく想像がつかない。やっぱり島の方がいい。

 頭の雪も落としてノブに手をかける。

 ドアを開けると暖炉のぬくもりが迎えてくれた。それと、オニオンスープ。

 ごくろうさま、とひかりが言う。

「ね。暖かったでしょ」

「僕には違いがわからない。冬は冬」

 雪の日の方が気温がすこし高い、という話をひかりがはじめて、訝しんでみたら体験ツアーという名のひと仕事に、僕だけ。うまくのせられた。

「寒いのは苦手なんだけどね」

「それなのに渡ろうとしてる。正気じゃない」と笑う。

 ほんと、僕もそう思う。ちょっと濃い目のコンソメが身にしみる。

 それをハムスターでも愛でるみたいに見下ろしながらひかりが言う。

「でもさ、渡ってどうするの?」

「夜を眺める。眺めるだけ」

「つきはさんと」

 何日かかってもね。と僕は答える。

 ひかりはカウンターに肘をついてすこし考える。

「それさ」と言う。

「うん」

「今ならいいよ、この季節ならね。島には冷凍室がある。でもそらはもっと早くに訪れたかった。南国リゾートのバカンスのために」

「言いたことはわかる」と僕はうなずく。

 でも、道具はいらなかった。

 丈夫な縄も有毒な気体も鋭利な刃物も、そういう、ぎゅっと圧縮された体験は僕には恐ろしかった。それよりも代謝と熱量を絶交させる想像に安らいだ。そんなやり方も途中で錯乱するかもしれないが、余力さえ失った後は、静かに夜を眺めていられそうで。

「平穏でありたいんだ。みっともなく暴れまわったあとの、最後の凪。身動きとれない体のなにもかも受け入れて、つきはの名前をささやきながら、ゆっくりまぶたをおろす。それだけで納得できるし満たされた気持ちになれると思う」

 コートを脱ぐとひかりが手を差し出した。

 預けて、壁のフックまで向かう背中に、僕は続ける。

「眺めるっていうのが性に合ってるんだよ。痛いのも嫌だし苦しいのも嫌だ。引きかえ、なにかの状況に耐えるってことなら、昔からやってきた。それなら大丈夫そうだなって」

 だから湖畔にも白い痕を刻んだ。

 湖まで、かなりの距離だってことは知っていた。踏み出してみると思うようにも進めなくって、目測よりずいぶん比重の大きい道のりだった。

 おかげで着いてから熱に浮かされもした。けど行動それ自体は、まあ、こんなもんかってくらい。

 最中も、振り返ってみても、別にどうってことはない。

 ひかりはフックの横の壁に背中を預けて、両手とも前の腕組みをする。だけで口は開かない。仕方なくまた僕が続きを引き取る。

「先にゴールがあることは、僕はいくらでも耐えられる。感覚と感情の配線を切って、ひたすら目的を遂行すればいい。それだけ。遅々として進まなくても着実に残りは減ってく。残りが減ってくなら、いくらだって簡単なんだ。減ってくならね。湖にも無事たどり着いた。楽な課題だったよ」

 聞いて、やっと端的に言う。

「そら向きなわけね」

 その奥に僕の過去を覗こうという目だった。

「少しずつ蝕まれてくやり方が合ってる」と僕は答える。「だから、もし使わないブランケットでもあれば、譲ってもらえないかな。それと飲み水も。少しでいいから、できれば」

「ブランケット。と、水?」

「そのときがきたら。凍えるのも渇くのも嫌だからさ」

「注文の多い」とひかりは笑う。

「休業中なのにね。いいじゃない。最後くらい」

「でも、そんなやり方、時間がかかりすぎる。途中で救助されて醜態さらしちゃうのがオチ」

「仕方ない。祈るばかり」

 ひかりは腕を解放して肩をすくめる。

 救助。救済。

 わかってる。こっちの希望如何にかかわらず、なにかそういう手がくだされてしまうんじゃないか不安はたしかにあって。

 ただ、望んじゃいない。肉体的な末期には尊厳が認められて、精神的な末期には認められないのも僕にはおかしな話だし、なにに変えても命の方が重いという価値観も、やっぱり僕には理解できない。

 救われたって、その後の無慈悲と向き合えばまた同じことを繰り返す。

 だから、半端にしかやれないのなら、なにもせず飲み込んでもらいたい。放っておいてもらいたい。初めからくっきり線を引くように。

「納得できない」とひかりは言う。

 そう。君はそれでいい。こんな孤独の冬に、訪れるかもわからない人のために犠牲を払ってる。じっと耐えながら。美しい人だと思う。

 君はそれでいい。

 それが僕の望みとは矛盾してるから、あとは祈るばかり。

 氷が早く僕を載せてくれることも付け加えて。


 ✿


 すこし高さのある階段を手すりを使って慎重におりる。

 ブーツの金具が踏み板にこつこつ当たる音が、ゆっくり鳴って自分にも心地いい。そうしないと些細なことにもつまづいてしまう。

 つまづかないようにしてきたつもりが、つまづいてばかりだった。そしていつでも転落する。

 最後の一段も気を抜かずに踏む。

 おはよう、の言葉に小突かれた気がする。

「遅かったね」

 カウンターにかけながら僕は聞く。ちょっと。と答える。

 壁にかかった古い時計が6時を示してる。

 アナログ式の、最近じゃ店の中に飾られてあるのも珍しい。

 一階のレトロな様式は年季の入ったテーブルや丸電球の照明にも表れていて、バルの中は開拓時代のワイオミングあたりをちょっぴり彷彿させる。

 二十三年前に始まって、二年前に引き継がれた。

 物持ちの良い叔父だったみたいで、店で使ってる小物はグラスにしてもナイフにしてもお皿にしても、開店当時を固定した、古臭いとアンティークの中間くらいに位置してる。

 大切な遺品のように、ひかりも丁寧に取り扱ってる。どれもピカピカに磨き上げられて、ただ、ワイオミングとは調和しない。

 そこで呼吸をする僕らも、昼より前に寝て夕方に起き出す、歪んだ規則正しさの中に身を置いて、服装もまた、時空に迷い込んでいるようで。

 いろんなことが錯綜しているし、いつまでもは続かないっていう、危ういバランスで保たれた不安さに、全体が預けられている。

 ちょっと小突けば転落する。

「今日は特に調子悪そう」

 ミネラルウォーターをグラスに注いでくれながらひかりが言う。

 こぷこぷ、と音を聞きながら眉間をつまむ。

「夢がね。ひどかった」

「悪夢?」

「どっちにしろ起きれば現実」

 こんな暗がりに、ひかりは同調するような様子で小刻みにうなずく。

 僕はまた小突かれた思いを感じながら、

「少しだけ待ってもらえると。もうちょっとすれば直るから」とそれだけ言う。

 うん。と平坦に答えてひかりはクロスを手にする。

 僕は静かに目を閉じて、首をふりたい思いに駆られる。

 一体いつになったら島に渡れるんだろう。

 目覚めた瞬間どこにいるかわからなかった倒錯が徐々に薄れてきて、二階の客室が今や僕の部屋、という感じになってきた。叔父の私服だったもの、もずいぶん着慣れた。

 起きれば現実。

 シャワーを浴び、ひげを剃り、着替え、歯を磨き、パスタ、ジャンバラヤ、ボルシチ、ぶりの煮付け、食器の手入れ、掃除、薪割り、雑談……日々を繰り返し、月も太陽も出ない日はウッドデッキから看板のところまで二人がかりで雪をかく。一昨日はひかりが手すりのところに小ぶりの雪だるまを飾りつけていた。

 時間を消費するごとにひかりの『本当』とか『実際』とかの部分も肉薄してきてる。雪をかき分けてやってきたときには僕と分離されていた現実が、こうして段々分離できなくなってきてる。

 日常として無意識に受け入れるものが増えるたび、僕の決意が鈍くなってくのを感じるし、鈍くなるほど、ためらいが強くなってって。

 早くやめにしてしまいたい。

 最後にきゅっと鳴らして、グラス磨きの作業を終える。棚に並んだどれも新品みたいな古臭いデザインたち。

 カウンターをぐるりと、隣の席にかける。自分のグラスにもミネラルウォーターを注ぎながらひかりは言う。

「で。どんな夢」

「大した内容じゃない」

「悪い夢」

「いい夢だったよ。彼が死んだときの夢」

「彼?」

「誰でもいい。好きに想像してくれていいんだ」

 僕はそれだけ言った。これが精いっぱいって感じの口ぶりで。

「仲が悪かった?」と訊く。

「そうじゃない」と僕は答える。

 グラスの中身を少し口に含んで、静かに置き直す。それから僕は何も口にしない。

 固く心を閉ざした、というのが安易な表現なんだろう。飲み下せば、踏み込んでほしくない、よりも、こんな話は誰も求めてない。僕のことなんか。

 ひかりがじっとこちらを見据える。何も言わずにただじっと。僕は見返す。何も言わずにただじっと。

 壁の時計は針が鳴らない型式。

 振り子もついてない。

 暖炉で小さく焚き木が爆ぜる。

 石灰質の彫像にでもなった気分だったのに、それで時を認識させられる。

「夢だよ」と僕は言う。

 厚い氷は柔らかい熱で溶かさなきゃいけないとでも信じているような目だった。

「単なる夢」と僕は繰り返す。

「でも何かは生まれた」

「生まれたんじゃない。ずっとここにある」と僕は胸を指す。

「教えて」

 乾き始めた唇の水気を拭って、そこに爪を立てる。

 なぜこうなったのか自分でもわからない。こんな季節までずれ込むとは思ってなかったし島へはもっと簡単に渡れると思ってた。ランタンの灯りに導かれてからも、サフランが最後に嗅ぐ料理だと。

 僕は一体何をやってるんだろう。

 なぜか想像はいつも違う結果をもたらす。僕の思いもよらないような。そうやって小突かれてばかりきて転落ばかりしてきた。それが僕に科せられた、はじめから島に渡ることを定められし宿命、みたいにずっと感じてたのだけど、なら、これは?

 思い通りにいってくれない。

「彼が生きてるあいだは踏み切れなかった。恐怖が拭えなくて」と僕は言う。

「なぜその人が?」

「僕が島に渡ったら、彼はきっと悲しむだろうなと考えた。誰かにそういう枷をはめてしまうんじゃないかって想像が僕には恐怖で。でも、彼が亡くなって、やっとそこから解放された。本当にさ、不思議なくらい、さっと恐怖が引いてったんだ」

 もうこれで誰もいない。

 人生で初めて感じられた心の平穏。ってくらいに。僕はとうとう運命に追いついたと感じたし、すんなりとも受け入れられた。

 ひかりは憐れむように首をふる。

「そら。彼だけじゃない」

「彼だけだよ。そこまで悲しむだろうという僕の想像は」

 すこし押し黙る。

 二年間のひかりのこれまで。と僕のこれまで。

 お互いに押し付けられない類の沈黙。

「そらはその人から必要とされてた」と小さく再開する。

「必要、とはちょっと違うかな」

 彼との関係はそこまで緊密ではなかった。適当な表現が思いつかないけれど、例えるなら僕を三島由紀夫として、対する川端康成、のような。

「わからない」とひかりはかすかに笑う。「でも、彼がいなくなったことで本当の孤独を味わったのは、たしか」

「うん。だから楽になった。本来あるべき場所にやっと落ち着いたような気がしてさ」

 諦観。のようなもの。

 訃報を望んでいたようで、ひどく申し訳ないけれど。

 ひかりは言う。

「ここに来る人は、みんな誰かから必要とされたいって願ってる。だけどそらは他の人とは違ってる」

 だと思う。と僕は答える。

「言ったろ、僕は体質的にできないことが多い。頭の方も、みんなが当たり前に行ってる社会生活を送れない。精神的にも同調はまず無理だ。真似しかできない。誰かから必要とはされたいけれど、実際にされると、いずれかの性質に阻まれて、迷惑ばかりかけてしまう。そういう事実が僕自身の重荷にもなる」

 だから楽になった。

 孤独に傷つけられてきた自分が孤独の深淵に触れて初めて安息を得られたっていうのは、ちょっと皮肉的ではあるけれど。

「そらが望むならここにずっと居てくれてもいい」

「ありがとう。嬉しいよ。でも一過性だと思ってる。長く触れあえば君も幻滅して厄介者のように僕を見ることになる」

「悲観はやめて」とひかりは冷静に言う。

「ちがうよ。客観」と僕は言う。「そういう目を今まで何度も見てきた。居た堪れないんだよ。期待をかけてもらったのに応えられない自分の情けなさみたいなやつが」

 僕だってなりたくてこんな体に生まれたわけじゃない。けど、諦観。元々この世界に居ていい存在じゃなかった。

 もがいて、あがいて、気流を乱すだけ、して、最初から干渉しないことが最も安定してる。ごめんなさいの気持ちに押しつぶされそうだ。

 誰もわかっちゃくれない恨み言が、より一層。

「本当は彼が亡くなってすぐに、のつもりだった。色々処理してたらこんな季節までずれ込んでしまって。正直いってつらいよ。時間が経つに連れ徐々に恐怖が蘇ってきてる」

「それならやめたほうがいい」

「やめてどうするの?」

「ここで」

 僕は努めて首をふる。

「僕も疲れた。望むべきでないこと、なのに望んでしまって、何一つ叶えさせてもらえないこと、返って迷惑ばかりかけてしまうこと、そういう僕自身に。もう誰も困らせたくない」

「いてくれれば私は助かる。春になったらここも忙しくなる」

「やめてほしい」

「やめるのはそっち。望むべきでないなんて妄想は」

「君は知らないから言える」

「なにを。そらのこと? これから知っていけばいい」

「知れば幻滅するんだって」

「一緒にしないで」

「みんな初めはそう思う。初めはね」

 だから、もう小突かないでくれ。

 小突かれれば、そうじゃないってわかっていても、望んでしまう。

 でも、不安定な均衡のその下には恐怖しか待ってない。やっとこのぐらつく足場まで登ってこれたのに、また落とされるなんてのは勘弁してほしい。

 なんなんだろう。

 たまさか最後に訪れたバルに、ここまで熱心になってくれる人がいた。

 一体運命は僕に何を希求してるんだ?

 ……それとも、恐怖に苛まれたまま島まで向かうことさえ宿命の内訳なのか?

 まだ楽でいられる。

 まだ、耐えていられる。いたずらに小突かないでくれ。

 グラスの中身を飲み干す。

 全然酔った気がしない。

 相変わらずひかりの目がこっちに向いている。何かを含ませたと僕には思える目。実直で誠実で、と僕には思われる目。

 対してここにある不誠実。

 もしかすると僕も同じになってしまうかもしれない。ここで黙っていたら、僕の前にくっきり線を引いてきた彼らと僕と。それじゃいよいよ僕は矛盾する。

 そうはなれない。からここまでやってきた。

 もう一度グラスを傾ける。中身は水滴一粒、僕の舌に触れる。

 置いて僕は言う。

「わかったよ」

「思い直した?」

「違う」

 観念した。白状してしまおう、最後の一つまで。

 どこかから誰かの嘲笑が聞こえてくるようで悔しいけれど。

「よければ、度数のあるやつ、もらえないかな」

 ひかりはカウンターを回り込んで、奥の棚の銘柄を物色し始める。

「なんでも?」

「酔えるなら。飲んで、すこし夜風に当たりたい」

「なにか食べてから」

「いい。このままで。こんな立場でお酒なんて……」

 カウンターの上に乱暴に瓶が置かれる。顔にはちょっと挑発的な笑みが浮かんでる。へりくだりはやめろ、と言いたいらしい。

「一番安いやつ」

 酔いやすいからね。と僕は強がって答える。

「それと、できれば君も。お酒と夜風。聞いてもらいたいことがある」

「飲めないから夜風だけ」

「わかった」

 僕がひっかけてるあいだにひかりはコートを用意する。

 羽織って僕たちは外に出る。


 ✿


 ひさしの長いウッドデッキに、ニスで仕上げられた紐吊り式のベンチ。

 夏には常緑樹の並木道と湖の光景がいかにもって感じで、僕のようにではなくここを訪れる人たちが好んでかけてゆくらしい。

 今はだいぶ寒々しい。

 遠巻きに見る並木道や湖畔は毛羽立った絨毯を全体に敷き詰めたようなんだけど、太陽と、新雪と、に当たってもまだ、例の白い痕の名残りが、かすかにわかる。

 どっちかっていうと月が生み出す陰影が忘れさせてくれない。

 君には話しておきたいことがある。

 切り出し方がわからなくてぼんやり陰影を眺める。

 白い息ばっかりのぼってく。

「寒いね」

「寒い」とひかりが言う。「特におしりが」

「君は立ってても」

「横にいる」

 そう。と僕は答える。

 何もしないでいると背中が丸まってく。と手すりが邪魔して景色が消える。残念だから背筋をただす。三回くらい繰り返したらひかりが笑った。

 僕も笑っておいた。

「今こうして物を認識してるって感覚が理解できない」

「離れて見える?」

「ううん、密接にくっついてる。それが不思議でならないんだ。島に渡ろうっていうのに、それまでの現実より現実感が強くって。本当にこれが消えちゃうのか、ってさ」

「お酒、足りてないね」

「強いほう。あんまり酔わない。ただ、口は軽くなる」

 ゆるく、かも。

 でもまだ切り出せない。もう一杯くらい必要だったかも。

 ため息を吐く。尻込みのため息。

 月と、星と、雪と、眠った静寂と、つんとする冷気の匂いや肌触りと、冬だけが持つ独特の夜の全体を僕は眺める。

「夜が一番美しいのはこの季節だと思う」

「かもしれない」

「寒いけどね」

「寒い」とひかりは笑う。

「美しいってことには苦痛が伴うのかも」

「なにかの例え話?」

「わからない。気温は?」

「マイナスは下回ってるよ」

「なら氷点下の月」

「きれいだけど痛い」

「だから誰も美しくなろうとしない」

 横を見ると、また悲観、って顔をしてる。僕はかすかに笑う。

 その年頃で叔父の跡を継いだってのは、たぶん君は人生の感度をこちら側に合わせてる人ってことだと思う。

 会話の最中にもやっぱりそういう雰囲気を感じる。

 僕の方から急に調子を変えても素直に受け入れてくれるような気も。

 なら、なんでもいいか。

 やっとお酒の力。

「誰かに必要とされたい。孤独はいやだ」

「うん」

「できれば異性の」

「わかるよ」

「ってことは、そこにはやましい感情も含まれてる」

「別にやましくは」とひかりは笑う。「あって当然のことでしょ」

「僕が君にでも?」

 ……うん、とずっしり答える。「悪くない」

「のめり込みやすいんだよ、誰にも相手にされなかったから、返って」

「わかってる」

 とひかりは答える。二年間。経験が浅いなりに彼女も色んな種類の『僕』を見てきてる。中には居たんだろうな、ってわかる答え方。

「たぶん、このままいけば本当にそうなる」

「悪くないって」

 その悪くないはどっちの意味なんだろう。はかりかねるけど、まあいいか。

「相手の好意に触れて、そうなるんだ、僕の場合」

「魚心」

「そう水心。たまに現れるんだよ、手放しで僕に魚心を注ごうって人」

「居たんじゃん」とひかりは言う。

「いや、結局誰ともだよ。ありがたかったし、嬉しかったし、僕も本気でその気にってこともあったけど、結局ね。誰とも」

 そう。とひかりは言う。事実の裏にあるちょっぴり深いとこの事実を探り当てられた感じのするニュアンスだったけど、それも、まあいい。

 そっちは、どうせすぐにでも詳らかにすることだから。

「だけどさ、それでよかったんだ。ふと冷静になっていつも思い出す。考えてみれば僕は誰も求めちゃいけなかったんだって」

 紐釣り式のベンチの始まりは、叔父が幼い頃に見た映画のワンシーンから来てて、そこではアクション映画の筋から外れた、ありがちなロマンスが演じられていた。

 そこにこうして僕たちが腰かけるのは、暗喩としてはぴったりなんだけど。

 でも資格がない。僕には。

 誰にも話すつもりはなかったし、できれば島で風化して秘密は僕だけのもの、といきたかったとこだけど、やっぱりよくわからない運命だ。

 さっきのおはようの一言で小突かれた。

 たまに現れるんだよ、手放しで僕に魚心を注ごうって人。

 勘違いならそうあってほしいくらいなんだけど、萌芽っていうか兆しっていうか、まだその程度だけど、隣から確かに感じる。

 人生相談とかカウセリングとかの度をほんのちょっぴり越えた、そういう種類。

「生まれつき」と僕は言う。

 僕は男として生まれ、男として育ってきて、どっからどうみても男だし、自分でも男であると断言できる、特別な性嗜好のない、至ってストレートな、至ってトラディショナルな、シーラカンスやアンモナイトみたいな男。

 けど、生まれつき。

「僕は男としての能力を奪われている」

「能力?」

「生まれつき、とはいったけど原因はわからない。ただはっきりしてるのは、生まれたときのまま止まってる」

「止まってる?」

 いや。察してほしい。こればっかりは。

「部分の成長」と僕は崖際まで譲歩して言う。

 しばらくして、ひかりはそのあたりにぼんやり視線を落としながら、ああ、とつぶやいた。それがすぐ、なにいってるの、って表情に変わる。

「冗談じゃないんだよ。真剣に言ってる」

「……真剣」

 わかるよ。だからアルコールでも浴びないと無理だったんだ。特に君は女性だから何がそこまで重要なのか、って理解できないと思う。

「僕にとっては敗北の証だった。生まれついて男であることを否定されてるような、そういう象徴。かなり深刻な種類の話だよ。深刻で、根源的で、原理的な、そういう種類の問題」

 ……わかった、とひかりは、無理やり納得するって感じでうなずく。

「たとえば身長の高低や、容姿の美醜や、生まれついてある程度決まっていて自己努力のちょっぴり外にあるそういうことを、みんな競ったり、ときには誇らしげに感じたりもする。どうしてだろう?」

 そこには遺伝的要素の優劣が介在してるからだと思う、遺伝的に勝ってることを本能的に強みと受け取ってる。と僕は返事を待たずに答える。

「とりわけその機能は、僕には生命本来の第一義のように感じられる。ある民族を浄化したいなら弑逆より生殖能力を奪えばいい。百年後にはみんな消えてしまうわけだから」

 そういう、生命として最もプリミティブな機能を、僕は生まれながらに剥奪されている。それってまるで袋小路に追い詰められた突然変異体みたいなもので、僕らが遺伝子を媒介する有機体であることの根っこからの否定を、僕に突きつける。

 生物であること。生物学的なオスであること。男であること。

 優劣とかじゃなく、そもそもの否定。

 なにをも残せないということの明白な象徴。宿命的な敗北。

「だから、昔から人前で裸になれない。この国に生まれるとそんな機会が多くて大変だよ。色んな理由をこじつけて避けてきた。潔癖症のふりをするのが一番楽なんだけど」

「見せられないものなの?」

「決して。深く悔いてる犯罪歴といっしょ。僕にはそんな覚えないのに」

 健常な他人のそれにどれだけ羨望したかわからない。あいつのも。そいつのも。真っ当に生物の義務を果たせるように作られている。だから行使の自由が彼らには与えられている。

 僕にはないもの。

 どんなときだって心のなかでは彼らの薄笑いが聞こえてる。

 だけど問題が個人の範囲に留まってるあいだは、僕もいくらか諦めをつけられる。無理やりにでもつけてきた。

 どうせこんなもんだ。って。

「肝心なのは、おかげで女性を愛せないってこと」と僕は言う。

「愛せない?」

「つまり肉体的に」

「肉体的に」

「僕だって男だからさ、そういうこと、強く望むんだ。心から愛してる女性を肉体的にも愛したい。もちろん僕も愛されたい。下品な話だと思わないでほしい。僕には崇高な、ひどく美しい精神活動の一環のように感じられるんだ」

「お互いに、愛し合ってればね」

「諦めてきたんだよ」

 と僕は言う。ひかりはすぐに首をふる。

「愛せないかどうかは」

「試してみないとわからない?」

 ひかりはそれとなく答えを濁したいようなうなずき方をする。

「いや」と僕は言う。

 だからさ、そうじゃなくってさ。

 君で試させてくれとか、そういうんじゃなくってさ。

 決定的なんだ。決定的に僕は誰かを愛せない。生まれた瞬間から凍結してる。人と人とが触れ合う中で発生する特定の感情の、物質的に反映させる能力の決定的な欠如、と否定。

 僕たちが生物であるのなら当然のおこない。

 だから僕はいつだって自分と自然とが隔たってる感じだった。仮に心から愛し愛されたとして、僕の方では自然に発生する感情に従えない。

 試してみなきゃわからない。たしかにそうだ。だから機能より、精神的にのほうが、比重が大きいのかもしれない。

 そこに一歩踏み出すことは怖いし屈辱的だし情けない。男同士で比べるよりも、もっと大きな惨めさを、その想像の中で味わう。

 ベッドの上で、凍結を晒しながら、泣きじゃくって謝罪する。

 愛せないこと。

 分かち合えないこと。

 だから誰にも話せなかった。

 こんな水際で、こんな特殊な場が設けられた今だから、やっと君にだけ話せた。薄々感づいてる人はいるだろうけど、僕自身から白状したこともないし、今だって話したことを後悔してる。世界中探しても君しかいない。

 真っ当に人を愛したい。

 愛されたい。

 できなかった。できない。

 シーツで胸を隠しながら注がれる、それまでの感情すべてを消え失せさせた、過去の人物を睨める視線。あるいは蔑み。あるいは罵倒。

 いや、それよりも……。

 生まれ落ちたこの境遇に、もしも相手が寄り添ってくれでもしまったら。そう考えると、その方が僕には怖い。

 だって仮に精神的な結びつきの方を重視してくれる相手でも、僕たちって無菌室の中でずっと暮らし続けるわけにはいかない。前提として外に出られることが約束されてるから、そこで暮らせる。

 から、たまには自然の場所に還るべきだし、僕の手が相手の腕を掴んで離さないことが、あるいはお互いに掴み合うことが部屋を出られない原因なら、僕の方からその手を離して、森にでも川にでも相手の自由のために、解放してやらなくっちゃいけない。

 きっとそういうさなかに相手には苦痛を与えてしまう。僕に好意を寄せ、僕が応じなければ、発生しないはずだった苦痛。

 最初からそうなるとわかっているのなら、誰かの腕を掴みたいだなんて、望むべきじゃない。

 もちろんやりようはいくらでもあると思うけど、それさえ僕とでなければ必要のない工夫。僕は僕の幸福のために他人を巻き込めないし巻き込みたくない。何より愛する人を巻き込むだなんて。

 求めたい。

 けど求められない。資格がない。

「そらが悪いわけじゃない」

「でも結果は背負ってる」

 そうね。と力なく認める。

「病院に相談とかは?」

「しなかった」

 なぜ。と僕には冷酷に、聞く。

「惨めなのもそうだけど……それに」

「それに?」

「僕は自分でも歌を詠むんだ」

「歌」

 とひかりはつぶやく。

「こういうことにはいつから興味がわいたんだろう。たぶん、生きてる証を残したかったんだと思う。誰かに認められたかった。結局日の目を見ることはなかったけどね」

 ただ、自分ではこの感性を気に入ってる。誰にも伝わらないし、もやがかかったような思考だけれども、芸術っていう特殊なところでは、独創的でいられるような気がして。

「普段だってそらは面白いよ。悲観さえなければ」

「悲観のつもりじゃないんだけどね」

「聞かせても平気?」

「なら後で」と僕は答える。

 僕の唯一のよすがみたいな、この感性が一体なにに根ざしてるのか、は僕にもわからない。よりも、わからないから恐ろしい。 敗北や否定と表裏一体のとこに張りつているのかもしれなくて。

「治療したら消えてしまいそう」とひかりは言う。

「どう転ぶか僕にもわからないけれど」

 転んでしまったら取り返しのつかない、そういう恐怖。

 島に渡るか渡らないか。僕にとっては同じ深度の問題だった。

「だから、さ、もう何もかも分離したい」

 僕と何か。何かと何か。隔たってるのにくっついて分離できないもの。体の問題。心の問題。頭の問題。生物的の問題。望みたいこと。望めないこと。癒着して鬱血して壊疽のようになって。

「誰かを必要としたい、必要とされたい、こんなことはぜんぶ僕には虚構なんだ。それなのに呼吸をしてるあいだは必ず望んでしまう」

 だから君にも小突かれた。

 すべて現実に置き去りにして僕だけ分離してしまいたい。

「ぜんぶ一人で背負わなくたっていい」

「相手の顔に苦しみを認めると、僕も苦しくなる。この苦しみも分離できない。独善的に幸福を求めたら、それこそ僕じゃなくなってしまうんだ。なら、どうやって僕は現実の中に幸福を見出したらいい?」

 島に渡るのも恐怖。でも渡らないのも恐怖。

 おなじ恐怖ならその先で耐えなくって済む方が、もう僕には楽で。

「もしかして、つきはさんに実体がないのって」

「望まなくて済むからね。そんな人、現実のどこを探してもいなかった。だから勝手に作り上げた。理想は彼女しかいない」

 ひかりが悲しい目でこっちを見てる。そんな顔だって、させたいわけじゃない。

 僕は答える。

「つきはに会いに行く」


 ✿


 ウッドシャッターが窓を叩く。逃げ場を失って震えているようにも聞こえる。

 吹きすさぶ音と妙に噛み合ってない。

 薄暗く、薄寒く、太陽は雲に隠されて月も多分まだ出ていない。

 また夢だ。

 今日の夢も最悪だった。

 見覚えのない街並みに、見覚えのない髪型をしたひかりが立っていた。青い浴衣だった。帯に黒い柄の扇子を差していた。

 ひかりの手を取って、打ち上がる花火を二人で見上げた。お祭りのストリームから外れた人気のないアスファルト。

 一瞬時間が飛んで、ひかりが上目遣いにこっちを見てた。上気した、って感じの、すこし怯えたような目。肩を寄せて、僕は彼女の頭を撫でた。安らいで、しあわせ、って感じの表情に変わる。

 それからまた場面が移って、どこかの室内でひかりが赤ちゃんを抱いていた。近づくと、彼女はぼんやり口を開いて僕を見る。それがすぐに、繊細だけど温かい、母親らしい微笑みに変化した。

 おかげで中途半端な時間に目が覚めた。

 額の汗を拭う。僕は一体なにを求めてるんだろう。

 いや。夢だ。単なる夢だ。

 相変わらずガタガタと亡霊の行進みたいに響いてて、きっと外は荒れてるんだろうなって想像できる。ここに着いてから初めて経験する吹雪。

 白い痕を思い浮かべる。

 ジグザクに曲がりくねってまっすぐには刻ませてくれなかった白い痕。それでも途中から新たな道が、なんてことにはならず、目的地には結局着いた。

 なんだったのか本当によくわからない。

 必要のない事柄が多すぎる。けど、そうかもしれない。僕自身がこの世界に不必要だったから。

 元から生まれなければよかったものを、生まれてしまって、なにか意味があるんじゃないかとあがいて、その大半が不必要で形成されている。

 僕という存在。

 これまでに、みんなと同じように僕の前にも季節が現れて、みんなと同じように僕もいくつかの季節を目の当たりにしてきた。季節だけは誰のところにも公平にやってくる。

 でも僕が皮膚に感じることはみんなとは違ってた。

 いつだってそうだった。

 梅雨の雨のように流された。

 夏の陽炎のように届かなかった。

 紅葉の終わりのように散らされた。

 どれも僕の中にある季節。

 どれも僕に刻まれて、僕がつけてきた白い痕。

 思いがけず季節を遅らせてしまったけれど、停止した冬というのも、そう思ってみればばおあつらえだ。

 暖かくなれば決意はもっとなまってしまいそうだし、春だけはなんだか叶わない憧れのようだから。

 不穏の窓を見る。

 せめてどれか一つだけならね。と僕は思う。だけどすべてだったからな。類別してインデントをつけなくちゃ僕にだって整理がつけられない数々の。

 梅雨に共感できる人、夏になら夏の、紅葉になら、冬になら、それの。探せばいくらでもいるはずだ。全部をいちどきにってなると、一つ積み重なるごとに、隔たる。おかげで僕が隔たりを感じる自然には、あらゆる他人も含まれて。

 どんな人、どんな誰と接していても、結局僕の方からもくっきり線を引いて分離させてしまってた。でないと返って彼らに近づくことができなかった。本当の自分はいつも遠いとこにある。

 人を誰かを、はじめっから、愛せるはずがない。のに、心は。

 でも、もういい。わずかに残った痕も、この吹雪にすっかり埋もれてゆくはずだ。消える。消してしまいたい。

 僕という存在。

 午後二時。

 ひかりはまだベッドに横たわってる。なら、悪夢もおあつらえ。

 ここでこんな暮らしを続けていたらきっと僕のほうが離れられなくなってしまう。のめり込みやすいからな。でもなんとなく、いつものそれとは違うって感じる。一度その感情に落ち込んだら今度のからは一生抜け出せなくなってしまいそうな、そんな。

 最悪な夢だった。

 以上に、不思議な人だ。だから僕には残酷で。

 バルに降りて、そこにひかりがいたら、わかる、その瞬間に今までよりもっと大きな恐怖がやってくる。おはようと小突かれて、奈落の底の石筍に落下の速度で貫かれてしまう。

 いないほうがいい。

 ひっそりと挨拶せずに出てゆこう。

 そもそも渡れるのか問題は、もう、いい。凍えながらずぶずぶ沈んでいったならそのときはそのときだ。

「いや」

 と僕は首をふる。

 前に、ひかりが言ってた、南国リゾートのバカンスのつもり。

 そんくらいでいい。

 そう。そうしてしまおう。

 自然の神秘を感じたくて、ちょっと。五感を研ぎ澄ましたかったんで何も口にせず毒素を排していたんです。こんくらいでいい。半分酔狂、のノリで。それなら気持ちも楽になる。

 よし。

 と一つ心が決まってベッドの脇から腰を浮かす。

「聞かせても平気?」

 ああ。歌。

 そういえばそうだった。

 約束くらいは果たしてあげないと。僕のせめてもの生きた意味にだってなるかもしれない。

 だから、僕はこれから部屋を出て、慎重に階段を降り、バッグから取り出した書き溜めのノートを、無人のカウンターの上に置く。

 誰にも見送られずに、入り口のドアを開け、吹雪の中を湖まで突き進む。

 もう他におかしな運命はおこらない。はずだ。

 ひかり。

 と無意識に頭の中にこだまする。

 首をふる。

 ちがうんだよ、彼女は理想の人なんかじゃ決してない。思い出そう今までの僕を。

 つきは。

 とつぶやき直す。

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つきは 内谷 真天 @uh-yah-mah

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