-11 悪い時代って
〈お腹が空いた……〉
その時私は、ぼんやりとマーケット通りを歩いていた。誰かが私を呼んでいる?きょろきょろと辺りを見回したが、それらしい人影は見当たらなかった。
私はなぜかその声が気になって、通りをうろうろした。
「シス、お嬢ちゃん」振り向くとフラナリーがいつもの笑顔を向けていた。「探し物かい?迷子の子犬ちゃん」
私はいつのまにかフラナリーの果物屋の前まで来ていた。彼は店の外に出て、丁寧にリンゴや梨をカゴに並べているところだった。いつもの優しい笑顔だったが、その表情にはどことなく影が差しているようだった。
「果物のいい匂いに釣られちゃいました」
私はフラナリーを元気づけようと冗談を言った。彼は小さく笑ってくれた。だがすぐにため息をついた。
「噂は聞いたかい?ばあちゃんから聞いたおとぎ話だと思っていたよ」フラナリーの声は少し震えていた。「この町で何が起こっているのだろうね。魔女ハンター。彼らはまるで病気のようなものだ。私が子供の頃、ここからそう遠くない村に彼らがやってきたそうだ。村に住んでいた友達とは二度と会えなくなった。ばあちゃんはそう言っていたよ」
彼は頭を振り、果物を並べ終えた。軒下のハーブたちにゆっくりと水を撒き始めた。
「暗い話をしてごめんな、子犬ちゃん。なんだかハーブたちも、しおれてきちまったみたいだ」
魔女ハンター。ここでもその話が。
私の心臓は高鳴りつつも、それ以上にフラナリーの表情に胸を打たれた。花壇を見るフラナリーの悲しげな面持ち。私はこれを前にも見たことがある……。
そうだ。
レイブンズブルックへ来たばかりの頃。母と喧嘩した時や、嫌なことがあった時、私はよくマーケットを一人で散歩していた。行く当ても無い、気の重い散歩道。そんな時、通りにそよぐ華やかな香りに気が付く。紫の花があった。花壇の中に佇んでいる。私はそれを、近づいて黙って見つめていた。
「ラベンダーを植えたばかりなんだ」ふさふさの髭を生やした男性が、額の汗を拭きながら言った。フラナリーは今よりも顔のシワが少し少なかった。「悩んだ心を癒やしてくれるそうだよ」
私は曖昧な返事をしてから、花壇の前の店構えを見渡した。
「果物屋さんですか?」
私の質問にフラナリーはウインクした。
「そう。そうは見えないかもしれないがね」
私が店の前の鉢植えに広がる色とりどりのハーブを見つめていると、フラナリーは横に並んで付け加えた。
「妻が好きだったんだ。さっきのも、あいつの受け売りさ」
そう言って、フラナリーは少しだけ悲しそうな顔をした。その顔を見た瞬間、目の前のハーブの香りが、それまでとは違う、深い複雑な彩りになったような気がした。
「お水をあげるんですか?私、お手伝いします」
フラナリーが手に持っていた水差しに気が付いて、私は思わずそう言っていた。フラナリーは私を見て、笑いジワを目一杯深くして笑った。
「ありがとう、お嬢ちゃん。代わりに花の名前を教えてあげるよ。こっちからラベンダー、ローズマリー……おっといけない、私はフラナリーと言うんだ。ハーブの名前じゃないよ。お嬢ちゃんは……そう、シスちゃんか。良い名前だ。そうそう、そっちのタイムには……」
〈リンゴを食べたい……〉
再び聞こえた声ならぬ声によって、私は我に返った。今度ははっきりと聞こえた。しかし、フラナリーの様子に変化は無かった。私だけに聞こえている?
いくつかの不思議を抱えたまま、私はその場を後にした。
***
日が経つにつれ、囁き声は大きくなっていった。銀の剣を携えた見知らぬ人物が、街の噂話や説明のつかない出来事について質問している。収穫に向けて活気づいた街の雰囲気と、緊張感と警戒感に満ちた静けさが同時に広がっていた。
市場通りはいつもより楽しげで広く感じた。しかし、一歩内側の通りに入ると。そこはいつもより狭く、影が濃いように感じた。
市場で働く人達は会話を短くし、小声で話す事が増えた。人が集まると警戒して、目を光らせていた。
いつのまにか私は、耳に届くはずの無い噂話が、何故か聞こえることに気が付いた。離れた人の囁き声や会話の一部が、まるで近くで話しているかのように聞こえる時があった。
それは大抵、小さな動物の鳴き声を思わせた。意識を集中すると、それが人の言葉であるかのように理解できる。ヴァレンティンのお店での時と同じだ。
自分たちが若かった頃はもっと「悪い時代」だった、街中ではそんな言葉も聞こえた。レイブンズブルックの年配の人々たちの言葉だった。何かを懐かしむような表情。
「悪い時代」って何だろう?それが何を意味するのかについては、どこからも聞くことはできなかった。
***
「ワクワクしてきたわ」アリシアは興奮していた。
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