曙光

-10 秋の始まりと共に、力の流れ

日が暮れるのが早まり、肌寒い日が増えてきた。日差しが肌を刺すような夏が終わる。秋が始まろうとしていた。


銀の剣を携えた男性がやってきた。それはただの噂だったのかもしれない。秋風と共に流れ去ってくれれば良いのに。私はそう思い込もうとした。


頑丈な漁船が港へ泊まっている。マーケット通りには大きなカボチャやリンゴが並び始めた。ソーンベリーおばさんのパン屋さんからは、こんがりと焼けたパンの香りが漂う。寒い日は一層美味しそうだ。仕立屋さんを訪れた人々は、羊毛のざっくりとした布地を指で確かめていた。収穫と準備について語る礼拝の鐘の音がなり始めた。これからの季節に、皆が備えようとしていた。


街がにわかに賑わい始めている。でも、去年よりも冬が早く来るかもしれない。そんな予感がする。

朝になると、白い靄のような霧が、まるで生き物のように石畳にまとわりついていた。湿った石畳が足音を吸い込む。塩の香りの混じった海風が吹くと、体が芯まで冷たくなる。以前にもこういう時があった。こんな時は決まって寒い年末がやってくる。教会の鐘の音が遠くから聞こえた。

思わず、母のお下がりである薄手のマントとショールを体に引き寄せた。

小さな頃、こうやって着込んでいる私を見て、母は良く笑っていた。「お前は天気や自然の力の動きに特別敏感なのだね」そう言って私の頭を撫でてくれた。

「お前のお祖母様もそうだった。とても強い力を持っていらした」母の目は遠くへ向かっていて、懐かしむような、睨むような表情だった。

霊魂が支配する世界、木や火や土が支配する世界、生物の液体が肉体を支配する世界。魔女は、普通の人達には分からない、それら三つの世界を認識する。数週間前、アリシアと二人で聞いたエドウィンの言葉だ。

以来、その言葉は私の心の底に秘められた。日々を過ごしていると、これまで気にも止めていなかった私の経験が、ふとしたことでエドウィンの言葉と結びつくようになった。私の中を通る、流れのようなものが、少しずつ明確に意識され始めた。


***


明くる日、私がヴァレンティンの店の棚に商品を補充していると、小さな羽箒で耳をくすぐられたような感触がした。思わず顔を向けると、スパイスの陳列棚を影に、2人の女性が互いに顔を近づけている様子が見えた。

何を話しているかまでは分からない。彼女たちは、まるで自分たちを見張る何かがいるかのように、視線をあちこちに動かしていた。

私は気になって、彼女たちの会話が聞き取れないかと、集中した。すると、水のような何かが私の体を流れていくような、不思議な感覚が貫いた。お腹の下が少しだけ暖かくなって、その温かさがつま先から額まで駆け抜けていくように、ぐるぐると巡った。

その奇妙な流れが私の耳の近くを通った時、不意に音が聞こえた。リスの鳴き声のような音。

「……昨夜、居酒屋で見かけたのよ、例の人。いろんなことを聞いていたわ」

これは彼女たちの会話?人の言葉とは思えないような小さな鳴き声なのに、なぜか意味は分かる。不思議な感覚だった。

「……噂が無いか……集会に参加した人はいないか」

「いやだわ。私も聞いた。……悪魔との口づけの証し……腕や肩を……」

「まさか、魔女狩り……?」

「シーッ! 大声を……」

私は手に持っていた花瓶を落としそうになった。手に汗がにじんだ。 魔女狩り? ここ? レイブンズブルックで? ただの噂じゃ無かった。銀の剣を持った魔女ハンターは、本当にこの街に来ていたのか。私は呼吸を整え、震える手で花瓶を棚に置いた。

魔女ハンターがこの街を、すぐ近くをうろついている。想像でしか無かった恐怖が、急に現実となって私の心臓を掴み始めた。マーケット通りを歩く魔女ハンターの姿を思い浮かべると、背筋が凍る思いがした。

「大丈夫か、シス?」私の肩にヴァレンティンの大きな手が置かれた。長年の商売で付いたであろう、小さな傷跡がいくつもある。私の失敗を何度もフォローしてくれた手だった。

気が付くと、先ほどまでのリスのような鳴き声も、彼女たちの会話も、既に聞こえなかった。

あの音が何なのか気になったが、私は無理に笑顔を作り、うなずいた。「ごめんなさい、ヴァレンティン。ちょっと考え事をしていたの」

ヴァレンティンを心配させるのは嫌だった。だが彼は納得していないようだった。少し眉根を寄せ、視線を私に留めた。

「何か悩みでもあるのか?」

「その……なんでもないの」

「話してくれてないのか?」

「ごめんなさい」私の脳裏に母の言葉がちらついた。何も考えなくて良い。目立たないように、そこに居ないかのように振る舞えばいい……。

「本当に……大丈夫だから」絞り出すようにそう言った。

「分かった。変なことを聞いて悪いな。どうしても心配だったんだ」ヴァレンティンはため息をつき、真剣な表情を作った。

こんなにも心配してくれている人がいる。ヴァレンティンの言葉に、私は少しだけ心が軽くなった。

「ヴァレンティン、ありがとう」

私は精一杯の笑顔で言った。

「いいってことさ。もしもの時は給料から引かせてもらう。でもあれだけやめてくれ!凄く高い。一年働いたって弁償できるか分からないからな!」

フラナリーはさっきまで私が手に持っていた花瓶を見ながら心配そうに言った。

何だ、私の心配じゃなかったんだ……。一瞬そう思ったものの、さっき花瓶を落としそうになった事をすぐに思い出して身震いした。一年働いても弁償できない?

極力動揺を表に出さないように、「任せて!」と自分の胸を拳で叩いた。その拳の力が思ったよりも強くて、私は咳き込んだ。

「何をやってるんだ、シス。いや……むしろ花瓶を持っていた時じゃなくて良かった」ヴァレンティンは咳で苦しむ私の背中を擦った。幸いこの日は何事もなく過ぎた。


***


翌日の午後、空にはまだ灰色の曇が広がっていた。

それは最初、乾いた葉をこすり合わせたような音だった。やがて私はそれが言葉だと気が付いた。

〈リンゴを……〉

老人のような嗄れた響きだった。

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