-06 羊皮紙と紅茶の香り
私たちは1階の書斎へあがった。部屋の中には古本の羊皮紙や革表紙の香りが充満している。私の背丈の倍はありそうな本棚、両手を伸ばしても届かない位の大きさの机、生徒用のいくつかの椅子が置かれた、見慣れた光景だった。
「シスはいつもここで勉強を教わっているの?」アリシアがさりげなく周囲を見渡しながら尋ねた。
「うん。勉強といっても、手紙の書き方とか、本の読み方とか」最近は新聞の読み方も教わっているが、それはアリシアには言わなかった。
「ねえねえ、あれは何かしら」アリシアの視線の先、陳列ケースには、どこか遠い国のマスクや化石が並んでいた。
「うーん。お庭で拾ったのかな?」
「シス、それは冗談で言っているの?それとも本気なの?」
「さあ、どっちだと思う?」
私たちがふざけ合っていると、エドウィンが木製のお盆に茶器を載せて戻ってきた。淹れてくれたお茶は、あまりなじみのない不思議な香りがしていた。
「独特な香りですね。どこの葉ですか?」アリシアは親指と人差し指、中指の三本で繊細にカップを摘まみ、一口二口と味わった。
「東国シンナのお茶だそうだ。街に来ていた商人から買ったんだ。とても独特な味と香りだろう?一口飲めば、まるでその国に行ったかのような気分になるそうだ」
ガラス製の茶器の中では、薄紅色の花がお湯の中で開いていた。私はお茶をあまり飲んだことがないけど、見ているだけでも華やかな気分になった。一口飲むと、この国のハーブティーには無いような不思議な香りと味わいが広がった。
「まあ、僕はシンナには行ったことがないから、実際がどうなのかは分からないんだけどね。ちなみに、その商人も行ったことはないそうだ。そもそもこのお茶が本当に東洋のものなのか。それすらも疑問だね、あっはっは」エドウィンはお茶を手早く飲みながら笑った。
「まあ……それは……」いつも冷静なアリシアが言いよどんだ。珍しい光景に、私は声を出さずに少しだけ笑った。アリシアは頬を膨らませて「もう!」と私を睨んだ
「シス、君はそんな顔で笑うんだね」
エドウィンの言葉に私はどきりとした。誰かからそんなことを言われたのは、初めてだった。褒められているのだろうか、それとも揶揄われているのだろうか。少しの間考えを巡らせている間に、彼は本題を切り出した。
「それで、お嬢様たち。今日、どんな用事で来てくれたのかな?素敵なお友達の紹介に来てくれたのか、それともありがたいことに、僕のコレクションの見学に来てくれたのかな」エドウィンは背後の陳列ケースに少年のような瞳を向けた。
「そちらも非常に興味のあるお話なのですが」アリシアはお茶の入ったカップを、テーブルへ静かに下ろした。カップとソーサーの触れる音がほんの僅かに鳴った。
「フォンテーヌさん、私は先生のご専門に興味があります。大変貴重な研究をなさっておいでと伺っています。カルドリアの民話と伝承……」彼女は一瞬だけ書斎のドアに視線を送ってから、意を決したようにエドウィンを見つめた。「魔術や魔女の歴史について。先生のお考えを聞かせていただけませんか?」
アリシアは姿勢をまっすぐに正した。
分かってはいたことだが、魔女という言葉を聞いて、私は一瞬体が固まった。そのまま視線をエドウィンに向ける。彼は椅子にもたれかかり、思慮深げにメガネの位置を直した。先ほどまでの朗らかな雰囲気は、その奥に隠れていた。
「興味深く、そして複雑だ。この話題はね。ミスハント、お見受けしたところ、君は正当で立派な家庭で教育を受けておられる。今あなたがおっしゃったテーマは、そうした方針とは難しい関係にあるのでは?」エドウィンは教師としての表情で言った。
「不謹慎なのは承知しております」彼女は素早く切り返した。
「先生、これは学術的な好奇心です」そう言って、私にチラリと視線を送った。
言葉とは裏腹に、アリシアは膝の上でせわしなく指を組み直していた。目は私とエドウィンを交互に彷徨っている。彼女もこんな風に不安そうな仕草をするという発見に、私は驚いた。自信に満ちあふれ、迷いなど感じさせない、いつもの彼女では無かった。
でも、当たり前かもしれない。アリシアは私よりずっと賢く聡明なだけで、同い年の女の子。大人の男性、それも学者の先生と専門的な話しをするのに、いつも通りなんてことがあるだろうか。
そう思うと、急に彼女の不安げな表情が、かわいらしく見えてきた。
私は先日の雨の中、彼女から言われた言葉を思い返した。彼女は魔女について知りたがっている。でも、それは間違った憧れかもしれない。私の母は『魔女』という言葉すら口には出さない。ヴァレンティンのお店でも、魔女の話題がでることはほとんど無い。レイヴンズブルックに魔女はいない。いないことになっている。
彼女がそれを知らずにどこかで魔女の話をしたら。街の人はどう思うだろう。聞かなかったふりをするだろうか。蔑むだろうか。
好奇心できらきらと輝く彼女の瞳に、この街の暗闇はどのように映るのだろう。様々な意味で、それはとても嫌な想像だった。
エドウィン先生なら、魔女について『正しい』知識を教えてくれる。きっと上手な説明をしてくれる。そう思って、今日彼女をここに連れてきた。
そう思いながらも、どこか自分自身への言い訳めいた理屈だと、心の底で自覚していた。私はアリシアの持つ魔女への関心に対して、恐怖とは別の感情も抱いている。だけどその感情に対して、わざと見えない振りをしている……。
「アリシアは、魔術や、その、魔女に対して、勉強をしているんだよね。お父さんの書斎で本を読んでいるんだよね」
迷った末、私は彼女のフォローをした。
「どんな文献を読んだのかな?」エドウィンが興味深げに問いかけた。
「最初に読んだのは『魔術の発見』」アリシアは慎重に話し始めた。「作物を腐らし家畜を殺す魔女たちは、恐ろしい迫害や拷問の対象となった……。でも読んでいくうちに、著者はそうした魔女狩りに反対していることがわかりました。魔女狩りで告発されたのは人達の多くは貧しい老女で、魔女達の『害悪魔術』の多くは、単なる薬草療法やトリックであると示唆されています」
「あの研究は当時、かなり物議をかもした」エドウィンは頷きながらつぶやいた。
「誤解と恐怖のために、どれだけの罪のない人々が苦しんだのか。想像するだけで私は恐ろしくなりました。でも、人々があんなに熱心に魔女を信じるのか、その理由にも興味が沸きました」アリシアの言葉は次第に熱を帯び始めた。
「次に読んだのは『Saducismus Triumphatus』。とても現実とは思えないような魔術の数々。ぞっとしながらも、本当にこんな力が存在していたら?そう想像してしまう自分がいました」
エドウィンは思慮深げに髭を撫でた。「それは確かに興味深い資料だ。しかしジョセフ・グランヴィルは読み方に十分に注意を払わなくてはならない著者でもある。戯曲はどうかな?有名な作品もあるだろう」
「シェイクスピアは大好きです。先生も先ほど引用されていましたね」アリシアは嬉しそうに反応した「『マクベス』は何度も観ました。魔女はとても力強くて、物語の動かす中心的な存在。恐ろしい不吉な予言をしながらも、人々を行動へ駆り立てる。行動や同期の解釈ついて想いを巡らせるのは、私にとってもっとも楽しい時間の一つです」
「ねえアリシア」会話の隙を捉えて私は質問した。「お話の中の魔女は、人々の悪者として登場しているんじゃないの?あなたはどうしてそんな人達に憧れを抱くの?」これは私の本心だった。
「シス、それはね」アリシアは私を見て、年長者のように説明を始めた。「確かに、ほとんどの文献や戯曲では、魔女は悪として描かれている。ううん、違う。彼女らは悪以上の存在として描かれている。植物の持つ未知の力、人間が教育の中で失った自然の力、神々によって定められた運命の力。彼女たちはそうしたものを操り、人の為に使うことができる存在なのよ」
「人のために使う?でも、司祭様はそうはおっしゃらない」私はアリシアの年上風の態度に、少し反論したくなった。「魔女の魔法は神の定められた秩序を歪める悪だって」
「ええ、確かにね」アリシアは形の良い眉を僅かに歪めた。「でもね、ソロモン王も東方の賢者様たちも、自然の深い理を理解していた。私の……私たちの話す魔女と、そんなに違うものなのかしら」
「でも魔女は女性でしょ?」
「まあシス、つまらないことを言うわね。それは本当にあなた自身が考えた意見なの?」アリシアは目を丸くして、口を尖らせた。
「アリシアだって本の知識じゃない」私も負けまいと反論した。
「私は司祭様じゃなくてシスの意見が聞きたいのよ」
「まあまあ」エドウィンが議論に割って入った。
「魔女迫害の記録のほとんどは、地方の農村部や山岳地帯に集中している。それも百年以上前のね。かく言う僕も直接に見聞きしたことは無い。僕の関心もミスハントに近いのかもしれない。……しかしそれが迫害の根絶を根拠づける訳ではない。未だに迫害の報が出る地方もある。恐ろしいのは代理人の存在だ」
エドウィンは机の上の本を指で叩きながら続けた。
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