彼岸
-05 言葉は上に、思考は下に
空が曇り始めた。午前中の晴天が嘘のように。この街の天気は変わり易い。だから皆天気の話しが好きだ。突然雨が降ることもあるし、嘘のように晴れることもある。
雲に満ち始めた空を見ながら、私はアリシアの言葉を心の中でゆっくりと反芻した。
『レイヴンズブルックには魔女はいるの?』
さっきまでの楽しい一時は既に消え去って、今度は心臓が高鳴り始めた。左手の皮膚がぴりぴりする。急な変化、天気と一緒だ。でも大丈夫。私たちはこれまでも上手くやってきた。落ち着け、私。笑顔を作ってアリシアから目を逸らさないで。
「魔女?今は、そんな人達、居るわけないよ、アリシア」
「今は?昔はいたの?」アリシアは鋭く聞き返した。
「ごめん、そんな話、聞いた事無い。今も昔も。アリシア、とっても面白い冗談を言うんだね」
私は靴を整えるふりをして背を向け、その隙に自分の顔立ちを無関心の表情に整えた。
「お父様の本でね、読んだことがあるの。カルドリアに住む魔女の話。今からずっと昔には、この国にもたくさんの魔女がいたんですって」
「アリシア、その、言葉。その魔……って言葉。口にしたら駄目だよ。街の人が聞いたらびっくりしちゃうよ。アリシアの前住んでいた所では分からないけど、ここでは皆、その言葉は口に出さないんだよ」
「そうなんだ?ごめんなさい、私そんなこと知らなくて。怖がらせるつもりじゃなかったの」アリシアは悲しそうな声を出した。私はとても申し訳ない気持ちになった。
「だって、『その人達』って、悪い魔術を使う人達だって聞いたよ。作物を枯らせたり、猫や蛙に変身して人を騙したり。それで、その、もし『その人達』がみつかったら、国の人達に捕まって、裁判にかけられて、酷い目に遭わされてしまうんだって」アリシアに見えないように、ゆっくりと呼吸した。心臓はまだ高鳴っている。
「そう。私の読んだ本にも、そういう書き方をしているものはあった。『その人達』は悪魔と契約して、神の教えに背き、人々を堕落させようとした。カルドリアの外の国でも、『その人達』を迫害するための取り締まりが盛んに行われたという記録があったわ。100年以上も続いたんですって。口にするのも恐ろしい手段によって……。そのせいで、『その人達』はほとんどいなくなってしまった」アリシアは苦しそうな声を出した。
私は、ようやく心臓が少しだけ落ち着いてきた。アリシアへ向き直りできるだけ優しく言った。
「そうなんだね。でも良かったね。『その人達』がいなくなって」
アリシアは頭を振った。「でもね、今でも希に魔女狩りが起きる集落があるそうよ。最近また少しずつ増えてきているんですって」
私の背中に冷たい汗が走った。空に雲が広がり、ごろごろと音を立て始めた。
「アリシアは、見たことがあるの?『その人達』を」できるだけ平静を保って言った。
「いいえ、残念ながら」アリシアは再度否定した。残念ながらとはどういう意味だろうか?私は今更ながら、自分の無知を後悔した。ヴァレンティンのお店には新聞があったのに。もっと世間話をして、世の中のことを知っておくべきだったかもしれない。
「私の居た都市ではね、そんな話はほとんど聞かなかったの。魔女が居るのは、地方の街や村が多いんですって」アリシアは得意な知識を披露するように言った。「特に山間部や、森に囲まれたような場所。……そういえば、この街の近くにもあったわね。大きな森が」
ぽつりとしたものが顔にあたった。いつの間にか雨が降り始めていた。小粒の雨は一滴、二滴と服を濡らし始めた。
「あら、雨が降り始めた」アリシアが空を見上げながら言った。
急に冷えだした空気のせいだろうか?私は背筋が凍るような思いを味わっていた。母から教わった魔女狩りの様子が、頭の中で明滅した。
街の中で見つかった魔女は迫害される、激しい尋問と数々の拷問によって取り調べを受ける。言葉でだけ知っていたこれらの知識が、急に現実感を伴って私の前に現れていた。
アリシアは何を言おうとしているのだろう?何のために私に近づいて来たのだろう?
「アリシアあなたは」私は喉の奥から声を絞り出すように言った。「魔女を探しているの?何のために?」
アリシアは口の端を上げて美しく笑った。
「シス、あのね。あなたにだけ話すわ。どうか、私の事、おかしくなってしまった等とは思わないでね」
私は無言のまま頷いた。もし彼女が魔女を追っているのだとしたら。もし彼女が、私たちの敵だったとしたら、その時私は……。無意識の内に、左手に力が入っていた。
「シス、私はね」アリシアは一瞬息を飲んでから、決心したように言った。「魔女に憧れているの。ずっと、小さなころから……」
彼女のエメラルドグリーンの瞳が、繊細に輝きを変えた。澄んだ瞳だった。私はまだ知らないけれど、それは恋に似ているのかもしれない。恋をしたら、私たちはこんな目をするのかもしれない。
いつの間にか雨は止んでいた。ほんの些細な小雨。まるで、私たちが言葉を交わすための時間を作るための、一時の魔法のような雨だった。
***
聖ブリジット礼拝堂の近く、レイヴンズブルックの静かな一角。石畳の狭い小道を突き当たりまで進む。
そこには小さいけれど品の良い、質素なコテージが立ち並んでいる。風化したファサードは灰色と褐色の布を縫い合わせたような色合い。建物の年月を感じさせる。窓には、私も名前を知らないようなハーブの箱が飾られていて、風と共に爽やかな香りが漂ってくる。
私は振り返り、後ろを歩いているアリシアの様子を伺った。狭い道だけど、窮屈じゃないだろうか。しかしアリシアの表情からは未知の発見と驚きが覗いている。いつもの彼女だった。
「壁一面を厚いツタが覆っているわ。小さくてかわいくて、まるで妖精のお家みたいね!」私の視線に気が付いたアリシアが笑顔を返した。
「うん、まあね。風情があるよね」中に住んでいる人達が聞いたら複雑な顔をするかもしれない。そう思いつつ返事をした。
太陽が真上に差し掛かる頃、私たちは最後の角を曲がった。「ここがエドウィン先生のお家」現れたコテージを私が指さす。
「素敵」アリシアは息をのんだ。エドウィンの庭は、例えるなら子どもの遊び場だった。片付けをされない玩具がたくさん散らばっている。
見たこともない植物、木や金属の半完成品の仕掛け、目的の分からない器具が散乱し、自分たちの居場所だと主張している。
「あれは...風車のミニチュア?横にあるのは振り子かしら?まあ、かわいらしい表札ね。『自然哲学と民話の研究者フォンテーヌ』。知性のあるお名前だわ」
アリシアが手描きの木の看板に書かれた字体を上品な発音で読み上げると、コテージのドアが開いた。
丸眼鏡を斜めにかけた長身の男性が現れた。彼は片手で乱れた髪を後ろに束ねようとしながら、もう片方の手で斜めになった丸眼鏡を直そうとしていた。几帳面さと散漫さがちぐはぐに入り混じったいつもの仕草を見て、私は少し可笑しくなった。
「やあ。今日は可愛らしいお客様も一緒だ。ごきげんよう、お二人とも」エドウィンが気取らない笑顔で歓迎した。
「フォンテーヌ先生、お目にかかれて光栄です。先生の学識はかねがね伺っております」アリシアは腰を曲げながら片方の足を少し後ろに下げ、丁寧に挨拶した。
「ミスハント、こちらこそご足労頂き光栄です」エドウィンは片手を胸に当てて上半身を傾けた。そんな二人の様子をぽかんと見つめている私に気が付いたのか、エドウィンはすぐに仕草を切り替えた。
「どうもこういうのは似合わないな。堅苦しいのはやめよう。『My words fly up, my thoughts remain below. Words without thoughts never to heaven go』※(私の言葉は上に飛び、私の思考は下に残る。思いのない言葉は決して届かない)ってね。ちょうど珍しいお茶が手に入ったんだ。さあ、お嬢様方、中で一緒にお茶会にしようじゃないか」
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※ William Shakespeare,Hamlet (III, iii, 100-103)
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